愛に目覚めた凄腕ドクターは、契約婚では終わらせない
第五章 家族らしく
 キッチンに立っている愛妻が、朝食を作りながら機嫌よさげに鼻歌を歌っている。
 その歌を、藤本和樹は真面目に新聞を読んでいる体で、ひそかに聴いている。
 佳菜は寝起きがよく、毎朝パッと起きてきては軽く身支度をして料理しはじめるのだが、手を動かしながらよくいまみたいに歌っている。おそらく本人は無意識なのだろうが、やめてしまっては残念なので、指摘しない。
 歌は、子供向けの番組の主題歌が多い。なかなか上手いと、和樹は思う。
 佳菜は絵も上手い。この前、リビングで一生懸命最近流行りのアニメキャラを描く練習をしていたから横から覗いて見たら照れていたけれど、本物そっくりだった。
 そういう絵は、絆創膏に描いておいて、点滴の管を止めるときや注射のあとに貼るのに使うのだという。そのひと手間で子供が泣き止んだり、喜んだりするのだと言っていた。

 二人が籍を入れて、もう二週間になる。
 努力家で子供思いの佳菜は、和樹の自慢の妻だ。
 佳菜は、宗治が路上で倒れたとき、同じ病院に勤めているとはいえ、何百人もいる看護師のひとりである自分の名前を和樹が知っていたことに驚いていたけれど、和樹はずっと前から佳菜のことを知っている。
 二人が出会ったのは、実は藤本総合病院ではない。
 和樹が研修生として、当時宗治が勤めていた病院に行っていたとき、宗治に昼食を何度か届けに来ていたのを見て、可愛い子だなと思ったのが最初だった。
 もちろん、まだ高校生だった佳菜に声をかけようなんて思いもしなかったが。
 それから大学病院に戻り、夢中で修業しているうちに月日は経ち、和樹は二年前に藤本総合病院に移った。
 院内で佳菜の姿を見つけたときは、奇跡だと思った。
 冷静に考えたら、医者の祖父に育てられれば医療職が身近に思えるのは普通だし、佳菜の実家から近くて大きな病院といえば藤本が就職先としてまず選択肢に入るのも普通なのだが。
 最初はただ、佳菜の姿を見かけると嬉しくなるくらいだった。
 仕事で関わるようになると、患者思いで真摯な働きぶりに心を打たれた。
 和樹は大人の心臓手術が専門だから、子供の手術を手掛けることはめったにない。それでもゼロではなく、藤本病院に来てから三人、小学生以下の患者を手術した。いずれも川崎病という、熱によって心臓の血管がこぶのようになる病気だ。
 小児科からの引継ぎで、担当だった佳菜は患者に寄り添って心臓血管外科にやってきた。
 心臓が苦しいことで、子供は死の匂いを嗅いでしまい、怯えている。
 佳菜は気休めは言わなかった。ただ優しい笑みを浮かべ、ぐずる子供の手を握り、大人の患者に言うのと同じことを、平易な言葉で根気よく言い続けた。
 子供相手だからとごまかそうとしない、真摯な姿勢に胸を打たれた。
 神の手を持ちながら、「症例ではなく、ひとを診なさい」と口を酸っぱくして言っていた森下先生の姿と重なる部分があるなと思った。
 そんな佳菜を見て、絶対に手術を成功させねばと、和樹も自分を奮い立たせた。

「──和樹さん、できましたよ」
 食卓から佳菜が笑顔で声をかけてくる。可愛い。
 和樹はダイニングの椅子に座り、テーブルの上の朝食に目をやった。ご飯と味噌汁、玉子焼きにほうれんそうのお浸しと、並べられているおかずは純和風だ。昨晩の残り物の煮物も添えられている。
「いただきます」
 手を合わせて、ありがたくいただくことにする。
 佳菜は料理も上手い。祖父である宗治と暮らしていたせいか、和食が特に上手い。
 朝から出汁のきいた豆腐としめじの味噌汁を飲み、しみじみ幸せを噛み締める。
 和樹が、結婚してこんなによかったと思っているとは、佳菜は考えていないだろう。
 どうも佳菜は、和樹に「結婚してもらった」と思っていそうなところがある。
 どちらかというと、和樹が佳菜の弱みに付け込んだというのが正解に近いのだが。
 もっとストレートに愛情表現をするべきなのだろうか。でも仕事一筋の人生で、そういうことには慣れていないし、高校生のときから可愛いと思っていましたなんて言ったら、ストーカーだと思われかねない。それは辛い。佳菜には、仕事ができてかっこいい男だと思われていたかった。
