愛に目覚めた凄腕ドクターは、契約婚では終わらせない
第六章 宗治の決断
「佳菜、誕生日、おめでとーっ!」
 十二月二十四日のクリスマスイブ。
 いつも通りに早番で出勤した佳菜は、更衣室に入るなり同期の小児科看護師、早川愛理に思いっきりハグされた。
 なんだろう、という感じで、その場にいたナースたちがちらちらとこちらを見てくる。
「あ、ありがとう」
 愛理の勢いに少々戸惑っていると、赤いリボンのかけられた緑色の包みを差し出された。
「はい、誕生日プレゼント」
「えっ、嬉しい。ありがとう……開けていい?」
「もちろん」
 わくわくした顔をしている愛理の目の前で、リボンをほどき、箱を開ける。なかには、いろんな種類の入浴剤が入っていた。
「ミルクの香り……イチゴの香り……チョコレートなんていうのもあるんだ、おもしろい、ありがとう」
 使うのが楽しみだ、と無邪気に喜ぶ佳菜に、愛理はにやーっと笑いかけた。
「美味しそうな香りのばっかりにしてみたよ。お風呂に入ったあと、美味しく食べてもらえるようにね」
「え……えっ、ちょっとっ」
 愛理の真意を理解したせいで、頬が熱くなる。
 美味しくもなにも、和樹とはまだ、添い寝やキスくらいしかしたことがないのだが。かといって、それを愛理に説明することもできず、ただただオタオタしてしまう。
「はーっ、佳菜はいいなあー。きっと和樹先生みたいなクールなタイプに限って、夜は情熱的だったりするんだろうなあ」
 結婚の経緯が経緯だっただけに、和樹とは普通の夫婦のような体の関係はない。ただ、キスはたまにするようになったから、この先もしかしたらそういうこともするようになるのかもしれないが、あまり考えないようにしていた。
「へ、ヘンな想像しないでよっ」
「ヘンじゃないよ。羨ましいなーって話」
「──なにが羨ましいの?」
 そう言いながら更衣室に入ってきたのは、小児科の先輩看護師の田辺鈴奈だ。
 おはようございます、と頭を下げた佳菜の手にある箱を、鈴奈が覗き込んでくる。
「あら、入浴剤……オムライスの香り、って、ケチャップの香りってことなのかしらね」
 鈴奈が不思議そうに首をかしげる。
「今日、佳菜の誕生日なんです。家で和樹先生とのお風呂タイムをゆっくり楽しんでもらえたらなって思って」
 愛理がそう言うと、鈴奈は佳菜を見てにこりと笑った。
「そうだったの。クリスマスイブがお誕生日って素敵ね、おめでとう」
「ありがとうございます」
 佳菜は笑顔を作った。
 嬉しくなくても笑うのは、けっこう得意だった。
 佳菜にとって自分の誕生日は、両親が死んだ原因の日であり、喜ばしいものではなかった。ただひとつ年を取るというだけだ。もちろん周囲の人たちにわざわざそんなことを話したりはしないが。
「今晩は、和樹先生とディナーに行っちゃったりして?」
 愛理が肘でわき腹をつついてきた。
「平日とはいえイブはどこも混んでるし、予約しても急な手術が入ったりしたら行けなくなっちゃうから、家で普通に過ごすよ」
「ああ……コールが入ったらどうしようもないもんね。外科医の奥さんの辛いところだよねえ……」
 愛理は気の毒そうな顔をしたが、佳菜はあまり気にしていなかった。
 外科医の祖父に育てられたから、予定をキャンセルされるのは慣れっこなのだ。
「早川さんは、今日なにか予定ないの?」
 鈴奈が着替えながら愛理に尋ねた。
「ありませんっ! 予定表は、綺麗さっぱり、まっしろです! 喜んで残業します!」
「私も残念ながら就業後の予定はなにもないから、森下さんは定時でスパッと上がってね」
「ありがとうございます」
 佳菜自身は自分の誕生日を重要視していないが、ふたりの気遣いはありがたかった。

 定時きっちりで仕事を上がり、更衣室へ引き上げる。
「……え?」
 ロッカーの扉に触れて、佳菜はピタッと動きを止めた。
 鍵が開いているのだ。それだけなら、閉め忘れたのかもしれないと思えるが、うっすらと開いた扉の隙間から、甘ったるいような酸っぱいような、なんとも形容しがたい匂いがした。
 恐る恐る扉を開く。匂いのもとはすぐにわかった。
 朝、愛理がくれた緑色の包みを開く。
 箱のなかでは、すべての入浴剤が開けられ、入念に掻き混ぜられていた。



 テーブルの上には、いつもより少しだけ豪華な食事が並んでいる。自分で予約して自分で取ってきたケーキは、冷蔵庫のなかだ。
 お風呂もすでにわいている。
 ──お腹が空いた。
 八時を過ぎたら、それ以上待たずに食事をするというルールを和樹と一緒に作ったとはいえ、さすがに誕生日である今日は食べづらい。佳菜自身はどうでもいいのだが、夫はものすごく気にするだろう。
 スマートフォンのメッセージを確認する。遅くなる、と連絡が入ることもあるのだが、今日はそれもまだ来ていない。
 少し考えて、佳菜は先にお風呂に入ってしまうことにした。空腹がまぎれるし、上がった頃には、連絡が入っているかもしれない。

 常用している森林の香りの入浴剤を浴槽に入れ、肩までお湯につかる。
 浴室というどこもかしこもつるりとした人工的な空間のなかで、森林の香りに包まれるというのも滑稽だなと、お湯の温かさにうっとりしながら思う。
 ぐちゃぐちゃに混ぜられてしまった入浴剤は、万に一つでも愛理の目に入ることがないよう、家に持って帰ってきてから透けないビニール袋に入れて口をしっかり縛り、燃えるごみとして捨てた、
 いろんな香りの入浴剤を使えなかったのは残念だし、愛理に申し訳ない気持ちもあるけれど、悲しいとか悔しいとか、そういう感情はあまりなかった。
 ここまであからさまなものは初めてだが、和樹と結婚して以来、小さな嫌がらせには何度かあっていた。
 それでもこれまでは、仕事中にいつのまにか背中を色のつく薬品で汚されていたり、自動販売機で水を買おうとしていたら横から伸びてきた手に甘酒を押され、ごめーん間違えちゃったと笑いながら逃げられたりするくらいだった。
 そのうち収まるだろうと、たいして気にもしていなかったのだが、貴重品をしまうロッカーを開けられたとなると、話が違ってくる。
