愛に目覚めた凄腕ドクターは、契約婚では終わらせない
第八章 二度目のプロポーズ
宗治の手術が終わった次の日から、佳菜は通常勤務に戻った。
「おじいさまは、もう大丈夫そうなの?」
夜勤のメンバーとの引継ぎが終わった後、先輩看護師の田辺鈴奈が尋ねてきた。
「はい。もう心配いらないだろうって、和樹さ──先生が。点滴はついてますけど、もう自由に歩き回ってますし」
「そう。和樹先生が言うなら、間違いないわね」
「先輩には、本当にご迷惑をおかけしました」
宗治の手術が決まったとき、一月のシフトはもう決まっていた。手術の前日と当日、出勤するはずだった佳菜とシフトを替わってくれたのが、鈴奈だった。
「気にしないで。特に予定もなかったし」
「あの、これつまらないものなんですけど」
佳菜が差し出したのは、自宅近くにある洋菓子屋で買ってきたクッキーだった。佳菜も好きで何度か自分用に買っているもので、プレーンとカカオが五枚ずつ入っている。お礼として大げさになりすぎず、ちょうどいいと思ったのだ。
「あら、嬉しい、ありがとう」
茶色い紙袋の中身を見て、鈴奈は笑顔でクッキーを受け取ってくれた。
それからいつものように忙しく働き、夕方を過ぎた頃だった。
廊下を歩いていて、顔なじみの掃除係の女性職員が、休憩室のごみ箱に溜まったごみを半透明の大きなごみ袋にあけて出てきたところに出くわした。
「こんにちは」
「はい、こんにちは」
笑顔で挨拶を交わしあって、すれ違おうとしたとき。
「──待ってください」
ごみの中に、視界の片隅に引っかかるものがあって、反射的に女性職員を呼び止めた。
「はい、どうしました?」
その辺にいくらでもある、なんてことのない茶色いクラフト紙の小さな袋だ。それなのに、胸がざわざわした。
「ちょっとすみません」
佳菜はごみ袋の中に躊躇なく手を突っ込んだ。
「え!? ちょ、ちょっと、汚いですよっ」
あとで手を洗えばいいだけだ。取り出した紙袋を開く。
透明な包装の中に、白と茶色の粉が混ざったものが入っていた。裏返してみると、原材料と賞味期限の書かれたシールが貼ってあった。
佳菜の自宅近くにある洋菓子屋のものだ。
「……先輩」
佳菜は女性職員の前で立ちすくんだ。
「どうしたの? あなたのだったの?」
「いえ……お騒がせしました」
佳菜は曖昧に微笑み、クッキーだったものをごみ袋に戻した。
病棟に戻り、扉の開いた病室を廊下からゆっくりと見て回る。そのうちのひとつに、鈴奈の姿があった。
いつものように優しい笑顔で、入院している子供の点滴の具合を見ている。鈴奈はどんなに忙しくとも、焦りを表に出さない。
以前和樹が「患者さんの前では一定の機嫌でいたい」という話をしていたことがある。
常にフラットな機嫌でいる鈴奈は、佳菜の理想とする看護師だった。
その鈴奈の笑顔が、廊下からじっと自分を見ている佳菜の顔を見て、わずかに歪んだ。
「──それじゃ、また後で来ますね」
鈴奈が患者の母親に軽く頭を下げて、大部屋から出てきた。
「どうしたの?」
何気ないふうを装っているが、佳菜の様子がおかしいことには気づいているようだ。
「クッキー、お好きじゃなかったですか」
「なんの話?」
鈴奈は休憩室の方に向かって、廊下を歩きだした。その後ろについていく。
「すみません、見てしまいました」
そう言うと、鈴奈はスッと真顔になった。
「……そう」
いまだに信じられない思いだった。クッキーを、単に割るのではなく、粉になるほどぐちゃぐちゃにしている鈴奈の姿が想像できない。
茶色と白の粉が混ざり合ったものが、頭を離れない。そして、一か月ほど前に、似たようなものを見たことを思い出した。
愛理がくれた、入浴剤だ。
「ロッカーに入れたあった入浴剤を混ぜたのも、先輩ですか」
「……」
鈴奈は否定しなかった。
ショックだった。自分はそこまで憎まれていたのか。
原因は、ひとつしか考えられない。和樹と結婚したことだろう。
