愛に目覚めた凄腕ドクターは、契約婚では終わらせない
第七章 佳菜の本音
 宗治の手術は、二週間後の火曜日、午後一時からに決まった。
 それからは、和樹はその手術に向けた検査をいくつか行い、佳菜は宗治が入院するための準備を進めていった。
 そんななか、和樹も佳菜も早く帰れる日があったので、二人は宗治が常連の寿司屋へ、お礼がてら夕食を食べに行った。
「──いやあ、あの小さかった佳菜ちゃんが、こんなイケメンのお医者さん連れてくるようになるとはなあ。俺も年を取るわけだよ」
 寿司屋の大将にしみじみと言われ、ちょっと恥ずかしくなる。
 物心ついた頃から宗治に連れられて何度も来ていたので、大将は佳菜の子供の頃をよく知っている。
「佳菜ってどんな子でした?」
 和樹がカウンターに身を乗り出して尋ねた。
「そうだなあ……大人びた子だったよ。じいさんとばあさんにきっちり躾されてたからお行儀はいいし、味覚も渋かったし」
「渋かったかなあ……?」
「渋かったさ。小学生くらいの子は、たいていマグロだのサーモンだのハマチだのを食べたがるもんなのに、その頃からアワビやら赤貝を喜んで食べてたろ」
 そうかもしれない。貝類が好きなのは昔からだ。
「そんなこと言われると食べたくなっちゃうなあ。赤貝ください」
「あ、俺もお願いします」
「はいよ」
 大将が慣れた手つきで寿司を握りはじめる。
「それにしても、宗治さんは運がよかったよ。倒れたところに偶然お医者さん、しかも心臓が専門の先生が通りかかるなんて、そうそうない」
「あのときは、本当にお世話になりました」
 佳菜は改めて頭を下げた。
「いやいや、俺なんて、救急車を呼ぶくらいしかできなかったんだから、礼を言われるほどのもんじゃないよ。しかしあの後宗治さんが一人で来て、佳菜ちゃんとそのときのお医者さんが結婚したって聞いたときは、びっくりして飛び上がっちまった」
「え、おじいちゃん来たんですか?」
「ああ。退院した二、三日後だったかなあ。あまりに急な話で、宗治さんもキツネにつままれたような顔してたよ」
 二人の前に、赤貝の握りが出てきた。醤油をつけて、さっそくいただく。磯の香りが口いっぱいに広がって、とても美味しかった。
「あぁ、これは美味いです」
 佳菜の隣で、和樹も幸せそうな顔をしている。
「森下先生には、ずいぶんご心配をかけてしまったんだろうなとは思ってます」
「いまの若いもんはなに考えてるのかさっぱりわからん、とはこぼしてたかな。先生ほど身元がしっかりしていて立派な職業に就いている人はそうそういないんで、どこの馬の骨ともわからんやつがいきなり孫を嫁にしちまった、みたいな心配はしてなかったけど」
 なにも頼まずとも、大将は次の寿司を握りはじめている。佳菜の大好きなアワビのようだ。
「その後も、何度か来てるよ。今月に入ってからも、一回」
 佳菜と同居していたときより、来る頻度が高くなっている。一人暮らしになったから、誰かと話したいのだろうか。
「それでまあ、毎回佳菜ちゃんのことばっかり喋っていくわけだ。三日にいっぺんは実家に顔を出すなんて、結婚した自覚がないとか文句言うくせに、嬉しそうな顔しちゃってさ」
「なんか……すみません、大将に年寄りの話し相手させちゃって」
「いいってこった。そうそう、正月明けに来たときには、先生のことずいぶん褒めてたよ。たいした男だって」
「え、ほんとですか」
 和樹が嬉しそうに言った。
「ほんとほんと。病院での誠実で、宗治さんの意向を尊重した診察態度も褒めてたし、佳菜ちゃんが結婚してから本当に幸せそうで、ばあさんに我慢ばかりさせていた俺なんかより夫としてずっと立派だって言ってたよ」
「嬉しいです……けど、僕なんて医者としてまだ森下先生の足元にも及ばないので、ちょっと恥ずかしいです」
 和樹は照れ笑いした。
「そんな先生だから、宗治さんは佳菜ちゃんも自分の体も安心して預けられるって思ったんだろうね……手術はいつだい?」
「来週です」