 単純な作りの古い鍵だ。また開けられるかもしれない。変えられるものなら鍵を変えたい。こういうことは、誰に相談すればいいんだろうか。総務か、看護師長か。
 あまり大事にはしたくないのだが。
 そんなことをつらつらと考えているうちに、頭がくらくらしてきた。
 のぼせかけていることに気づき、慌てて風呂を出る。
 髪と体を拭いて、洗面台の上に置いておいたスマートフォンを見てみたが、和樹からの連絡はまだない。
 なら急ぐことはないなと、ゆっくりと髪を乾かし、肌の手入れをした。
 キッチンへ行き、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して、コップに注ぐ。喉の渇きをいやしながら、ケーキの箱や、ラップのかかったサラダを眺める。
 時刻は午後十時を過ぎている。
 明日の朝ご飯が豪華になるかもしれない。
 湯冷めをしないよう、パジャマの上にカーディガンを羽織って、ソファにごろりと横になった。
 眠いわけではない。ただ、やることがない。ブランケットを体に掛け、まぶたを閉じる。
 自分の体から森林の香りがした。人工的な、でも落ち着く香りだ。
 ゆっくりと呼吸しながら、何種類も混ぜられた入浴剤の匂いを思い出す。
 一つずつ入浴剤の袋を開け、執拗に中身を掻き混ぜた人物は、少しは気が晴れたんだろうか。
 犯人捜しをしようとは思わなかった。
 みんなの憧れの的だった和樹を、急に横からサッとかっさらった(ように見えるだろう)佳菜を面白く思っていないナースや事務員、女医はたぶん何人もいる。
 かといって彼女たちに申し訳ないとは思わない。そう思ってしまったら、この結婚を提案してくれた和樹に失礼だろう。入籍してすぐの頃だったらともかく、彼なりに佳菜を大事に思ってくれていると、もうわかっている。
 向きを変えて、サイドボードの上の時計を見る。あと一時間もすれば、佳菜の誕生日が終わる。
 特に感慨はなかった。ただ、日付が変わるだけだ。
 両親と暮らしていた頃の誕生日はどんなふうに過ごしていたか、正直よく覚えていない。祖父母と三人暮らしのときは、祖母が小さなケーキを用意してくれた。祖父と祖母は洋菓子を食べないので、佳菜の分だけだ。それを夕飯の後に食べる、ささやかなお祝いだった。祖父は仕事で忙しく、帰ってこなかったことも多かった。
 いま冷蔵庫には、四号サイズのデコレーションケーキが入っている。いちごがたっぷり載った、白いクリームのケーキは、クリスマスケーキとほとんど変わらないデザインだ。
 クリスマスイブが誕生日だと、よく「ケーキやプレゼントが一回にまとめられてかわいそう」などと言われる。実際そうだったが、特に残念だとも思っていなかった。
 ほしいものなんてそんなにないから、ふたつもみっつも考えつかない。プレゼントがひとつで済むならその方がらくだった。
 祖母が亡くなってからは、佳菜ももう成人していたし、祖父とふたりで誕生日をわざわざ祝うという雰囲気ではなくなった。
 もう一度チラリと時計を見て、まぶたを閉じる。
 さよなら二十四歳、こんにちは二十五歳。
 こんなふうに一人でその瞬間を迎えるのも悪くない。上等なソファはなかなか寝心地がいいし、風呂に入ったばかりの体はさっぱりしている。お腹はちょっと空いてしまったが、待っていればそのうち帰ってくる優しい夫もいる。
 そのままうとうとと半分眠ったような状態でいると、玄関の方からドタバタと焦ったような足音が聞こえてきた。
 バタンとリビングの扉が開く。
「──佳菜っ!」
 和樹だ。
 すぐにわかったが、半分寝ていたのですぐに反応できない。
「佳菜、佳菜っ……ごめん……」
「……え?」
 ものすごく申し訳なさそうに謝られてしまい、目を開いた。
「あ……おかえりなさい」
「た、ただいま」
「ご飯にします? それとも先にお風呂にします?」
 上体を起こし、んーっとひとつ伸びをした。
 二十分ほどまどろんだだけのようだが、気分がだいぶスッキリした。
「怒ってないのか……?」
「怒る?」
 夫の視線が、サイドボードの上に向かう。
 時刻は零時を五分ほど過ぎていた。
「遅くまで、お仕事お疲れ様です」
 大変だな、とは思うが、それだけだ。
「佳菜の誕生日に、間に合わなかった」
「しょうがないですよ、お仕事の方がずっと大事です」
 お風呂に入るという雰囲気でもなさそうだなと思い、佳菜はキッチンに向かった。鍋に入ったスープを温め、冷蔵庫からサラダを取り出す。
 グラタンとチキンはレンジにかけた。
「座ってください」
「……ああ」
 ダイニングテーブルに向かい合って座り、グラスにシャンパンを注いだ。
「……誕生日、おめでとう」
 グラスを掲げ、和樹が言った。
「ありがとうございます」
 笑って返事をして、よく冷えたシャンパンを飲む。喉が渇いていたから、とても美味しかった。
 しかし和樹はと言えば、グラスを手に、硬い表情をしている。
「今日は七時には帰れるはずだったんだけど、立て続けに緊急手術が入って、遅くなったうえに連絡すら入れられなかった。本当にごめん」
「そんなこともありますよ」
 外科医の妻として、そのくらいのことはわきまえている。それなのに、和樹がやたらと深刻な顔をしているのが不思議だった。
 こんなことは、これからもたびたび起こることだ。いちいちがっかりしていては身が持たない。
 いただきますをして、食べはじめる。
 すっかりお腹が空いていたので、佳菜は目の前の料理をもりもり食べた。和樹はそんな佳菜を、もの言いたげに見つめていたが、やがてフォークとナイフを手に取った。食べはじめれば、夫もかなり空腹だったらしく、食卓に用意した料理は綺麗になくなった。
 食後にケーキも食べたが、さすがにホールケーキをふたりでは食べきれず、明日のおやつに半分取っておくことにした。
 和樹が入浴している間にキッチンを片付ける。
 明日もふたりとも仕事だ。最近は忙しそうにしていたし、夫には広いベッドでゆったりと体を休めてもらいたい。
 そう思っていたのだが、いざ寝ようとなったとき、和樹は佳菜を自室に呼んだ。
 戸惑いながらも同じベッドに入ると、すぐに抱き寄せられた。夫の体温が気持ちよかった。こうされるのもずいぶん慣れた。