鈴奈が休憩室に入った。続けて入る。
「──なんで、あなたなの」
低い声で言われた。
「え?」
「私の方が、和樹先生のこと、ずっと好きなのに」
もう鈴奈は、佳菜への憎しみを隠そうとはしなかった。体の両脇で拳を握り締め、射貫くように佳菜を睨みつけてくる。
「先輩……」
「和樹先生がこの病院に来たときから、ずっと好きだった。他のみんなは、和樹先生の見た目や立場に対してキャーキャー言ってただけだけど、私は違う。新しい科を立ち上げるほど仕事に対して熱意があるところや、どこまでも患者さん思いで自分のことは後回しなところに惹かれたの」
悲痛な声で訴えてくる鈴奈から、佳菜は目を逸らさなかった。
「ずっと和樹先生のこと見てたから知ってる、森下さん、彼のことなんて見ちゃいなかったじゃない。それなのに、なぜいきなり結婚なんてことになるの? 私は、自分が和樹先生にふさわしいとは思っていなかった。いつか和樹先生が結婚するときがきたとして、彼が幸せになるなら、自分の思いは叶わなくてもいいって思ってた。だけど、相手があなただなんて、納得できない」
結婚してすぐの頃だったら、尊敬していた先輩である鈴奈からこんなふうに感情をぶつけられたら、罪悪感を抱かずにはいられなかっただろう。鈴奈が佳菜より早い時期から和樹に好意を寄せていたのは事実なのだろうから。
しかしいまの佳菜は、動揺しなかった。自分の和樹に対する愛情の大きさに、ゆるぎない自信を持っているからだ。
「──先輩が、どれだけ和樹さんのことを思っていたのかは、わかりました。でも私は私なりに、彼のことを愛していますし、彼は彼なりに私のことを愛してくれています」
まっすぐに鈴奈の顔を見て言えた。
「……どうして、あなたなの」
鈴奈の表情が歪んだ。
「結婚の経緯は説明できません。でも、これから先の長い人生を、お互い支え合って生きると誓います」
きっぱりと言い切る佳菜とは対照的に、鈴奈は勢いを失っていった。
「……そう」
力なく呟いて、鈴奈は休憩室から出ていった。その後は追わなかった。
宗治の手術が終わってから、二週間が経った。
術後の経過は順調で、もう日常生活は普通に過ごせている。
佳菜と鈴奈の間には、多少のぎこちなさが残っている。それでも、なあなあにせず、きちんとぶつかり合ったおかげで、徐々に元の仲に戻っていっていると佳菜は思っている。
そんなある日、注文していた結婚指輪ができたという連絡がジュエリーショップから入った。
その日を心待ちにしていた和樹と佳菜は、さっそく二人そろっての休みの日に銀座の店舗へ受け取りに行くことにした。
ハイブランドのショップの前でも、佳菜はもう怯まなかった。
扉を開けてくれたドアマンに笑顔で会釈して、豪華な店内に入る。注文しにきたときも担当してくれた女性店員が、二階の接客スペースへと案内してくれた。
少し待たされた後、リングピローに載せられて、結婚指輪がふたつ運ばれてきた。
「わあ……」
緩くウエーブを描いているプラチナのリングに、リング幅のダイヤがいくつも並んでいる。天井のシャンデリアの光に照らされてキラキラと光っている様は、朝日を浴びている波のようだ。一か月前に見たのと当然同じデザインだが、自分のものだと思うとよりいっそう美しく見えた。
「内側の刻印と石を確認していただけますか」
「はい」
佳菜のリングの内側には、KAZUKI TO KANAという刻印と和樹の誕生石、和樹のリングの内側には、KANA TO KAZUKIという刻印と佳菜の誕生石がそれぞれセットされていた。
「大丈夫です」
「それでは、サイズもご確認いただけますか」
「はい」
佳菜は自分の指輪をリングピローに置いて、和樹を見た。これを初めて指に通すときは、彼にはめてほしかった。
左手を前に出すと、和樹はすぐに佳菜の気持ちを察してくれた。
和樹の大きな手が、小さな指輪をつまむ。薬指に通されていく指輪を見ていると、改めて自分は彼の妻なのだという実感が湧いてきた。