「そうか。俺が言うのもおかしいかもしれないけれど、宗治さんのこと、よろしく頼みます」
 大将がカウンターの向こうで頭を下げた。
「全力を尽くさせていただきます」
 和樹はカウンターの上で大将の手を取り、力強く言った。



 手術の前々日。
 和樹は当直で帰ってこない日だったので、佳菜は終業後実家に戻り、久しぶりに宗治と二人で夕食を食べた。
「おじいちゃん、一人のときもちゃんと食べてる?」
「飯くらい炊ける。おかずはお前が届けてくれてるだろ」
「そうだけど」
 少し痩せたように思うのは気のせいだろうか。読書に夢中になって一食抜いたりとか、そういうことはしていそうだ。
「体調は? ばっちり? 熱発したりしてないよね?」
 宗治は手術の準備のため、明日から入院する。
 佳菜にとっては、待ちに待った手術だ。直前になってやっぱりできないなんてことになったらと、気が気でない。
「お前は心配性だな。ばあさんにそっくりだ」
「明日は付き添うからね。一緒に病院行こうね」
 和樹も帰ってこないことだし、今日は泊まっていくつもりだった。
「ああ、よろしく頼むよ」
 佳菜はなんだか今日一日ずっとソワソワしていたが、宗治は落ち着いたものだ。
「……おじいちゃんは、怖くないの?」
「怖くはないな。どこをどうされるのかはよくわかっているし、藤本総合病院の心臓血管外科の治療は、最先端レベルだ。使う機器もだし、和樹先生の腕も評判がいい」
「オフポンプで、内視鏡下のロボット手術だったよね」
「ああ」
 オフポンプとは、人工心肺は使わず、心臓を動かしたまま行なう手術のことだ。そうすることにより、人工心肺が引き起こす合併症の危険が減る。
 内視鏡下のロボット手術とは、胸に四つの穴を開け、そこからメスや鉗子、カメラを装着したロボットのアームを差し込んで、医師はそれをカメラから送られてくる画像を見ながら離れたところから操作する手術だ。
 小さな穴を開けるだけだから、従来の胸の部分を切り開いて行う手術よりも、患者の体の負担はずっと軽い。傷がすぐふさがるため、術後三、四日で退院することも可能だ。
「俺が現役を引退したのは、まだロボット手術が出たばっかりの頃だったからな。この手術法なら、そこまで難しくなさそうだし、確実に俺より和樹先生の方が上手いだろうよ」
「それがわかってるなら、倒れたあとすぐ手術に同意してくれたらよかったのに」
 佳菜は唇を尖らせた。
「それでも、やってみないとわからないのが、手術なんだよ」
 宗治は噛み締めるように言った。
「人の顔がみんな違うように、体の中だってみんな違う。俺は何千回と手術をしてきたが、ひとつとして同じ手術はなかった。あてにしていた血管が想像していた位置に見当たらないなんてこともざらだった」
 食事を終えた宗治が立ち上がった。
「佳菜、こっちに来い」
「なに?」
「いい機会だから、いまのうちに教えておく」
 連れていかれたのは、和室の押し入れの前だった。宗治は襖を開き、来客用の布団が積んである横にさりげなく隠されていた茶色い袋を出した。
「この中に、俺がいなくなったとき必要になるものが全部入っているからな」
「え……」
 通帳、マンションの権利書に、株の口座の控え。そして終活ノートには宗治の知人や友人の連絡先や、お寺に関すること、延命治療は望まないことなどが整理して書かれていた。現金も百万円ほど入っている。人が死ぬと、その人の口座からはいったんお金が下せなくなるからだろう。至れり尽くせりだ。
「……おじいちゃん」
「遺産はたいしてないぞ。お前に残してやれるのはこのマンションくらいだが、和樹くんがいれば大丈夫だろう」
「もう、いますぐにでも死ぬようなこと言わないでよ」
 佳菜は苦笑しながら宗治の二の腕を叩いた。
 宗治にしてみれば、いつか必ずくるそのときのためにということなのだろうが、冠動脈バイパス手術を明後日に控えたいまは、あまり聞きたい話ではなかった。

 その夜佳菜は、もともと自分が使っていた部屋に来客用の布団を敷いて横になった。ベッドは、新居に運んでしまったからだ。