 夫の手が、ゆっくりと髪を撫でてくる。眠りを誘うような、優しい手つきだ。
「誕生日おめでとう。帰るのが遅くなって、本当にごめん」
「はあ……」
 和樹のもう何度目になるかわからない謝罪に、曖昧な返事をかえす。
 正直なところ、少々辟易していた。夫は自分の誕生日も、こんなに重要視するのだろうか。だったらしっかりと準備しなくてはいけないが、考えてみたら自分は和樹の誕生日を知らない。
「プレゼントを用意できていなかったから、昼に花屋に電話して花束を作ってもらってあったんだけど、それも取りに行けなかった」
「はあ……」
「わかってる、がっかりしているのは俺の方だ。佳菜はこういうのはよくあることだって理解してくれている。だけど……すごく勝手なことを言うようだけど、佳菜にまるで期待されないのも、それはそれで嫌なんだ」
 それは、確かになかなか勝手な言い分だ。
「和樹さんに期待していないというか……自分の誕生日って全然好きじゃないんです」
「え?」
「だから、お祝いしてくれようというお気持ちはありがたいんですけど、それを楽しみにするっていうのは、なかなか難しいというか」
 祝われるとどうしても、佳菜のためにプレゼントを買いに行こうとしたために事故にあってしまった両親のことを考えてしまう。
 両親のことは、よく覚えていない。それでも、めでたいとは思えないのだ。なんでもないただの普通の日として扱ってくれた方が、よっぽど気がらくだった。
「……そうか」
 それ以上何を言っていいのかわからなかったのか、和樹はしばらくただ佳菜の背を撫でていた。
 夫に体を触られるのは好きだ。触れられたところからじんわりと彼の体温が染み込んでくるみたいで、安心する。
「──それでも」
「……え?」
 半分眠りかかっていた佳菜の耳元で、和樹が言う。
「君が生まれてきてくれた日を、俺は大事に思うよ」
 声が優しい。
「佳菜が生まれてきてくれて、とても嬉しい。ありがとう」
「……はい」
 和樹の胸に顔を擦り付け、小さな声で返事をした。
 泣いてしまいそうだった。



 年の瀬が迫っている。
 夕食後の食器を片付けながら、佳菜は正月の準備について考え込んでいた。
 佳菜は、大みそかまで仕事で、元旦と二日は休みだ。和樹は大みそかと元旦は休みで、二日からは仕事に出るという。
 正月らしい料理を食べるのは元旦だけと考えると、雑煮とうま煮は作るとして、あとは黒豆やかまぼこ、栗きんとんなどを買って、お重ではなくお皿に並べればいいかとも思うが、祖父も来るし、食卓が寂しいだろうか。
 こんなことなら、二、三人前サイズの小さなおせち料理をどこかで予約しておくんだったと思うけれど、だいたいのところは十一月末で予約が終わっているし、結婚自体が急なことだったからそんなところまで頭が回らなかった。
 祖母はまめな人で、黒豆や田作り、紅白なますなどきちんと手作りして重箱に詰めていた。残念ながら、それらは作り方を習う前に亡くなってしまったが。
 祖父と二人になってからは、佳菜は看護師になったため、正月だからといって休めるとは限らなくなったので、雑煮とうま煮くらいしか作ってこなかった。この二つは祖母と一緒に料理していたので、自信がある。
「どうしたの、難しい顔して」
 皿を下げるのを手伝ってくれながら、和樹が話しかけてきた。
「和樹さん、おせち料理って好きですか?」
「んー……毎年親が百貨店で買ってきたから食べてはいたけど、正直テンションは上がらないかなあ。義務感で食べてた感じがする」
 藤本家では手作りしていなかったということと、和樹が正月料理にそれほど思い入れがなさそうだということにホッとする。
「あ、でも雑煮は好きだよ。うま煮も。あとは餅があれば満足かな」
「お安い御用です」
 おおみそかまで仕事だけれど、それくらいなら帰ってきてからでも作れる。
 明日は二人とも休みだ。車を出してもらって、正月に食べるものや年越しそばなどの買い出しに行きたい。
 そんなことを考えながら、食器洗浄機に入りきらなかったフライパンを洗っていると、不意に左手を取られた。
「和樹さん?」
 顔の前に手を持っていき、まじまじと見つめられる。
 手にはあまり自信がないので、ちょっと恥ずかしい。肌があまり丈夫じゃないうえに、仕事がらしょっちゅう手を洗ったりアルコール消毒したりしているせいで、荒れ気味なのだ。爪も短いし、ネイルだってしていない。
「あの……あんまり見ないでください」
「どうして?」
「綺麗な手じゃないから……ガサガサだし、爪だって……」
「働き者の、綺麗な手だよ」
 真顔で褒められてしまった。それにしても急にどうしたのだろうと思ったら。
「いや、結婚指輪を作ってなかったなと思って」
「ああ……そうですね」
 とはいえ、二人とも仕事中は指輪を外さなければいけない。つけたり外したりしていたら、なくしてしまいそうで怖い。
 それに、この結婚がいつまでも続くものなのか、佳菜はいまだに確信が持てずにいた。
 彼なりに、佳菜を大事にしてくれているのはわかっている。佳菜も自分のなかで、和樹の存在がだんだん大きくなっていっているのを感じている。
 それでも、結婚した当初の目的である祖父の手術が無事に終わったら、お互いがお互いのことをどう思うのかはわからない。
「次の休みに、一緒に買いに行こう」
「えっ」
「えっ、て。いや?」
「いやということはないですが……」
 無駄になるかも、とは言いづらい。
「お正月の買い出しに付き合ってもらいたかったんですけど」
「わかった。両方行こう」
 いい笑顔で言われてしまい、佳菜はそれ以上なにも言えなくなってしまった。

 二日後の昼過ぎに、ふたりは和樹の運転する車で銀座にやってきた。
「ここは……」
 店の前で、佳菜は完全にしり込みしていた。
 特に希望するブランドはない、と言ったら、佳菜からしたら考えられないようなハイブランドの店に連れてこられてしまったのだ。
「俺はこういうのに詳しくないんだけど、親も兄貴夫婦もここで作ったって言ってたから、きっといいものなんだと思うよ」
 そりゃあいいものでしょうねと笑顔を引きつらせていたら、入り口に立っていたドアマンが扉を開けてくれた。