「──ピッタリだ」
和樹が満足げに言う。
次は佳菜の番だった。自分のものより一回り大きな指輪を手に取った。
和樹が真面目な顔で左手を差し出してくる。ゆっくりと薬指に指輪を通しながら、佳菜は和樹と入籍してからいままでのことを思い出していた。
結婚したばかりの頃は、和樹が自分にとってこんなに大事な人になるとは正直思っていなかったし、和樹にとって自分が唯一無二の相手になれるとも思っていなかった。
宗治の手術が終わったら離婚するんじゃないかと思っていた頃が、はるか昔のようだ。「ピッタリです」
目を合わせて、笑い合う。いまはもう、和樹のいない人生なんて考えられなかった。
「して帰ってもいいですか?」
和樹が言った。
「もちろんでございます。お箱を用意いたしますね」
女性店員が、リングケースを保証書などと一緒に箱に入れ、さらに紙袋に入れていく。
その間ずっと、佳菜は自分の指にはまった結婚の証をうっとりと眺めていた。
ジュエリーショップを出たのは、午後三時を過ぎた頃だった。
「どうする? お茶でもしていこうか?」
和樹が誘ってきた。
たしかにお茶でもしたくなるような時間だが、佳菜は首を横に振った。一刻も早く家に帰りたかった。
「もう帰りたいです」
「そう?」
和樹の腕をくいくいと引いて、耳元に囁きかける。
「家の中じゃないと、和樹さんに抱きつけないから」
「──っ、帰ろう」
佳菜の手をぎゅっと握り、和樹が今にも走らんばかりの速さで歩き出す。
「安全運転でお願いします」
と、佳菜は笑った。
マンションにたどり着き、手を握り合って、エレベーターに乗り込む。いつもと同じ速度のはずなのに、エレベーターはじれったいくらいゆっくりと上がっているように感じた。
降りてからはまた急ぎ足で自宅へ向かい、鍵を開けて家の中に入った瞬間、佳菜は扉と和樹の体の間に挟まれ、唇を唇でふさがれた。
「んんっ……」
和樹の首に腕を回す。何度か唇を押し付けられてから、唇の狭間に舌を入れられた。
とろけるような感覚が気持ちよくて、佳菜は鼻先から甘い声を漏らした。好きな人とこうして体を寄せることが、こんなに気持ちのいいものだと教えてくれたのは、和樹だ。
扉に背を預け、しばらくうっとりとキスに浸っていた佳菜の体が、やがてふわりと浮き上がった。
「あ……んん……」
唇を重ねたまま横抱きにされ、寝室へと連れていかれる。
そっとベッドの上に横たえられている間も、唇は離れていかなかった。ふたりの境目がわからなくなるくらいに濃厚なキスを続けられ、意識がぼんやりしてきた頃になってやっと、唇が解放された。
「佳菜……愛してる」
ベッドの上でだらりと力をなくしていた左手を取られ、もらったばかりの結婚指輪がはまった薬指に恭しく唇を落とされる。
「私も……愛してます」
自信を持って言えた。
和樹は自分にとって、唯一無二の存在だ。もう彼から離れるなんて選択肢は佳菜の中にまったくなくなっていた。
「これからもずっと、俺と一緒にいてくれる?」
「はい、お願いです、私を離さないでっ……」
抱きつくと、それ以上の力で強く抱き返された。彼の腕の中で、幸せすぎて涙が出そうになった。
「絶対離さない……ああ、俺の佳菜……」
何度も口づけを繰り返しながら、結婚指輪のはまっている彼の指が、佳菜の薄手のニットの中に入ってくる。
優しく胸を撫でられ、佳菜は背中を反らして喘いだ。
一枚、また一枚と着ているものが脱がされていく。恥ずかしいけれど、素肌を触ってもらえる喜びの方が大きかった。
和樹は両手と唇で佳菜の全身をくまなく愛した。佳菜はまるで楽器になったみたいに、彼の手の動きに合わせて甘い声を上げた。
しばらくして和樹が体を繋げてきたときには、もう手も上げられないくらい佳菜はとろけきっていた。
「あ、ああ……」
「佳菜の中、熱くてすごく気持ちがいいよ」
恥ずかしいことを言って、和樹は何度も何度も体を揺さぶってくる。
「あ、そこ、だめぇ……!」