「和樹さん? どうかしました?」
 悶々と考え込んでいると、佳菜が向かいの席で不思議そうな顔をした。
「いや……次の休み、一緒だったよなあと思って」
「そうでしたね。どこか出かけましょうか」
「行きたいところはある?」
「見たい映画があるんですけど」
 自分の意見をハッキリ言えるところも好きだ。
「映画か。いいね、久しぶりだ。行こう」
「まだどんな映画かも言ってないのに」
 佳菜がおかしそうに笑う。
 同居をはじめた当初はぎこちなかった会話が、いまではずいぶん滑らかになった。
 佳菜はきっとこの結婚を、愛情のない、宗治の治療を進めるための契約結婚だと思っている。宗治の手術が無事終われば、続く保障はないと。
 たしかに先走ったところはあるが、和樹は佳菜を離すつもりなどまったくない。一緒に暮らしてみてよくわかった。佳菜は和樹が思っていた以上に、素晴らしい人だ。
 家など寝に帰るだけのものだと思っていた自分が、こんなに家にいる時間を愛しく思うようになるなんて、びっくりだ。
 和樹の目下の悩みは、果たしていつ頃なら手を出しても許されるのか、だ。
 そう。結婚して半月が経つというのに、二人はまだ、キスひとつしていない。
 まず、入籍に至った経緯が経緯なものだから、ベッドがふたつある。
 その後、「たまには一緒に寝たい」と和樹が言ったことで、何度か同衾に至ったが、本当に同じ布団で眠るだけだった。
 すやすやと眠る佳菜を目の前にして、どれだけ自制心を試されたか。
 本当はたまにじゃなくて毎晩一緒に寝たいし、眠る以外のことだってしたい。
 それでも、和樹は我慢した。入籍までの手順をすっ飛ばしてしまった分、体の関係は、佳菜の心の準備がすっかりできてからにしたかったのだ。
 和樹が強く求めれば、佳菜はいますぐでもおそらく応じるだろう。それでは嫌だった。
「恋愛ものでもホラーでもコメディでも、なんでもいいよ。佳菜と観るなら」
「ホラーは嫌です。洋画のホームドラマです、観たいのは」
「了解」
 自分で言っておいて、ホラー映画はあまり得意ではなかったので、ホッとした。



 その数日後。
 最寄りのシネコンに行ったふたりは、佳菜が手洗いに行っている間に和樹が飲み物を買ってくるということで、いったん分かれた。
 手を洗い、ロビーに出た佳菜は、アイスコーヒーをふたつ持って柱のところに立っている和樹を見つけた。
 私服姿の夫を改めて眺める。結婚して一緒に住んでいるというのに、あまりのかっこよさに驚いてしまう。カジュアルな服を着ていても、背が高く、スタイルもいいから、まるでモデルのようだ。
 洗濯するようになってから知ったのだが、和樹はシンプルだけれどある程度値の張る服を愛用している。季節ごとにお気に入りのショップでまとめて購入しているようだ。しかも自分で選ぶのが面倒で、なじみの店員に一式選んでもらったり、マネキンが着ているものをそのまま全部買ったりしているらしい。それがまたよく似合っている。
 チラチラと、ロビーにいる女性客たちが和樹に視線をやっている。
 これで彼が医師だとわかったら、その視線はさらに熱気を帯びるのだろう。
 いまさらだが、自分が和樹の妻だという事実が信じられなくなってきた。
 いつまでも待たせているわけにもいかず、歩を進める。和樹が佳菜に気づいて、ニコッと笑った。病院ではけっして見せない、気の抜けた笑顔だ。自分に気を許してくれているのがわかって、嬉しい。
「お待たせしました」
「いや。それじゃ、行こうか」
 入場のはじまっていたスクリーンに、並んで入っていく。
 客層は、映画のジャンルがホームドラマだからか、親子連れやカップルが多い。脚が長いと窮屈なのではと佳菜は和樹の心配をしたが、いまどきのシネコンは前後の座席の間隔が広いので、特に問題ないようだった。
「……それで、どういう内容なの、この映画?」
 前情報ゼロで来た和樹が、小声で尋ねてきた。
「行方不明になった愛犬を、一家で探しに行く話です」
「なるほど」
 和樹はわかったようなわかっていないような顔をしている。