 和樹に手を引かれて、なかに入る。
 店内は吹き抜けになっていて、シャンデリアが煌めいていた。その下で、ショーケースに並べられたジュエリーがキラキラと光っている。
「いらっしゃいませ」
 髪を後ろできちんとまとめた、品のよい三十代後半くらいの女性が、恭しく頭を下げてきた。
「十一時で予約した、藤本です」
「藤本様ですね、お待ちしておりました。お二階へどうぞ」
 案内されて、螺旋階段を上ると、ショーケースと接客スペースがいくつか並んでいた。佳菜たちの他にも、二組先客がいた。落ち着いて選べるよう配慮されているらしく、応接セットは適度に距離を開け、それぞれが視界に入らないよう角度をつけて置かれていた。
 案内された一番奥の席に、和樹と並んで座る。
「本日は、ブライダルリングということで承っておりますが、デザインのご希望などございますでしょうか」
「どんなのにしようか」
 佳菜は自分なんかがここにいていいのかと、少々居心地の悪い気分でいるのだが、和樹は楽しそうだ。
「婚約指輪を作ってないし、どうせ仕事中はできないんだから、ちょっと豪華な感じのはどうだろう」
「それですと……少々お待ちください」
 店員が席を立ち、手袋をはめて、部屋の中央にあるショーケースの中からいくつか指輪を選んで取り出し、リングピローに載せた。
「この辺りなど、いかがでしょう」
 テーブルの上にリングピローが置かれた。
「わあ……」
 佳菜は思わず声を上げてしまった。
 それらの指輪は、結婚指輪と聞いて一般的にイメージするようなシンプルなプラチナリングではなく、リング幅のダイヤがぐるりと一周取り付けられていた。シャンデリアの照明を反射して、指輪全体がキラキラと光って見える。
 ちょっと豪華、なんてものではなかった。
「どう?」
 にこにこしながら聞かれたが、佳菜は完全に引いていた。あまりに眩くて、これではとても普段使いできない。
「えっと……もう少し、シンプルなのがいいかなって……」
「そう? ああ、でもその方が飽きないか」
「そうしますと、こちらなどいかがでしょうか」
 改めて見せられたものは、ダイヤの数がさっきの三分の一以下に減り、つるりとしたプラチナの部分は緩くウエーブを描いていた。
 素敵だな、と素直に思った。これだってずいぶん豪華なのだが、はじめに見せられたものと比べたらずっとシンプルだ。
「はめてみたら? ……いいですか?」
「もちろんでございます」
 微笑む店員の前で、和樹がリングピローから指輪を手に取る。
「あ……」
 左手を持ち上げられ、出かけるからと今朝マニキュアを塗った薬指に、少しサイズの大きい指輪が通されていく。
 少し荒れた肌が、指輪のおかげで綺麗になったように見えて、自分の手ながら見ていてうっとりした。
「素敵……」
「いいな、これ。これにしようか」
 和樹が満足げに頷く。
 佳菜も頷きかけて、ハッとした。
 流されてしまいそうになったが、これだけダイヤのついた指輪だ。もしかしなくても、ものすごくお高いのではないだろうか。
「……あの……こちら、おいくらなんでしょうか」
 恐る恐る店員に尋ねる。
 笑顔を崩さないまま、店員が答えた。
「こちら、百十二万円からとなっております」
「ひゃっ──」
 百万あったら、中古車が買える。急に左手が重くなったように感じた。
 しかし動揺しているのは佳菜だけで、和樹と店員は和やかに商談を進めている。
 高いからやめましょうとは言えなかった。それでは、和樹の顔をつぶしてしまう。でも宗治の手術が無事終わって、婚姻関係を続けている理由がなくなってしまったら必要がなくなってしまうかもしれないものに、二つで二百万円以上のお金をかけてしまっていいものだろうか。
 不安と焦りで、冷や汗が出てきた。その間にも指のサイズを測られ、指輪の内側に刻印する文字や記号、埋め込む宝石などが決められていく。
 どうしよう、どうしょうと思っているうちにすべてのことが決まり、笑顔の店員に見送られて店を出ていた。

 どこかで軽くお茶でもしていこうということで、少し歩いて、老舗の洋菓子屋が経営しているカフェにやってきた。
 席に着き、ケーキセットを二つ頼むと、店員がいま店にあるケーキを全種類一つずつ載せたトレーを持ってきて、好きなものを選ばせてくれた。
「俺はこれで」
 ほとんど迷わず和樹が指さしたのは、普通のスポンジとココアスポンジをモザイク状に組み合わせて表面にチョコレートを塗ったようなケーキだった。
「子供の頃から、ここに来るといつもこのケーキを頼んじゃうんだよね」
 そんなに美味しいのだろうかと、佳菜も興味が湧いてきた。
「私も同じのにします」
「かしこまりました」
 店員が去って、さほど待たずに、注文した紅茶とケーキが運ばれてきた。
 ケーキを見て、和樹が明らかに嬉しそうな表情になる。休日の彼は、本当に表情が豊かで、見ていて楽しくなる。
 佳菜はダージリンを一口飲み、さっそくケーキを口に運んでみた。しっとりとしたスポンジの間には薄くクリームが塗ってあり、とても美味しい。
「それにしても……まさか一か月もかかるとは思わなかったよ」
「しかたないですよ、それだけ丁寧に作ってくださるってことなんでしょうから」
 指輪の納期の話だ。
 二人のサイズに合うものを用意し、内側に文字を刻印して選んだ宝石を埋め込むには、そのくらいの時間がかかるのだという。
 和樹はお金を払えばその日のうちにでも受け取れるものだと思っていたらしく、がっかりしていた。一方佳菜はというと、一か月もすれば、あの高価な指輪を受け取る覚悟ができるかもしれないと思い、ちょっとホッとした。
 紅茶のカップを持ち上げ、何もはまっていない薬指を見る。仕事がら休みの日しかできないとはいえ、そこに百万円以上する指輪が日常的にはまる日がくるなんて、信じられない思いだった。
「つけたり外したりになるだろうから、なくさないように気を付けないとな」
「家にいるとき以外は、つけ外ししないようにします」
「俺は外にいるときに病院に呼ばれると危ないな。気を付けます」
 ゆっくりお茶をして、銀座を出たときには夕方になっていた。
 車でマンション近くのスーパーに向かいながら、ふと気になったことを尋ねる。