的確に弱いところを責められ、高い声を上げてしまう。
「佳菜……佳菜……」
和樹は繰り返し佳菜の名前を呼び、甘美な刺激を与えてくる。
最中、彼は何度も「愛してる」と口にした。佳菜も言いたかったが、
やがて身も心も満たされて、目じりから涙を溢れさせた佳菜の太股をきつく引き寄せ、和樹は熱い欲を放った。
最後にもう一度汗まみれになった佳菜を強く抱き締めてから、和樹は体を離し、佳菜の隣にドサッと横たわった。
肩で息をしている彼に擦り寄ると、腕枕をしてくれた。
徐々に呼吸が落ち着いていくのを感じながら、佳菜は肌が密着している感触に浸った。
「佳菜……」
和樹が佳菜の左手を取って、薬指に何度も口づけてくる。
窓から斜めに差し込む夕陽に照らされ、ダイヤが煌めく。こんな、まだ明るい時間から交わってしまったと思うと、急に恥ずかしくなる。しかも、「もう帰りたいです」と言ったのは佳菜だから、自分から誘ったのと同義だ。
でも、いいか。
指の先まで多幸感に満たされていると、そんなことはどうでもよくなった。
「──俺と、結婚してくれないか」
「え?」
冗談を言われたのかと思ったが、和樹はしごく真面目な顔をしている。
「一度目のプロポーズをしたとき、俺は『森下先生に手術に同意してもらうため』という言い方をした」
そういえばそうだった。そんな話をしたのが、もうずいぶん前のことに思えた。
「急な話で驚いたろうに、佳菜はすぐにオーケーしてくれた。それは佳菜も森下先生の手術を望んでいたからだろう。でももう、手術は終わった。経過も順調だ。佳菜を縛るものはなにもない」
「和樹さん……」
「高価な結婚指輪を贈ったのは、俺の弱さだ。手術が終わったら佳菜が俺から離れていくかもと思ったら、怖くてたまらなかった」
怖かったのは、佳菜も一緒だ。結婚してからいままでの日々を思う。和樹は佳菜にとって、とっくにかけがえのない人だ。彼を失うことには、もう耐えられそうもない。
佳菜は和樹の手をぎゅっと握り返した。
「──私と、結婚してください」
自分からも、プロポーズした。
「佳菜……」
「もう、あなたなしでは、生きていけそうにないから……」
「っ、長生きする」
約束する、と強く体を抱き締められる。
大きく息を吸って、彼の匂いで肺をいっぱいにした。
「──なに? 六月? そんなに先になるのか」
和樹と二人で実家に帰り結婚式の予定を説明すると、宗治は不満そうに眉を寄せた。
「いまから式場予約して、なんだから、それでも早いくらいだよ」
「そんなもんなのか……まあ、藤本病院の息子の結婚式なんだ、盛大にやるんだろうし、準備に時間がかかるのは仕方ないか」
「そうそう」
式場の目星はだいたいついている。和樹の兄が結婚式を挙げたのと同じホテルだ。先週の休みに二人で見学に行ってきたのだが、披露宴会場は広々としていて大勢の招待客を収容できるし、併設されたチャペルは天井が高く、太陽光がいっぱい差し込んでくるところが気に入った。
宗治と佳菜には親戚がほとんどいないし、宗治はもう仕事を引退している。大病院を経営していて付き合いの広い藤本家と比べたら、招待客の人数には大きな開きがあるが、そこはもう、しかたがないと割り切ることにした。
「おじいちゃんには、私と腕組んでバージンロードを歩いてもらうからね。頑張ってよ」
「おお、それは大役だな。緊張しすぎて心臓が止まらなきゃいいが」
「やめてよ、心臓ジョークは……」
祖父と孫娘の会話を聞いて、和樹はおかしそうに笑っている。
「大丈夫ですよ。止まったら、俺がまたすぐ動かします」
「それはありがたい」
宗治は佳菜がお土産に持ってきた葛餅をつまんで目を細めた。
手術を終え、体調が落ち着いた宗治は、すっかり円くなった。和樹に対してとやかく言うこともない。佳菜は見ていないが、通院するときも、元医師だからと和樹に意見したりすることはまったくないらしい。