 何度も寝返りを打った。眠気は、なかなかやってこなかった。
 冠動脈バイパス手術が成功率の高い手術なのは知っているし、和樹の腕には絶大な信頼を置いている。だから不安に思う必要などないとわかっているのに、じわじわと黒い染みのような不安が心に湧いてきて、消えてくれない。
 せめて宗治や和樹の前では、顔に出さないようにしなければ。



 翌日昼過ぎに、有休を取っていた佳菜は入院用の荷物を持ち、タクシーを呼んで、宗治と一緒に藤本総合病院へ行った。
 院長からはどうぞ個室を使ってくださいと勧められたが、宗治は大部屋でいいと断った。
 四人部屋の窓側のベッドに荷物を置き、パジャマに着替えてもらう。
 手術に備えて、今晩九時からは絶食だ。
「それじゃあ、私行くね。明日手術の一時間くらい前にまた来るから」
「ああ、世話かけるな」
「看護師さんたちにわがまま言ったりしないでよ」
「ぬかせ」
 同室の入院患者たちに軽く頭を下げて、部屋を出る。次に向かったのは、心臓血管外科のナースステーションだ。
「すみません」
 外から声をかけると、中にいたナースたちの視線が、一斉に佳菜の方に向いた。
「あら……」
 向けられた目の大半は、冷めたものだった。
 いきなり和樹と結婚した佳菜を、心臓血管外科のナースたちはあまりおもしろく思っていないというのは知っていたが、宗治が世話になる以上挨拶はしておきたかった。
「今日からまた祖父がお世話になります、どうぞよろしくお願いします」
 挨拶をして頭を下げたが、ナースステーションには少し白けたような空気が漂っている。宗治が倒れた日の終業後、和樹に告白して振られた佐藤という看護師の姿は見られなかった。休みなのか、病棟を回っているのかはわからない。
 唯一、佳菜の同期で宗治が倒れたとき救急対応してくれた看護師だけが、元気よく「任せておいて」と肩を叩いてくれた。
「お忙しいところ、お邪魔しました。失礼します」
 と、もう一度頭を下げて、その場を去る。
 みんなプロだ。まさか自分のことが気に入らないからといって宗治への対応が変わったりすることはないだろうが、けっして小さくはない不安を抱えている佳菜には、ナースたちの冷たさが堪えた。



 病院を出た時には、小雨が降っていた。
 途中でスーパーに寄ろうと思っていたのだが、それを見て一気に面倒になり、まっすぐ自宅に帰った。肉も野菜もなにかしらある。今晩の食事は、冷蔵庫に入っている食材で適当に作ろう。
 まだ時間が早かったので、一休みしようと、部屋着に着替えてからルイボスティーを入れた。疲れたときのご褒美用に買ってある、ちょっといいめのチョコレートも一粒添えた。
 熱いお茶を飲んでも、気分は落ち着かなかった。
 明日の手術に向けて、ナーバスになっているのがわかる。そんな自分が嫌で仕方なかった。宗治が手術を受けてくれるのを心待ちにしていたはずだったのに、これではまるで、和樹を信用していないみたいではないか。
 普段あまりつけないテレビの電源を入れてみる。
 平日の夕方は、情報番組かドラマの再放送ばかりで、興味をそそられるものはなく、ザッピングしてすぐに電源を切ってしまった。
 こんなとき、実家にいたなら徹底的に家を掃除して気を紛らわせたりできた。残念ながら、週二で業者の掃除が入るこの家は綺麗すぎる。
 かといって本を読んだりする気分でもなく、まだ時間はずいぶん早いのだが、夕食を作ることにした。
 冷蔵庫のチルド室に鶏ひき肉があったので、鶏だんご汁を作ろうと思い取り出した。ボールにあけ、ねぎのみじん切りとすりおろした生姜を少々、塩コショウ、そして生卵を入れる。
「──あ」
 流れるように生卵を二つ割り入れて混ぜ込んでしまい、思わず声が出た。
 種がゆるゆるだ。これだと綺麗にだんごにならない。焦って片栗粉を入れたが、焼け石に水だった。