「そういえば、お雑煮はお義母さんの味付けじゃなくていいんですか? 私が普通に作ると、祖母から習ったお雑煮になるんですが」
 普段の食事ならともかく、正月料理にはこだわりがあるかもしれないと思ったのだが。
「全然いいよ。佳菜のおばあさんの味が楽しみだ」
「うちのお雑煮は醤油味で、出汁は昆布とカツオ、具は鶏肉と大根と人参と椎茸で、上に三つ葉と薄く切った蒲鉾を載せるんです」
「餅は四角?」
「はい」
「うちに似てる。違いは椎茸と蒲鉾が入らないところくらいかなあ」
 こんなたわいない話をしながら、和樹と休日を過ごすのが普通のことになってきた。育ってきた家庭環境の違いに驚かされることはまだ多いが、お義父さんもお義母さんも気さくな人で、会ってもだんだん緊張しなくなってきた。
 正月は、年越しは和樹と二人で家で過ごし、元旦には宗治が来ることになっている。そして夕方頃から藤本の家にお邪魔する予定なのだが、まだ会ったことのない親戚が数組来るらしく、今からちょっとドキドキしている。
 スーパーの駐車場に車を入れ、二人でカートを押して歩く。
 つい数日前までクリスマスケーキや骨付きチキンが並んでいた棚には、鏡餅や数の子が並び、売り場はすっかり正月仕様だ。
 様々な食品の並んだ棚を眺め、あれこれ話し合いながら買い物をしていると、いかにも夫婦という感じがして、少しくすぐったい。
「やっぱり、小さいのでもいいから、おせち予約しておけばよかったですね」
 雑煮とうま煮の材料、そして黒豆や栗きんとんなどおせちに入るようなものを入れていたら、籠が二つ、すぐにいっぱいになった。
「たしかに、こまごま買って並べるのを考えたら、重箱がドンとあった方が楽そうだね。来年からはそうしようか」
 来年。
 来年の正月も、自分は和樹の隣にいるんだろうか。
 横に立つ和樹の顔を見上げる。なんの屈託もない様子で、きな粉をどれにするか選んでいる。
 あんなに高価な結婚指輪を躊躇なく買った和樹だ。もう今後の人生を佳菜と一緒に生きることに疑問を持っていなさそうだ。
 佳菜は彼ほど覚悟が決まっていないことを自覚していた。
 和樹にはなんの不満もない。自分が本当に彼の伴侶にふさわしい人間なのか、自信が持てないのだ。
 自分にそんな価値はあるのだろうか。
 和樹が笑うと嬉しい。
 彼の体温を感じながら眠りにつくのは心地いい。
 自分は間違いなく、和樹のことが好きなのだと思う。そうは思うが。
「これとこれ、どっちがいいと思う?」
 和樹がきな粉の袋を左右の手に一つずつ持って見せてきた。
 たいして変わらないように見えるが、大豆の産地が違うようだ。
 袋の透明な部分から見えるきな粉が、入浴剤に見えた。誕生日に愛理がくれたのに、ぐちゃぐちゃに混ぜられた入浴剤。
 やったのが誰なのかはわからないが、和樹に対して強い思いを抱いているのは間違いないだろう。
 自分は、その人物より、彼を愛していると胸を張って言えるだろうか。
「……両方買って、食べ比べしてみるとか」
「いいな。そうしよう」
 和樹が、佳菜の大好きな顔で笑う。



 年越しのご馳走は、和樹のリクエストにより、すき焼きになった。
 奮発して買ったA5の和牛のロースはとろけるような美味しさだった。
「ああぁ……これは普通のビールが欲しくなるなあ」
 和樹が飲んでいるのは、ノンアルコールビールだ。
 一応休みとはいえ、病院からの呼び出しがあったら即出勤するオンコール状態だから仕方がない。
「でも佳菜まで付き合うことないのに」
 そうは言うが、さすがに我慢している人の目の前で、ごくごくお酒は飲めない。
「いいんです。そこまで飲みたいわけじゃないので」
 サッと火を通した肉を、溶き卵にくぐらせて、口に入れる。
 テレビの画面では、名前を知らないバンドが、なんとなく聞いたことのある歌を歌っている。CMソングだったような気がするが、なんのCMだったかは思い出せない。
「これ、なんの歌だったっけ」
 和樹がボソッと呟いた。
「私も思い出せなくて」
「車のCM? ……だった、ような」
「あ、たぶんそうです」
 そう言われたら思い出した。宗治が乗っている車のメーカーの、新しい車種のCMソングだ。
「そういえば、佳菜に車を買おうと思ってたんだった」
 和樹が視線をテレビに向けたまま意外なことを言いだす。
「えっ?」
「俺の車はあるけど、佳菜が自由に使える車もあった方がいいだろ?」
「そんな、いいですよ。病院も実家も徒歩とバスで行けますし、最寄り駅だって近いですし。もったいないです」
 それに佳菜は、運転免許こそ所持しているものの、運転があまり得意ではなかった。実家にいたときは、宗治に送り迎えしてもらうことたびたびあったが、自分で運転してどこかへ出かけるという機会はめったになかった。
「佳菜は欲がないね」
 和樹が佳菜の方を見て苦笑する。
「そういうわけじゃ……」
 でもそうかもしれない。ものや人に対して執着が薄いところはある。
「もっといろいろ欲しがってほしいな。俺を困らせるくらい」
「ではその食べ頃のお肉は私にください」
「お安い御用だ」
 いい感じに火の通った肉を取って食べる。とても美味しい。が、サシの入った肉を何枚も食べ続けているせいか、そろそろお腹がもたれてきた。
 ついごまかしてしまったものの、和樹を困らせるようなものを欲しがれというのは、なかなか難しい要望だ。
 結婚指輪は、佳菜からすれば考えられないほど高価なものを選ばれてしまったし、このマンションだって、入籍したときもっと広いところを買って引っ越して、家具も佳菜好みのものに買い替えようかと提案された。当然断ったが。
 なにを欲しがっても、和樹が困ることなんてなさそうだ。そう思ってから、ひとつだけ、彼に望むことを考えついた。
「……しいて言えば」
「うん、なに?」
「ずっと元気でいてくれれば、それで」
「──佳菜」
 すき焼きを食べていた和樹の手が止まったのを見て、佳菜はハッとした。
「すみません。重かったですね」
 両親を早く亡くし、たった一人の身寄りである祖父も病気を抱えている自分にそんなことを言われては、重荷になってしまうだろう。ましてや、愛情からはじまった結婚生活ではなく、いつまでこうして一緒に暮らしているのかもわからないのに。