だから、手術を提案されて最初にごねたときは、本当にただただ佳菜のことが心配だったのだとよくわかる。
「六月なんて、きっとすぐだよ。それまでに、食事のコースとか引き出物とか、着るものとか、決めなきゃいけないことが山ほどあるし」
大変そうだけれど、和樹と一緒にひとつひとつ吟味して決めていく作業はとても楽しそうだ、と思ったのだが。
「お、白無垢か?」
宗治が言った。
「えっ」
式はチャペルで挙げるつもりだし、和装はまったく考えていなかった。
「白無垢の佳菜も綺麗だろうなあ……」
和樹までそんなことを言いだす。
「ま、待って、私はドレスを着るつもりで──」
「両方着りゃあいいじゃないか。それくらいの貯金はあるぞ。お色直しってやつか? 三着でも四着でも着替えりゃいいだろ」
「無理無理無理、そんな出たり入ったりしてたら、ほとんど披露宴会場にいられないじゃない」
「それなら、写真だけは和装も撮ったらどうだろう。撮影のとき、森下先生にも来てもらって」
いいことを思いついた、という感じで、和樹が提案してきた。
「それもいいな」
と、宗治も同意する。
「どうせ着物を着るなら、色打掛も着てもらいたいなあ」
お茶を飲みながらほのぼのと語り合う二人を見て、ずいぶん仲良くなったものだと思う。その二人が望むなら、なんだって着てもいいかなという気になってくる。
こういうのを、幸せというのだろう。
「わかったわかった、白無垢でも色打掛でも色ドレスでも、なんでも着ます。ただし、当日は白ドレスで一日すごします」
「佳菜がそう言うなら、それで」
和樹が穏やかな笑みを浮かべる。
和樹だったらきっと、袴もタキシードも難なく着こなすことだろう。とびきり綺麗にしてもらって、そんな彼の隣に並ぶ日が、いまから楽しみになってきた。
「おじいさまは、もう大丈夫そうなの?」
夜勤のメンバーとの引継ぎが終わった後、先輩看護師の田辺鈴奈が尋ねてきた。
「はい。もう心配いらないだろうって、和樹さ──先生が。点滴はついてますけど、もう自由に歩き回ってますし」
「そう。和樹先生が言うなら、間違いないわね」
「先輩には、本当にご迷惑をおかけしました」
宗治の手術が決まったとき、一月のシフトはもう決まっていた。手術の前日と当日、出勤するはずだった佳菜とシフトを替わってくれたのが、鈴奈だった。
「気にしないで。特に予定もなかったし」
「あの、これつまらないものなんですけど」
佳菜が差し出したのは、自宅近くにある洋菓子屋で買ってきたクッキーだった。佳菜も好きで何度か自分用に買っているもので、プレーンとカカオが五枚ずつ入っている。お礼として大げさになりすぎず、ちょうどいいと思ったのだ。
「あら、嬉しい、ありがとう」
茶色い紙袋の中身を見て、鈴奈は笑顔でクッキーを受け取ってくれた。
それからいつものように忙しく働き、夕方を過ぎた頃だった。
廊下を歩いていて、顔なじみの掃除係の女性職員が、休憩室のごみ箱に溜まったごみを半透明の大きなごみ袋にあけて出てきたところに出くわした。
「こんにちは」
「はい、こんにちは」
笑顔で挨拶を交わしあって、すれ違おうとしたとき。
「──待ってください」
ごみの中に、視界の片隅に引っかかるものがあって、反射的に女性職員を呼び止めた。
「はい、どうしました?」
その辺にいくらでもある、なんてことのない茶色いクラフト紙の小さな袋だ。それなのに、胸がざわざわした。
「ちょっとすみません」
佳菜はごみ袋の中に躊躇なく手を突っ込んだ。
「え!? ちょ、ちょっと、汚いですよっ」
あとで手を洗えばいいだけだ。取り出した紙袋を開く。
透明な包装の中に、白と茶色の粉が混ざったものが入っていた。裏返してみると、原材料と賞味期限の書かれたシールが貼ってあった。
佳菜の自宅近くにある洋菓子屋のものだ。
「……先輩」
佳菜は女性職員の前で立ちすくんだ。
「どうしたの? あなたのだったの?」
「いえ……お騒がせしました」
佳菜は曖昧に微笑み、クッキーだったものをごみ袋に戻した。