 佳菜にしても、好きな主演女優の演技が観たくてきた感じなので、話の内容は実はそんなによくわかっていない。
 やがて場内が暗くなり、上映を控えた映画の予告編がいくつか流れた。目いっぱい興味を引くように作られているだけあって、どれも観てみたくなる。
 シンと場内が静まり返り、本編がはじまった。
 小学生の女の子と高校生の男の子、その両親に、父方の祖父という五人組が、一台の車に乗って、家から逃げ出した愛犬を探しに出る。
 目撃情報を追って、テキサスからアメリカ大陸をひたすら北へと進むロードムービーだ。仲が悪いようでそうでもない家族の軽快な会話に笑わせられ、たまに顔を見せる犬にハラハラさせられているうちに、話は思いもよらない方向に進んだ。
 宿泊した安ホテルで、朝、祖父が起きてこなかったのだ。
 心不全で、夜のうちに亡くなっていた。
 宗治のことを思い出し、佳菜はドキリとした。二、三日に一度は顔を出すようにしているし、薬はきちんと飲んでいるようだけれど、こういうことが起きないという保証はない。
 登場人物たちが、泣きながら動かなくなった祖父に縋り付いている。映画館のあちこちからすすり泣く声が聞こえてきた。
 佳菜は泣かなかった。亡くなった祖父よりも、その足元にいつのまにか寄り添っている犬の方に気がいっていた。
「う……」
 隣から、押し殺したような声が聞こえてきた。
 何気なく目をやって、ぎょっとした。
 和樹が、手の甲で涙を拭っている。しかし拭っても拭ってもまた新しい涙が流れ、頬を濡らしていた。
 佳菜はバッグからハンカチを取り出し、和樹に差し出した。小さく頭を下げてそれを受け取り、和樹は目に当てた。
 あまり見ていては失礼かと思い、視線をスクリーンに戻したが、その後の話はさっぱり頭に入ってこなかった。

「──意外でした」
 その晩、同じ布団の中で、つい言ってしまった。
「え、なにが?」
 横になっている和樹の目は、もう赤くない。
「和樹さん、家だとわりと表情豊かですけど、病院ではいつもクールですし、映画を観て泣くタイプだとは思いませんでした」
「泣くよ。余裕で泣きます。べつに病院でもクールにしているつもりはなかったんだけどな」
 和樹は複雑そうな顔をした。
「ああ、でも、患者さんの前では一定の機嫌でいたいっていうのはあるかな。イライラしてたり、逆にやけに機嫌がよかったりすると、患者さんは不安になるでしょ。常にフラットでいたいっていうのは、ある」
「なるほど」
 あまり意識したことがなかったが、一定の機嫌でいた方がいいというのは、看護師だって同じだろう。忙しいと焦りが顔に出がちな佳菜は、大いに反省した。
「佳菜は大丈夫だった?」
「え、なにがですか?」
「おじいさんが心臓病で亡くなる話だったから、ショックを受けてないか心配だったんだ」
「ああ、大丈夫です。お話は、お話なので」
 その辺は、スパッと割り切れるタイプなのだ。だから、幼い子供が両親を事故で亡くすような映画を観ても、泣いたりしないし、自分の身に起きたことを重ねて引きずったりもしない。
「……佳菜は強いね」
 和樹の指が、佳菜の髪を梳いてくる。
「強いというか、冷たいのかも」
「そんなことはないよ」
 佳菜は和樹の胸に抱き寄せられた。トクン、トクンと和樹の心臓が拍動する音が聞こえる。初めて体が密着したときはどうしようかと思ったが、同じベッドで寝るたびにこうされるから、さすがに慣れてきた。
「今日は楽しかったです」
「俺も」
 額にチュッと、唇を押し当てられた。
 くすぐったくて、でも嬉しかった。このくらいの接触は、たびたびするようになっていた。
 もう一度、今度はまぶたに唇を落とされる。柔らかくて、温かい感触が気持ちいい。
 佳菜はまぶたを閉じ、体の力を抜いたままでいた。和樹にされて嫌なことなど、何もないように思えた。
 和樹の唇が、顔から離れた。
 もう終わりなのかと思い、薄く目を開く。
 想像したよりずっと近い位置に和樹の顔があって、ハッとした。
 至近距離から見つめられ、おとなしかった心臓がドキドキしてくる。
「いい?」
 少し掠れた声で、和樹が言った。
「あ……は、はいっ……」