「やだ、私ったら」
 佳菜は笑ってごまかそうとした。
 しかし和樹は笑わなかった。
「長生きするよ」
「和樹さん……」
「佳菜より一秒でもいいから長く生きると誓う」
 そんな約束、どんなに守ろうとしたって、絶対に守れるというものではない。
 それでも、和樹の言葉は佳菜の胸を熱くした。
「……約束ですよ」
「ああ、約束だ」
 和樹が佳菜の手を取り、指切りしてきた。
 それは佳菜にとって、指輪よりも、車よりも、マンションよりも嬉しい約束だった。

 その晩、テレビで除夜の鐘を聞いてから、二人は和樹のベッドで手を繋いで、とりとめのない話をした。
 佳菜は和樹の家族の話を聞きたがり、和樹も佳菜のことを聞きたがった。
 和樹の家族はとても仲がよく、子供ふたりがそれぞれ家庭を持ち、仕事で忙しくなったいまでも、お互いの誕生日にはお祝いを言い合ったりプレゼントを贈ったりしているらしい。
「うちはもう、誕生日だからっておじいちゃんには特に何もしてなかったですね。なにかプレゼントをと思っても、もう終活する年齢なんだからものを増やすなって言われちゃうし。よく行くお店でお寿司を食べるくらいで」
「それってもしかして、森下先生が倒れたところ?」
「そうです、そうです。あそこのお寿司屋さん、一品料理も握りもとっても美味しいのにお値段は良心的で、すごくいいお店なんですよ。月に一回はおじいちゃんと食べに行ってました」
 言ってから、和樹は普段もっとお高い寿司を食べているのではと思ったが。
「へえ。それは、俺も食べてみたいな」
 和樹は心からそう思っていそうだった。
「今度一緒に行きましょう」
 大将には、宗治が倒れたあの日、救急車を呼んでもらったりして、お世話になった。宗治が入院している間に、一度電話して命に別状はなかったことを伝えてはいたが、改めてお礼を言いに行きたい。
「よし、行こう。約束だ」
 和樹が小指を絡めてきた。約束が、またひとつ増えた。
「和樹さんは……」
「うん?」
「私に望むことってなにかないんですか? 欲しいものはないかとか、してほしいことはないかとか、私にばかり聞くじゃないですか」
 そう尋ねると、和樹は困ったような顔をして、口を開き、何も言わずにまた閉じた。
「和樹さん?」
「──ないと思う?」
「え?」
 繋いでいた小指が外された。和樹の手は佳菜の手から離れず、指先が手のひらに触れてくる。そのままツーっと手首の内側を撫で上げられ、佳菜はビクッと震えた。
「あの……和樹さん?」
「俺は佳菜が、欲しい。まるごと、全部」
 熱を孕んだ目をして、和樹は言った。
「え……」
 佳菜にそういう経験はない。が、なにを言われているのかわからないほど子供ではない。
 突然結婚した日から約一か月。こうして同じベッドで眠ったり、抱き締められたり、キスをしたり。心の関係が深まるのと比例するように、体の関係も深まってきているが、まだ最後まではしていなかった。
「え……と……」
 和樹はせかさず、佳菜の答えを待っている。
 佳菜は結婚してから今日までの日々を思い起こした。
 宗治が倒れたとき、和樹がいてくれたことで、どれだけ安心できたことか。頑固な宗治が手術を渋るのを説得するために、佳菜と結婚するという、彼の人生を大きく左右するような提案をしてくれたのもありがたいなんてものではなかった。
 結婚してからも、和樹はずっと佳菜に優しく、誠実だった。言葉だけでなく態度で、佳菜が大切だと示してくれた。
 そんな彼に、佳菜があげられるものなんて、自分自身しかないように思う。ましてや、彼が求めてくれるのなら。
「……あの、ど、どうぞ」
「いいの?」
 抱き寄せられ、顔を近づけられた。急に緊張してくる。重なり合った胸から、和樹の心臓もドキドキしているのがわかる。
 ドキドキしながらコクコク頷くと、顎をすくわれ、唇を重ねられた。
 いつもなら、ふにゅっと柔らかい感触が気持ちいいなと思うのだが、これからすることを想像してしまい、それどころではない。
「優しくする」
「……はい」
 佳菜が初めてなのは、余裕のなさでバレバレのようだ。
 ギシッと ベッドがきしむ。和樹が佳菜の上に乗り上げてきた。何度も和樹の顔が下りてきて、唇を重ねられる。その間に、パジャマのボタンがひとつ、またひとつと外されていく。
「んん……」
 口の中に和樹の舌が侵入してくる。
 いままでしていた挨拶のようなキスとは違う、熱い欲の孕んだキスに、体が熱くなる。
 大きな手に素肌を撫でまわされ、ビクッと体を震わせて彼にしがみついた。
「佳菜、すごく綺麗だ」
 乳房をすくい上げるように、和樹の手が動く。恥ずかしいが気持ちよくて、ヘンな声が出そうになる。佳菜は固く目をつむって、されるがままでいた。
 和樹に触れられると、どこもかしこも敏感になったみたいで、とてもじっとしていられなかった。
「んぐっ、くっ……」
「声、我慢しないで。聞きたい。聞かせて」
 噛み締めていた唇の狭間に、指を入れられてしまった。外科医である和樹の大事な指に傷をつけるわけにはいかないから、もう甘ったるい恥ずかしい喘ぎが口から漏れるのをどうすることもできない。
 和樹の愛撫は巧みだった。彼に触れられていないところなんてどこにもないんじゃないかと思うくらい丁寧に全身を愛され、一番敏感な部分に指を当てられたときには、目の前に白い火花が散ったような衝撃を感じた。
「ああっ……!」
 ガクガクと、腰が勝手に揺れてしまう。自分の体なのに、まるでコントロールが効かない。はしたなくて恥ずかしいのに、和樹はそんな佳菜が可愛くてたまらないみたいに、目を細めて見下ろしてくる。
 佳菜が快感に翻弄されて息も絶え絶えになってから、和樹は自分の着ていたものを脱ぎ捨て、佳菜の中に入ってきた。
「んうっ……」
 鈍い痛みが佳菜の中心を貫く。我慢できないほどではなかったが、圧倒的な存在感に息が詰まりそうになる。
「佳菜、ゆっくり息をして」
 大丈夫だから、と和樹がなだめるように腰を撫でながら、耳元でささやいてくる。