 それでもスプーンでそっと入れれば、不格好なりになんとかなるかと思ったのだが、だし汁を作ってそこにそっと入れただんごになるはずの鶏肉は、パーッと汁全体に散っていった。
「……まあ、いっか」
 面倒になって、残りの種もザバッとだし汁に入れて掻き混ぜてしまった。これはこれで、とろみのある美味しい汁物になるだろう。
 主菜は全然思いつかなかったが、冷凍庫に鶏もも肉が一枚あるのを見つけて、から揚げを作ることにした。
 一口大に切った鶏もも肉を醤油と酒と生姜の汁に漬け込んでから、汁物と主菜が鶏と鶏で被っていることに気づく。
 なにやってるんだろうと、うんざりする。
 和樹はそんなこと気にしないで食べてくれるだろうし、気づきすらしないかもしれないが、自分が嫌だった。
 ため息をつきながら、から揚げに添えるためのキャベツを野菜室から取り出す。上から二枚はいで洗い、千切りにしていく。
 ざくざくと半分ほど無心で切っていたところで。
「──痛っ!」
 鋭い痛みが走り、佳菜は左手を押さえた。中指の先をけっこうざっくりやってしまい、血が滴っている。
 本当になにをやっているんだろう。
 うんざりを通り越して、悲しくなってきた。
 指の根元をティッシュの上からぐっと押さえ、手を心臓より上にあげて血が止まるのを待つ。この家に来てからまだ一度も使ったことはないが、救急箱は納戸にあったはずだ。
 出血がだいたい収まってから、自分で自分の手当てをした。我慢できないほどではないが、ズキンズキンと鈍く痛む。
 すっかり料理をする気分ではなくなってしまった。せめて和樹には揚げたてのから揚げを出そうと、油の用意だけして、自分の部屋に引っ込んだ。
 自分のシングルベッドにごろりと横たわる。久しぶりというほどではないが、初めて体を重ねた日からは当たり前のように和樹の部屋で一緒に眠っているから、妙な気分だ。
 左手を顔の前に掲げた。中指には、大きめのサイズの絆創膏が巻いてある。
 情けない。
 明日の手術を不安に思っている罰のように思えた。
 それからは、横たわったまま、ただボーッと和樹が帰ってくるのを待った。そしてもうすぐ帰るというメッセージがスマートフォンに届いてからノロノロと起き上がって、から揚げを揚げた。キャベツはもう切る気になれなかったので、トマトだけ切って添えた。
「──ただいま」
「おかえりなさい」
 七時頃帰ってきた和樹は、まったくいつもと同じ様子だった。
 明日は佳菜にとってはこの上なく大事な手術だが、和樹にとっては毎日何件もやっている手術のひとつなのだということを思い知らされる。かといって、変に気負われても困ってしまうのだが。
 鶏だんご汁ではなくなった謎の汁物を温めて、すぐに食事にする。佳菜は食欲が全然なかったが、和樹に心配されたくなくて、ご飯の量を普通に盛った。
 しかし食べはじめてすぐ、和樹は佳菜の手の怪我に気が付いた。
「その指、どうしたの?」
「あ……包丁で、ちょっと切っちゃって。たいしたことはないんです」
 そう答えたが、和樹はまだ心配そうな顔をしている。
「洗い物は俺がやるよ」
「大丈夫ですよ。使い捨ての手袋をしてやりますから」
「いいから」
「……ありがとうございます」
 あまり突っぱねるのもどうかと思い、素直にお礼を言った。
 いつもより品数が少なく、いろどりの悪い食卓を気にする様子もなく、和樹はもりもりご飯を食べている。相変わらず、食欲旺盛だ。
 怖くはないのだろうかと、ふと思った。人の心臓の血管をいじるなんて。ただ、高校の友達などに看護師になったと言うと「人の血管に針刺すの、怖くない?」と聞かれたりするから、周りが思うほど怖くはないというか、慣れるものなのかもしれない。
「食べないの?」
「え?」
 聞かれて気づいたが、手が止まっていた。
 箸を使い、から揚げを口に運ぶ。美味しいのか美味しくないのか、よくわからなかった。
「明日は十二時くらいに来てくれたらいいから」
「わかりました」
 佳菜は明日も有休を取っている。宗治の手術が終わるまで付き添うつもりだった。手術はなにごともなければ、二時間もあれば終わるはずだ。