 返事をしたのとほぼ同時に和樹の顔が近づいてきて、唇に唇を重ねられた。
「んっ……」
 佳菜にとって生まれて初めてのキスは、ふわっと柔らかく、とろけるような感触がした。
「んん……は……あんん……」
 何度も唇を押し当てられる。気持ちがいい。和樹の右手が伸びてきて、頬を包んでくれた。
 うっとりとされるがままでいた佳菜の唇を、和樹が舌先でぺろっと舐めた。
「口、開けて」
「え……? は、はい……」
 言われた通り、薄く唇を開くと、その隙間から和樹の舌が入り込んできた。
「んんっ……!?」
 和樹は驚いてビクッと体を震わせた佳菜の背中を、なだめるように撫でた。
 舌と舌を重ねられ、擦るような動きをされる。そこからぞくぞくするような快感が湧き上がり、佳菜は喉の奥で喘いだ。
 こんな感覚は、知らなかった。
 和樹の舌は、佳菜の口の中を自在に舐め回し続けた。上顎を舐められたときには、じっとしていられなくて和樹にぎゅっとしがみついてしまったくらいに、感じた。
 しだいに頭がボーっとしてきた。酸素が足りないのかもしれない。でもいつ呼吸をすればいいのかよくわからない。
 佳菜の口の端からたらりと唾液が垂れるほどになってやっと、和樹の顔が離れていった。
「大丈夫?」
「だい……じょうぶ、です……」
 呼吸はままならず、唇はジンと腫れているようで、頭の中はぼやけている。この状態を大丈夫と言っていいのかはわからないが、そう答えた。
「今日はここまでにしよう」
 和樹が子供を寝かしつけるみたいに、ポンポンと背中を叩いてきた。
 佳菜は彼の胸に顔を埋めて、まぶたを閉じた。息はしだいに整っていったが、胸のドキドキは、なかなか収まらなかった。



 十二月下旬。
 黒いワンピースの上にウールのコートを着た佳菜は、宗治とふたりで郊外の小高い丘にある共同墓地にやってきた。
 吹く風は冷たい。森下家の墓、と書かれた墓石の下には、佳菜のご先祖様と祖母、そして両親が入っている。
 両親の、命日だった。
 墓石を綺麗に磨き、供え物をしてから、宗治は目を閉じ、手を合わせてずいぶん長い間拝んでいた。
 佳菜が結婚したことを、息子夫婦に報告しているのだろう。
 その姿を見て、佳菜は自分が思ったほど両親や宗治に対して疚しい気分になっていないことに気づいた。
 和樹と暮らしはじめて半月が過ぎ、一緒にいることに慣れつつある。契約結婚とはいえ、彼といる時間は、けっして冷え冷えとしたものではなく、むしろ本当に愛されているのではと思ってしまうほど温かいものだ。
 形はどうあれ、いまの自分はけっこう幸せだと思う。
「和樹くんは、今日は仕事か?」
 座ったまま、顔だけこちらに向けて宗治が言った。
「うん」
 佳菜は今月のシフトを決める段階で、今日を休みにしてもらっている。
 和樹は急な有休を取れるような職業ではないから、今日墓参りにくることを相談すらしなかった。
「それでいい。医者は生きている人間を診てなんぼだ」
「……うん」
 佳菜は墓に向かって手を合わせた。
 お父さん、お母さん。おじいちゃんの手術が上手くいくよう、どうぞ空の上から見守っていてください。
「──佳菜。お前、いい顔になったな」
 しみじみとした口調で宗治に言われ、まぶたを開く。
「え?」
「急に結婚するなんて言い出したときは、どうなるかと思ったが。和樹くんとは仲良くやれてるみたいじゃないか」
「うん。大事にしてもらってる……和樹さんは、私にはもったいないくらいいい人だよ」
 本音だった。
「元旦は休めるって言ってたから、おじいちゃん、うちのマンションに来てよ。一緒にお雑煮食べよう」
「おう、いいな」
 ニカッと笑った宗治の歯は、全部自前のものだ。
 歯や髪や肌など、外から見える部分の宗治は、本当に若い。だから佳菜はときどき、祖父の心臓がよくないことを忘れそうになる。
 早く、手術してほしかった。

 お参りを済ませ、道中の蕎麦屋で遅めの昼食を摂ってから、宗治に車でマンションまで送ってもらった。
 手を洗って、紅茶を入れる。
 マグカップを持ってソファに腰を下ろしてから、疲れがどっと湧いてきた。寒いところにいた時間が長かったため、熱いお茶が体に染みる。