 和樹の呼吸とリズムを合わせるようにして、なんとか息を吸って、吐いた。それを繰り返しているうちに、だんだんと体から余計な力が抜けていった。
「まだつらい?」
「大丈夫、です……」
 本当は、まだ少しつらかった。でも馴染んできたのか、入れられてすぐのときよりはずっとらくになってきたし、和樹と繋がることができたという喜びが苦痛を上回ってきた。
「少し、動いてみていい?」
「はい」
 動かれると、引きつれるような痛みがまた少し走ったが、長くは続かなかった。
 佳菜の反応を見て大丈夫だと判断したらしく、徐々に動きを強めていった。
 そこからはもう、佳菜にできるのは和樹に抱きついて声を上げていることくらいだった。
「佳菜っ……佳菜っ……」
 余裕のない声で佳菜の名前を呼びながら、和樹が強く抱き締めてくれる。
 それからしばらくして、和樹は顔を歪めて腰の動きを速めた。
「くっ、もうっ……」
 彼が自分の中に欲を放ったのだと、なんとなくわかった。
「はあぁ……」
 和樹が大きく息を吐いて、ごろりと佳菜の横に転がった。すぐに抱き寄せられ、佳菜は彼の腕の中に閉じ込められた。
 二人とも汗だくだから、肌と肌がぺたっと張り付く。
「大丈夫?」
「は、はい……」
 心臓の鼓動はまだ激しいが、抱き締められていると安心できた。
「明日、森下先生は何時頃いらっしゃるって?」
 佳菜の額にくっついた髪をよけながら、和樹が尋ねてくる。
「朝九時頃には来ると思います。それでお昼くらいまでのんびりして帰るって」
「そっか。うちの方には、六時に行くって言ってあるから」
「六時ですか? もっと早く行って、お手伝いしなくていいんでしょうか」
「いいよ。おせちやらオードブルは買ってあるだろうし、兄貴の奥さんもいつもなにもしてない」
「そうなんですか」
 こういうことに関して男の人の言うことをどこまで鵜呑みにしていいのかはわからないが、あまり出過ぎたことをしてもいけないだろうし、様子を見て動くことにしよう。
「……フフッ」
 和樹が嬉しそうな声を漏らして、額にキスしてきた。
「楽しみだな、佳菜のことを見せびらかせるのが」
「み、見せびらかすって……」
 和樹の実家には、義兄家族の他に、近隣に住んでいる親戚が二組集まることになっているのだ。
 藤本総合病院で医師をしている義叔父と義叔母には病院で会ったことがあるが、その家族に会うのは初めてで、緊張してしまう。
 佳菜は自分のことを、ごく普通の人間だと思っている。真面目に働いているし、家のこともやるが、特技はないし、特別美人でもない。見せびらかせるような要素なんてないだろうに、和樹は甘いものを前にしたときくらい嬉しそうだ。
 この人は、私のことが本当に好きなんだなと、唐突に思った。
「──和樹さんって、私のこと、大好きですよね」
「え、なに突然。大好きだけど」
 戸惑い混じりの笑みを浮かべて、和樹が即答する。
 ああ、私もこの人のことが大好きだと心から思いながら、佳菜は和樹の胸に顔をうずめ、胸いっぱいに彼に匂いを吸った。



 元日の朝は、綺麗に晴れた。
 いつもの休みの日は、朝は少しのんびりしているのだが、佳菜は仕事の日と同じ時間に起き、部屋着ではなく外出するような服に着替え、しっかり化粧をした。
 和樹はまだ眠っている。いつも忙しい彼の眠りを邪魔したくなくて、起こさないようそっとベッドを出たのだ。昨晩初めて体を重ねてから、裸のまま寝てしまった彼を、恥ずかしくて見ていられなかったというのもある。
 エプロンをして、雑煮の用意をしはじめる。汁は昨晩作っておいたから、あとは蒲鉾と三つ葉を切るくらいで、準備は簡単だ。
 玄関には、正月用の花が飾ってある。
 宗治に、きちんとした生活を送っていると思って欲しかった。
「──おはよう」
 いつのまにかそばに立っていた和樹に声をかけられ、小さく飛び上がってしまった。
 もう少ししたら宗治が来るからか、白いシャツにVネックのニットという、きちんとめの恰好をしている。
「お、おはようございます」
 和樹の顔を見上げて挨拶を返したが、すぐに恥ずかしくなって目を逸らしてしまった。
「体は大丈夫?」
「は、はい」
 昨晩のことを思い出してしまい、顔が熱くなる。
 本当は、まだ自分の中になにか入っているような違和感が若干あったのだが、それは言わないことにした。
「なにか手伝うよ」
 気持ちはありがたいが、手伝ってもらうほどのことはなにもない。
「台所は大丈夫です。座っててください」
「そう? じゃ、そうするか」
 和樹はソファに座ってリモコンでテレビの電源を入れた。
 ワッと歓声が上がったのが聞こえた。テレビ画面の向こうでは、晴れ着姿の芸能人たちが大道芸を見て盛り上がっている。
 和樹がチャンネルを切り替えた。今度は駅伝だった。
 またチャンネルが切り替わる。時代劇の再放送が流れだし、和樹はテレビの電源を切った。
「正月のテレビって……」
「見るものないですよね、案外」
「そうなんだよ。気が合うな」
 和樹がソファから立ち上がって、ダイニングの椅子に座った。
「佳菜を見ている方がずっと楽しい」
「あんまり見られると緊張してしまいます。手元が狂って手を切ったら、どうしてくれるんですか」
「俺、縫合には自信あるよ」
 本当に自信満々で言うものだから、思わず笑ってしまった。外科医ジョークは卑怯だ。看護師ジョークで返したいところだが、残念ながら思いつかなかった。

 九時頃来ると言っていた宗治は、十分前には二人の住むマンションにやってきた。
「悪いな。年寄りは朝が早いんだ」
「全然いいよ。すっかりお腹減っちゃって、おじいちゃんまだかなあと思ってたから」
 宗治がこの家にやってくるのは、初めてだ。
 佳菜が引っ越してきたときは、宗治は退院したばかりで、手伝えるような状態ではなかった。それからも、佳菜が週に二回はおかずを持って実家に帰っていたので、あえてこちらに来る用もなかったのだ。
「森下先生、あけましておめでとうございます」
 和樹も玄関にやってきた。
 和樹と宗治は、主治医と患者なので、退院してからも病院で何度も顔を合わせている。
「おう、おめでとう。今年もよろしく頼むよ……しかし、立派なマンションだなあ」