 早く、終わってほしかった。
「……森下先生が冠動脈バイパス手術をしはじめた頃は、人工心肺を使って心臓を止めて、胸の部分を大きく切るようなやり方しかなかっただろうから、本当に大変だったと思う。手術する方も、される方も」
「ですよね……」
 胸骨を切って開いてとなると、入院期間もずいぶん長かったことだろう。
「でもいまのやり方なら、小さい穴を四つ開けるだけだから、三日も入院すれば家に帰ることができる。それに俺は、もちろん森下先生ほどの数をこなしてはいないけど、内視鏡手術で失敗したことが一度もない」
 だから大丈夫だと言ってくれているのがわかる。
「……はい」
 和樹の気遣いが、ありがたくもあり、申し訳なくもあった。

 その晩、和樹と同じベッドに入ってからしばらく経っても、眠気はまったくやってこなかった。前日もあまり眠れていないのに。
 寝つきのいい和樹まで、たぶん自分を気にして起きているのを見て、寝なきゃ寝なきゃと焦るが、焦ったところで眠れるものでもなく、小さくため息をついてしまう。
「……少し、話そうか」
 真上を向いていた和樹が、佳菜の方に体を向けた。
「そうだなあ……なぜ俺が心臓血管外科医になったか、とか」
「おじいちゃんの手技を見て憧れたから、でしたっけ?」
「そうだね、それもある」
 和樹の手が、佳菜の左胸に触れた。心臓の真上辺りだ。色を感じさせる触れ方ではなかった。
「実家が総合病院を経営していたし、人から必要とされる仕事がしたいと思っていたから、医者になること自体はわりと早い段階から決めていた。中学生とか、その辺りだったかな。ただ、藤本総合病院の強みが脳外科だったから、自分は脳外科医になるんだろうなと漠然と思ってた」
 佳菜は黙って和樹の話を聞いていた。
「……綺麗だと思ったんだ」
「え?」
 和樹は自分の手をじっと見ている。その下にある佳菜の心臓が見えているみたいだった。
「内視鏡に映った、動いている心臓を見たとき。拍動する様子は、まるで別の人格を持った生き物みたいだった。命の根源を見た思いだったよ」
 和樹はあいている方の手で、佳菜の右手を取った。パジャマの上から和樹の左胸のすぐ下の肋骨の間に触れさせられると、指で彼の心臓の拍動を感じることができた。
「明日はこの辺りに穴を開ける。俺は内視鏡で、森下先生の心臓を見る。そして、命が脈打つ様子に尊さを感じながら、バイパスを作る」
「……はい」
「森下先生が、俺みたいな若造に体を預けてくれることを、光栄に思うよ。最善を尽くすと誓う」
「……はいっ」
 和樹の誓いを聞いているうちに、涙が溢れてきてしまった。
「ご、ごめんなさいっ」
「どうして謝るの?」
 震える手を和樹が握ってくる。
「和樹さんにおじいちゃんの手術をしてもらえるなんて、こんなありがたいことはないはずなのに……怖くてしかたないんです」
「謝ることないよ。心臓をいじられると聞いて、怖くない人なんていない。成功率の高い低いは関係ない」
 和樹の声があんまり優しいものだから、涙が止まらなくなる。
「お、おじいちゃんが、死んじゃったら、どうしよう」
 佳菜はしゃくりあげて、和樹に縋り付いた。
 怖くて怖くて、どうしようもなかった。
「大丈夫だよ、佳菜」
 大きな手が、背中を撫でてくる。
「で、でも、お父さんも、お母さんも、おばあちゃんも、いなくなっちゃった。病院は助けてくれなかった、なんでっ」
 拳を握り締めて、和樹の胸を何度も叩いた。父母や祖母が死んだときだって、主治医にそんなことはしなかったのに。これでは完全な八つ当たりだ。わかっていても、怒りにも似た悲しみが胸の辺りで爆発して、自分で自分をコントロールできなくなる。
「みんな、みんな私の前からいなくなる。おじいちゃんだって、和樹さんだって、きっとそう」
「つらかったな、佳菜。本当につらかったな」
 まるで癇癪を起した子供だ。力の加減ができていないから、女の力とはいえけっこう痛いだろうに、和樹は殴られるがままでいる。