 お茶を半分ほど飲み、大きく息を吐くと、まぶたが重くなってきた。
 ちょっとだけ。
 佳菜はソファに身を横たえて、クッションを枕にして眠りに落ちた。

 夢を見た。
 両親が子供の自分と目線を合わせて笑っていたから、すぐに夢だとわかった。
 母の長いスカートの裾を掴み、佳菜は両親が出かけようとしているのを、必死で引き留めようとしている。しかしそれが無駄なこともわかっていた。
 諦念が幼い胸に広がっていく。
 両親が言う用事とやらが、自分の誕生日とクリスマスのプレゼントを買いに行くことだとは知っていた。
 そんなもの、ほしくはなかった。
 どこにも行かず、家にいてほしい。
 しかし両親は、まるで佳菜がただわがままを言っているみたいに、困ったような笑みを浮かべるだけだ。
 祖父と祖母が、佳菜を両親から優しく引きはがす。
 これは夢だ。
 実際の佳菜は、居間で玩具で遊びながら、いってきますを言った両親に生返事をしただけだった。
 ろくに顔を見もしなかった。
 だから夢に出てくる両親は、いつだってアルバムの写真から切り抜いて張り付けたような、少し不自然な顔をしている。

 目を覚ますと、カーテンが開きっぱなしの部屋は暗かった。サイドボードの上にある時計を見る。午後五時を過ぎている。不自然な体勢で眠ってしまったからか、肩や腰がきしんだ。
 こきこきと肩を鳴らして、立ち上がった。リビングの電気をつける。
 和樹は、今日の帰りはそんなに遅くならなそうだと言っていた。夕飯を作らなければと思うが、メニューが全然思い浮かばなかった。
 冷めきった紅茶が半分入ったマグカップを、シンクに置く。
 ──オムライスで、いいか。
 コンソメスープとサラダでも添えて。
 凝ったものを作る気分ではなかった。
 ワンピースの上からエプロンを付けて、冷蔵庫を開く。玉ねぎを取り出し、みじん切りにする。
 まださっきの夢を引きずっているようで気が晴れなかったが、何度も作ったことのあるメニューだから、手は勝手に動く。
 あとは和樹の顔を見てから卵を焼くだけ、というところまでできたところで、玄関の方からドアの開く音が聞こえてきた。
 和樹が帰ってきたようだ。今日は早い。
「──ただいま」
 寒さで少し鼻を赤くした夫が、リビングに顔を出した。
「おかえりなさい」
 挨拶をしてから、小さめのボウルに卵をふたつ割り入れ、解きほぐす。
「今日はオムライス?」
「そうです」
「やった」
 和樹は嬉しそうに言って、いそいそと着替えに行った。
 バターを溶かしたフライパンに卵液を入れて、ふんわりと柔らかいオムレツを作り、ケチャップライスの上に載せる。ナイフで軽く切り目を入れ、オムレツがとろりとケチャップライスを覆えば、出来上がりだ。
 もうひとつ同じものを作り、スープとサラダを出して椅子に座った。そうしてから、エプロンを外し忘れていたことに気づいて、外した。
 戻ってきた和樹と向かい合って座り、いただきますをして食べ始める。
「美味しい」
 和樹は目を細めた。口に合ったようでなによりだ。
「今日はどこか出かけてたの?」
 なにげない感じで聞かれ、自分の姿を見下ろす。たしかに、普段着よりは少しかしこまった格好をしている。
「おじいちゃんと一緒に、両親のお墓参りに行ってきました」
「え?」
「今日が命日だったので」
「……命日って」
 和樹の表情が、一気に強張った。
「聞いてない」
「そうですね、言ってなかったですね」
「どうして?」
 どうしてって。
「言っても、和樹さんはお仕事休んでお参りにはいけなかったでしょう?」
「そうだけど、そんな大事なことを教えてもらえないなんて……俺たちは、家族になったんじゃなかったのか?」
「……ごめんなさい」
 我ながら心のこもっていない「ごめんなさい」だなと思った。正直なところ、夫がなぜそんなに憤っているのか、ピンときていない。
「いや……謝ってほしかったわけじゃない」
 和樹はもどかしそうにしている。
「森下先生は、なんて?」
 宗治に佳菜の夫として認めてもらうためには、お参りに行けたなら行った方がよかったのかもしれないが、宗治は医師という仕事がどんなものかよくわかっている。