病棟に戻り、扉の開いた病室を廊下からゆっくりと見て回る。そのうちのひとつに、鈴奈の姿があった。
いつものように優しい笑顔で、入院している子供の点滴の具合を見ている。鈴奈はどんなに忙しくとも、焦りを表に出さない。
以前和樹が「患者さんの前では一定の機嫌でいたい」という話をしていたことがある。
常にフラットな機嫌でいる鈴奈は、佳菜の理想とする看護師だった。
その鈴奈の笑顔が、廊下からじっと自分を見ている佳菜の顔を見て、わずかに歪んだ。
「──それじゃ、また後で来ますね」
鈴奈が患者の母親に軽く頭を下げて、大部屋から出てきた。
「どうしたの?」
何気ないふうを装っているが、佳菜の様子がおかしいことには気づいているようだ。
「クッキー、お好きじゃなかったですか」
「なんの話?」
鈴奈は休憩室の方に向かって、廊下を歩きだした。その後ろについていく。
「すみません、見てしまいました」
そう言うと、鈴奈はスッと真顔になった。
「……そう」
いまだに信じられない思いだった。クッキーを、単に割るのではなく、粉になるほどぐちゃぐちゃにしている鈴奈の姿が想像できない。
茶色と白の粉が混ざり合ったものが、頭を離れない。そして、一か月ほど前に、似たようなものを見たことを思い出した。
愛理がくれた、入浴剤だ。
「ロッカーに入れたあった入浴剤を混ぜたのも、先輩ですか」
「……」
鈴奈は否定しなかった。
ショックだった。自分はそこまで憎まれていたのか。
原因は、ひとつしか考えられない。和樹と結婚したことだろう。
鈴奈が休憩室に入った。続けて入る。
「──なんで、あなたなの」
低い声で言われた。
「え?」
「私の方が、和樹先生のこと、ずっと好きなのに」
もう鈴奈は、佳菜への憎しみを隠そうとはしなかった。体の両脇で拳を握り締め、射貫くように佳菜を睨みつけてくる。
「先輩……」
「和樹先生がこの病院に来たときから、ずっと好きだった。他のみんなは、和樹先生の見た目や立場に対してキャーキャー言ってただけだけど、私は違う。新しい科を立ち上げるほど仕事に対して熱意があるところや、どこまでも患者さん思いで自分のことは後回しなところに惹かれたの」
悲痛な声で訴えてくる鈴奈から、佳菜は目を逸らさなかった。
「ずっと和樹先生のこと見てたから知ってる、森下さん、彼のことなんて見ちゃいなかったじゃない。それなのに、なぜいきなり結婚なんてことになるの? 私は、自分が和樹先生にふさわしいとは思っていなかった。いつか和樹先生が結婚するときがきたとして、彼が幸せになるなら、自分の思いは叶わなくてもいいって思ってた。だけど、相手があなただなんて、納得できない」
結婚してすぐの頃だったら、尊敬していた先輩である鈴奈からこんなふうに感情をぶつけられたら、罪悪感を抱かずにはいられなかっただろう。鈴奈が佳菜より早い時期から和樹に好意を寄せていたのは事実なのだろうから。
しかしいまの佳菜は、動揺しなかった。自分の和樹に対する愛情の大きさに、ゆるぎない自信を持っているからだ。
「──先輩が、どれだけ和樹さんのことを思っていたのかは、わかりました。でも私は私なりに、彼のことを愛していますし、彼は彼なりに私のことを愛してくれています」
まっすぐに鈴奈の顔を見て言えた。
「……どうして、あなたなの」
鈴奈の表情が歪んだ。
「結婚の経緯は説明できません。でも、これから先の長い人生を、お互い支え合って生きると誓います」
きっぱりと言い切る佳菜とは対照的に、鈴奈は勢いを失っていった。
「……そう」
力なく呟いて、鈴奈は休憩室から出ていった。その後は追わなかった。
宗治の手術が終わってから、二週間が経った。
術後の経過は順調で、もう日常生活は普通に過ごせている。
佳菜と鈴奈の間には、多少のぎこちなさが残っている。それでも、なあなあにせず、きちんとぶつかり合ったおかげで、徐々に元の仲に戻っていっていると佳菜は思っている。