 わぁわぁと声を上げて泣き続ける佳菜の背を、和樹は辛抱強く撫で続ける。
 どのくらいそうしていたか、やがて佳菜は、ぷっつりと糸が切れたように眠りに落ちた。
「……おじい……ちゃん……」
 眉間にしわを寄せた、穏やかとはいえないその寝顔を、和樹はいつまでも見つめていた。



 翌朝。佳菜が目を覚ますと、すでに和樹の姿はなかった。いつもなら、だいたい佳菜の方が早く起きるのに。
 体を起こそうとしたところで目覚まし時計が鳴った。時刻は午前九時だ。和樹が遅い時間にセットしてくれていたようだ。
 リビングに行ってみたが、当然ながらもう和樹はいなかった。
 佳菜は部屋を見回し、ダイニングテーブルの上に置手紙があるのを見つけた。
『おはよう。よく寝ていたので、起こしませんでした。あとで病院で会いましょう』
 大事な手術の日だというのに、朝食を出せなかった。軽く落ち込みかけたが、キッチンを見ると食パンを焼いて食べた形跡があった。フライパンも汚れているところをみると、玉子とソーセージくらいは食べていそうだ。
 ならいいか、と自分でも意外なくらいあっさり思えた。
 昨晩あれだけ泣いたせいだろうか。気分はスッキリしている。
 朝食を食べる前に顔を洗おうと、洗面所へ向かう。鏡に映った自分は、顔がむくみ、まぶたが腫れぼったくてひどい顔をしていた。自分でも笑ってしまう。
 冷たい水で顔を洗うと、一気に目が覚めた。それから着替えを済ませ、簡単な朝食を摂り、化粧をする。
 やることがなくなったので、まだだいぶ早いが病院に行くことにした。どうせ家にいたって落ち着かないのだ。宗治と世間話でもしていよう。
 
 冬の冷たい風にあたりながらゆっくり歩いて病院に行き、宗治のいる大部屋へと向かう。
 宗治はベッドの頭側を上げて、退屈そうに窓の外を眺めていた。
「おじいちゃん」
「お、もう来たのか、早いな」
「調子はどう?」
 佳菜はベッド脇にあった丸椅子に座った。
「腹が減った」
「そりゃしかたないよ」
 今朝から、宗治は絶飲食中だ。
「早く終わるといいね」
「ああ。だがロボット手術を自分が受けられるなんて、正直ちょっと楽しみだな。麻酔がかかっていて感覚がないのが残念なくらいだ」
「おじいちゃん、意識があるからって、余計なお喋りして和樹さんの気を散らさないでよ」
 数日前に行われた手術の説明を、佳菜は宗治と一緒に聞いた。麻酔は宗治の希望でアウェイク、つまり胸部にのみ局所麻酔をかけることになった。全身麻酔より体の負担が軽いからというが、佳菜は宗治が手術の様子を見たいからアウェイクを選んだのだろうと思っている。
 たわいのない話をしているうちに、手術の開始時間が迫ってきた。
 宗治はベッドの周りをカーテンで覆って、パジャマから術衣に着替え、ベッドをフラットに戻した。
「──森下さん、ルートの確保させてください」
 カーテンの向こうから看護師の声がした。
「はーい」と返事をして、佳菜はカーテンを開いた。
「あ……」
 そこにいたのは、あの宗治が倒れた日、和樹に振られたという佐藤だった。
「よろしくお願いします」
 佳菜は軽く頭を下げた。佐藤は気まずそうな顔をしているが、佳菜もたぶん同じ顔をしている。
 ただ、佐藤から敵意のようなものは感じられなかった。そして佐藤は点滴を刺すのが上手かった。
 あっという間に作業を終えた佐藤が「……ちょっと、いい?」という感じで目配せしてきた。
「あ、はい」
 佐藤の後ろについて、病室を出る。
「……悪かったわね」
 廊下に出るなりそう言われた。視線は気まずそうに、床に向いている。
「え?」
「私が振られてすぐ、あなたが和樹先生と結婚したのが許せなくて……つまらない嫌がらせしちゃった。こっそり背中汚したり」
「ああ……」
 そんなこともあった。結局染みが取れなくてナースウェアを一枚買うことになったが、そんなに高価なものではないので、もう気にしていない。謝ってくれるなら、それでいい。