 宗治は感心したような顔で言った。
「この花は佳菜が?」
 宗治は佳菜が玄関に飾っておいた正月らしい生け花を指さした。
「うん。なかなかのもんでしょ」
「ばあさんの方が上手かった」
「おばあちゃんと比べられるのはつらいなあ。かなうわけないもん」
 母親を早くに亡くしたから、料理でもなんでも、佳菜の先生は祖母だった。祖母は器用な人で、料理だけでなく、生け花の腕も相当なものだった。
「さあ、入って入って」
 宗治の手を引き、リビングに入る。
 広さにびっくりしたのか、宗治は目をパチパチさせて部屋の中を見回した。
「こりゃあ掃除が大変そうだ」
「週に二回、業者さんに頼んでるから、私がしてるのはたまに掃除機かけるくらいかな」
「贅沢──ではないな。佳菜も働いてるんだし」
「そうですよ。さ、どうぞ座ってください、森下先生」
 和樹がダイニングの椅子を勧めた。
「ああ、ありがとう……しかし、和樹くんにいつまでも『森下先生』と呼ばれるのは、妙な気分だな。病院でなら、まだわかるんだが」
「そう、ですよね……ただ、他にどう呼ばせていただけばいいのかわからなくて」
 和樹が困った顔をした。
 これが、宗治が佳菜の父親だったのなら『お義父さん』でよかっただろうが、宗治は祖父だ。『おじいさん』とはちょっと言いづらいだろう。
「まあいいじゃない。おじいちゃんのこと先生なんて呼んでくれる人、もうほとんどいないんだし」
 雑煮の汁を温め、切り餅を三個トースターに入れて焼く。
 うま煮は温めずに、そのまま大きめの皿にたっぷり盛って、取り箸を添えた。その他の、買ってきた黒豆や田作り、栗きんとんやなますなどもテーブルに並べ、佳菜も和樹の隣に腰を下ろした。
「それでは改めて……あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
 礼をした和樹の横で、佳菜も頭を下げた。
「……ああ。今年もよろしく」
 一拍置いて、宗治も頭を下げる。それからさっそく雑煮を口に運び、目を細めた。
「ばあさんの味だ」
「美味しいでしょ。お雑煮とうま煮には、ちょっと自信あるんだ」
「ほんと、美味しいよ」
 和樹はうんうん頷きながら雑煮の餅にかじりついた。
「お代わりある?」
「たくさんありますよ、うま煮も」
「やった」
 和樹はいつもながらいい食べっぷりで、見ていて気持ちがいい。
「おじいちゃんは、お餅気を付けてね。小さく切ろうか?」
「おい、年寄り扱いするな」
「だって年寄りでしょ。都合の悪いときだけ若くならないでよ」
 ポンポンと言い合っている佳菜と宗治を、和樹は楽しげに見ている。
「まったく……大変だなあ、和樹くん。こんな生意気な子を嫁にもらっちまって」
「いえいえ。佳菜以上の人はいません」
「そうか?」
「何に対しても一生懸命で、いつも笑顔で、可愛くて……もう佳菜と結婚する前の自分がどうやって生きていたのかわからないくらい、毎日が楽しいです」
「ちょっと、和樹さん」
 祖父の前でこれでもかというくらい惚気られてしまい、佳菜は顔を赤くした。
「……そ、そうかい」
 昔の男である宗治は、直球の惚気に面食らった様子だ。
「和樹くんは、病院で会うのと、ずいぶん雰囲気が違うな」
「佳菜にも言われます。本人、そんなに自覚はないのですが」
「病院だと、もっとこう、クールな感じだろう?」
「さすがに患者さんの前で佳菜のことを思い出してニヤニヤするわけにはいきませんからね。それに患者さんの前では、一定の機嫌でいたいですし」
「それはわかるな」
 宗治はうま煮を取り皿に取り、頷いた。
「患者は、こっちが思う以上に医者の機嫌に敏感なものだ。不愛想なくらいでいいから、いつも同じ態度でいた方がいい」
 宗治がうま煮の里芋を口に運んで、「うまい」と小さな声で言い、目を細める。そして、部屋を見回し、並んで座っている和樹と佳菜に目をやり、箸を置いた。
「おじいちゃん?」
「……和樹先生にとって俺は、面倒な患者だったと思う」
「いえ、そんなことは」
「俺だったらものすごく嫌だね、知識だけは無駄にあって、それでいて最善の治療は拒否する、頑固なじいさんの相手なんてするのは」
 宗治がなにか大事なことを話そうとしているのを察し、佳菜と和樹も食事の手を止める。せっかくの正月に手術の話題を出して嫌な思いをさせたくなかったのだが、まさか宗治の方から言い出すとは思わなかった。
「退院してから何度も通院したが、君は手術をするよう説得してはきたが、考えを曲げない俺に一度も嫌な顔をしなかった。そして──」
 佳菜の方を見て、宗治は話を続ける。
「佳菜が、本当にいい顔で笑うようになった。急に結婚すると言いだしたときは、すぐにでも出戻ってくるんじゃないかと正直思ったんだが、俺におかずを持ってくるたび、楽しそうに君の話をする。そして、こうして来てみれば、この仲の良さだ……もう佳菜は、俺が死んでも独りぼっちにはならない」
 しみじみと言われ、佳菜は身を乗り出した。
「ちょっと、もうすぐ死ぬようなこと言わないで。さっきは年寄り扱いするなって言ったじゃない」
「実際のところ、もう七十四だからな。立派なじじいだ。手術しようがしまいが、いつぽっくり逝ったっておかしくない」
 宗治は佳菜から和樹に視線を移した。
「和樹先生。手術をお願いしていいだろうか」
 佳菜は息をのみ、和樹は目を見開いた。
「っ、もちろんですが……いいんですか?」
「手術の予定が詰まっているかもしれんが、できるだけ早い方がいいな。春には結婚式を挙げたいと、院長が言っていただろう。できればそのとき、あまり気を使われたくない」
「おじいちゃん……本当にいいの?」
「ああ。この一か月、俺なりに和樹先生と佳菜のことを見てきた。そのうえで、この先生になら自分の体も大事な孫も任せられると判断した」
 宗治の言葉に、和樹は感無量という感じで天井を仰いだ。
 それから真剣な顔で、宗治に右手を差し出した。
「──全力を尽くします」
「ああ、よろしく頼む」
 がっちりと手を握り合う二人を見て、佳菜は目を潤ませた。
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