そんなある日、注文していた結婚指輪ができたという連絡がジュエリーショップから入った。
その日を心待ちにしていた和樹と佳菜は、さっそく二人そろっての休みの日に銀座の店舗へ受け取りに行くことにした。
ハイブランドのショップの前でも、佳菜はもう怯まなかった。
扉を開けてくれたドアマンに笑顔で会釈して、豪華な店内に入る。注文しにきたときも担当してくれた女性店員が、二階の接客スペースへと案内してくれた。
少し待たされた後、リングピローに載せられて、結婚指輪がふたつ運ばれてきた。
「わあ……」
緩くウエーブを描いているプラチナのリングに、リング幅のダイヤがいくつも並んでいる。天井のシャンデリアの光に照らされてキラキラと光っている様は、朝日を浴びている波のようだ。一か月前に見たのと当然同じデザインだが、自分のものだと思うとよりいっそう美しく見えた。
「内側の刻印と石を確認していただけますか」
「はい」
佳菜のリングの内側には、KAZUKI TO KANAという刻印と和樹の誕生石、和樹のリングの内側には、KANA TO KAZUKIという刻印と佳菜の誕生石がそれぞれセットされていた。
「大丈夫です」
「それでは、サイズもご確認いただけますか」
「はい」
佳菜は自分の指輪をリングピローに置いて、和樹を見た。これを初めて指に通すときは、彼にはめてほしかった。
左手を前に出すと、和樹はすぐに佳菜の気持ちを察してくれた。
和樹の大きな手が、小さな指輪をつまむ。薬指に通されていく指輪を見ていると、改めて自分は彼の妻なのだという実感が湧いてきた。
「──ピッタリだ」
和樹が満足げに言う。
次は佳菜の番だった。自分のものより一回り大きな指輪を手に取った。
和樹が真面目な顔で左手を差し出してくる。ゆっくりと薬指に指輪を通しながら、佳菜は和樹と入籍してからいままでのことを思い出していた。
結婚したばかりの頃は、和樹が自分にとってこんなに大事な人になるとは正直思っていなかったし、和樹にとって自分が唯一無二の相手になれるとも思っていなかった。
宗治の手術が終わったら離婚するんじゃないかと思っていた頃が、はるか昔のようだ。「ピッタリです」
目を合わせて、笑い合う。いまはもう、和樹のいない人生なんて考えられなかった。
「して帰ってもいいですか?」
和樹が言った。
「もちろんでございます。お箱を用意いたしますね」
女性店員が、リングケースを保証書などと一緒に箱に入れ、さらに紙袋に入れていく。
その間ずっと、佳菜は自分の指にはまった結婚の証をうっとりと眺めていた。
ジュエリーショップを出たのは、午後三時を過ぎた頃だった。
「どうする? お茶でもしていこうか?」
和樹が誘ってきた。
たしかにお茶でもしたくなるような時間だが、佳菜は首を横に振った。一刻も早く家に帰りたかった。
「もう帰りたいです」
「そう?」
和樹の腕をくいくいと引いて、耳元に囁きかける。
「家の中じゃないと、和樹さんに抱きつけないから」
「──っ、帰ろう」
佳菜の手をぎゅっと握り、和樹が今にも走らんばかりの速さで歩き出す。
「安全運転でお願いします」
と、佳菜は笑った。
マンションにたどり着き、手を握り合って、エレベーターに乗り込む。いつもと同じ速度のはずなのに、エレベーターはじれったいくらいゆっくりと上がっているように感じた。
降りてからはまた急ぎ足で自宅へ向かい、鍵を開けて家の中に入った瞬間、佳菜は扉と和樹の体の間に挟まれ、唇を唇でふさがれた。
「んんっ……」
和樹の首に腕を回す。何度か唇を押し付けられてから、唇の狭間に舌を入れられた。
とろけるような感覚が気持ちよくて、佳菜は鼻先から甘い声を漏らした。好きな人とこうして体を寄せることが、こんなに気持ちのいいものだと教えてくれたのは、和樹だ。
扉に背を預け、しばらくうっとりとキスに浸っていた佳菜の体が、やがてふわりと浮き上がった。
「あ……んん……」