「おじいちゃんなら、全然気にしてませんでしたよ。医者は、生きている人間を診てなんぼだって」
「そう……って、違うんだ、森下先生にどう思われるかを気にしてるわけでもなくて。いや、気にはしてるのか……」
 和樹が、ぐしゃぐしゃと頭を掻く。苛立ちを隠せていない。
 いつだって落ち着いている彼の、こんな姿は初めて見た。
「和樹さ──」
 名前を呼びかけて、やっぱりやめた。なにを言えばいいのか、わからなかった。
 そこからは会話が途絶え、ひどく気まずい空気のなかでの食事となった。

 その晩、佳菜は和樹のベッドに呼ばれた。
 正直気は進まなかったが、気まずい雰囲気を引きずったまま日をまたぎたくないという彼の気持ちはわかる気がした。
 入浴を済ませ、軽く身支度を整え、夫の部屋のドアをノックする。
「どうぞ」
 と返ってきた声は、もう落ち着きを取り戻していた。
 部屋に入り、夫の隣に身を滑り込ませる。自然な動作で、和樹が体を抱き寄せてきた。
 和樹の心臓の音が聞こえる。
「さっきは、すみませんでした」
「怒っていたわけじゃないし、謝ってほしいわけでもないよ」
「和樹さんに隠し事をしようとか、そういうつもりじゃなかったんです」
「あっさり話してくれたからね。それはわかってる。俺がお墓参りに行けないのを気に病まないよう、気を使ってくれたんだろ」
 それもちょっと違う気がした。
「両親の命日という情報を和樹さんと共有するべきだという考えが、まるっと頭から抜けていたというか」
 もちろん今日、和樹が偶然休みだったなら、一緒に行かないかと誘うくらいはしただろうが。
「和樹さんと結婚したことを軽く思っているわけじゃないんです。軽く感じているのは、むしろ両親が亡くなったことの方で……軽くというと語弊があるんですけど……」
「うん……」
 佳菜のまだ少し湿り気の残った髪をゆっくりと梳きながら、和樹は要領を得ない話を粘り強く聞いている。
「私、両親が亡くなったって聞いたときのことを、よく覚えていないんです。小学校に入ってすぐのことだったので、幼すぎてその前の記憶もあやふやで。気づいたら祖父母と暮らしていたというか。だから、寂しいとか、両親に会いたいとかあまり思わないし、和樹さんのことを紹介したいとか、そういうことも思い浮かばなくて」
「……うん」
「……ごめんなさい。上手く言えないんですけど、冷たいんだと思います、私」
「俺は冷たいとは思わないな」
 和樹がじっと顔を見てくる。
「幼い子供が大きなショックを受けたせいで一時的に記憶をなくすのは、防衛本能だ」
「そうなんでしょうか」
「きっと忘れたんじゃない。思い出せないだけだ」
 そう言って和樹は、佳菜を優しく抱き締めた。
 温かい。
 祖父母は愛情をもって佳菜を育ててくれたが、年代のせいもあってかスキンシップは少なかったので、佳菜は和樹と結婚して初めて、人肌の温かさと心地よさを知った。
「両親のお葬式で、私はまったく泣かなかったそうです」
「幼かったから、自分に起こった出来事を、まだよく理解できなかったんだろう」
「祖母が亡くなったのは私が二十歳になってからでしたけど、そのときも泣けませんでした」
「泣いているかどうかで悲しみの深さは量れないことを、俺たちはよく知っているはずじゃないか」
 そう言われると、たしかに小児科看護師として、佳菜はいろんな人を見てきた。
 亡くなった子供を前に身も世もなく泣き崩れる人もいれば、冷たくなった頬を微笑みながら撫で続ける人もいた。
 人にはいろんな悲しみ方があると、他人のことなら素直に思えるのに。
「佳菜は悲しみを表に出すのが、得意じゃなかっただけだよ」
「……そうでしょうか」
「そうだ」
 和樹がきっぱりと断言してくれた。
 交際ゼロ日で和樹と結婚して、まだ半月ちょっとしか経っていない。それなのに、彼の言葉は、スッとまっすぐに佳菜のなかに入ってきた。
 目を閉じて、彼の胸に顔をうずめる。
 その晩佳菜は、穏やかな海みたいな気分で、眠りに落ちた。
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