「初めは、絶対なにかの間違いだって思った。だって私、誰よりも和樹先生のこと見てたから。誰かと付き合ってる様子なんて、まったくなかったって言い切れるもん」
「そう……でしょうね」
 実際、佳菜と和樹は交際期間ゼロ日で結婚している。
「だけど……結婚してから、和樹先生はどんどん変わっていった」
「え?」
「ああ、仕事中は変わらないわよ。あのクールな先生のまま。でもね、たとえばひとつ上げると、休憩室でお弁当を開けた瞬間に、フッと笑うの。毎回。その顔があんまり幸せそうで、横からかっさらわれたと思っていたけれど、初めから私の入る余地なんてなかったんだって思い知らされたわ」
 佐藤は、すっかり諦めたような顔をしていた。
「……急な結婚で、いろんな方を戸惑わせてしまったのはわかっていますし、申し訳ないとも思っています。だから、あまり気にしないでください」
「ありがと。そう言ってくれると助かる」
 佳菜はひとつ肩の荷が下りた気分になった。そして、ロッカーの鍵をまだ交換してもらっていなかったことをふと思い出した。
「でも、入浴剤は使いたかったかな」
 ナースウェアよりそちらの方が惜しかったので、ついこぼしてしまったのだが。
「入浴剤? なんのこと?」
 と、怪訝そうな顔をされた。
「あ──いえ、忘れてください」
「そう?」
 軽く首をひねりながら、佐藤はナースステーションに引き上げていった。

 宗治の手術がはじまった。
 いま佳菜は、家族用の控室で、和樹が見ているのと同じモニター映像を見ている。カメラに映っている宗治の心臓は、病を抱えているようには見えないほど力強く拍動していて、命の塊のように思えた。
 綺麗だと思ったという和樹の気持ちがわかる気がした。
 それにしても、と、さっきの佐藤との会話を思い出す。
 佳菜のロッカーを開けて愛理がくれた入浴剤をぐちゃぐちゃにした方の嫌がらせは、佐藤がやったのではないらしい。片方だけ認めて、もう片方は嘘をつく、なんてことはしないだろう。
 佳菜を気に入らない人は、何人もいる。心臓血管外科のナースステーションに挨拶に行ったときだって、けっして温かい空気ではなかった。
 それでも、みんないい大人だ。嫌がらせまで実行するのは、憧れ程度ではなく和樹のことが本当に好きだった人くらいだろう。
 目の前のモニターでは、鉗子やメスがすばやく動き続けている。和樹は全力を尽くすと誓ってくれた。彼はいま戦っているのだ。
 でも、手術は医師ひとりでやるものではない。
 ──もし、オペ室の看護師がロッカーを開けた人物だったら?
 嫌な想像をしてしまい、背中に冷たい汗が流れる。
「……大丈夫」
 佳菜は声に出して言い、両手を握った。
 和樹を、信じよう。

 時計は、じれったいくらいに進まなかった。
 大丈夫、大丈夫と呟きながら、モニターを見つめ続ける。そして控室に入って一時間半ほど過ぎたところで、フッとモニターの映像が消えた。
 内視鏡が抜かれたのだ。
 バイパスが上手くできたから抜かれたのだと思うが、緊急事態が発生して切開手術に切り替わった可能性もなくはない。
 じりじりとした思いで、スタッフが来るのを待つ。
 やがて、コンコン、とノックの音がした。
「は、はい」
 返事をして立ち上がる。ドアが開き、現れたのは、主治医の和樹だった。
 顔が笑っている。
「上手くいったよ。もう大丈夫」
「よ──よかった……」
 安心しすぎて腰が抜けそうになった佳菜を、和樹が慌てて支える。
「集中治療室にいるから、会いに行こう。そこで手術の経過とこれからのことを説明するから」
「わかりました」
 佳菜は和樹に連れられて集中治療室へ向かった。
 自動ドアが開き、その先に酸素マスクをつけた宗治の姿が見えた。
「おじいちゃん」
 宗治が点滴の刺さっていない方の手を上げ、親指を上に向けたのを見て、涙が出た。
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