唇を重ねたまま横抱きにされ、寝室へと連れていかれる。
そっとベッドの上に横たえられている間も、唇は離れていかなかった。ふたりの境目がわからなくなるくらいに濃厚なキスを続けられ、意識がぼんやりしてきた頃になってやっと、唇が解放された。
「佳菜……愛してる」
ベッドの上でだらりと力をなくしていた左手を取られ、もらったばかりの結婚指輪がはまった薬指に恭しく唇を落とされる。
「私も……愛してます」
自信を持って言えた。
和樹は自分にとって、唯一無二の存在だ。もう彼から離れるなんて選択肢は佳菜の中にまったくなくなっていた。
「これからもずっと、俺と一緒にいてくれる?」
「はい、お願いです、私を離さないでっ……」
抱きつくと、それ以上の力で強く抱き返された。彼の腕の中で、幸せすぎて涙が出そうになった。
「絶対離さない……ああ、俺の佳菜……」
何度も口づけを繰り返しながら、結婚指輪のはまっている彼の指が、佳菜の薄手のニットの中に入ってくる。
優しく胸を撫でられ、佳菜は背中を反らして喘いだ。
一枚、また一枚と着ているものが脱がされていく。恥ずかしいけれど、素肌を触ってもらえる喜びの方が大きかった。
和樹は両手と唇で佳菜の全身をくまなく愛した。佳菜はまるで楽器になったみたいに、彼の手の動きに合わせて甘い声を上げた。
しばらくして和樹が体を繋げてきたときには、もう手も上げられないくらい佳菜はとろけきっていた。
「あ、ああ……」
「佳菜の中、熱くてすごく気持ちがいいよ」
恥ずかしいことを言って、和樹は何度も何度も体を揺さぶってくる。
「あ、そこ、だめぇ……!」
的確に弱いところを責められ、高い声を上げてしまう。
「佳菜……佳菜……」
和樹は繰り返し佳菜の名前を呼び、甘美な刺激を与えてくる。
最中、彼は何度も「愛してる」と口にした。佳菜も言いたかったが、
やがて身も心も満たされて、目じりから涙を溢れさせた佳菜の太股をきつく引き寄せ、和樹は熱い欲を放った。
最後にもう一度汗まみれになった佳菜を強く抱き締めてから、和樹は体を離し、佳菜の隣にドサッと横たわった。
肩で息をしている彼に擦り寄ると、腕枕をしてくれた。
徐々に呼吸が落ち着いていくのを感じながら、佳菜は肌が密着している感触に浸った。
「佳菜……」
和樹が佳菜の左手を取って、薬指に何度も口づけてくる。
窓から斜めに差し込む夕陽に照らされ、ダイヤが煌めく。こんな、まだ明るい時間から交わってしまったと思うと、急に恥ずかしくなる。しかも、「もう帰りたいです」と言ったのは佳菜だから、自分から誘ったのと同義だ。
でも、いいか。
指の先まで多幸感に満たされていると、そんなことはどうでもよくなった。
「──俺と、結婚してくれないか」
「え?」
冗談を言われたのかと思ったが、和樹はしごく真面目な顔をしている。
「一度目のプロポーズをしたとき、俺は『森下先生に手術に同意してもらうため』という言い方をした」
そういえばそうだった。そんな話をしたのが、もうずいぶん前のことに思えた。
「急な話で驚いたろうに、佳菜はすぐにオーケーしてくれた。それは佳菜も森下先生の手術を望んでいたからだろう。でももう、手術は終わった。経過も順調だ。佳菜を縛るものはなにもない」
「和樹さん……」
「高価な結婚指輪を贈ったのは、俺の弱さだ。手術が終わったら佳菜が俺から離れていくかもと思ったら、怖くてたまらなかった」
怖かったのは、佳菜も一緒だ。結婚してからいままでの日々を思う。和樹は佳菜にとって、とっくにかけがえのない人だ。彼を失うことには、もう耐えられそうもない。
佳菜は和樹の手をぎゅっと握り返した。
「──私と、結婚してください」
自分からも、プロポーズした。
「佳菜……」
「もう、あなたなしでは、生きていけそうにないから……」
「っ、長生きする」
約束する、と強く体を抱き締められる。
大きく息を吸って、彼の匂いで肺をいっぱいにした。
「──なに? 六月? そんなに先になるのか」
和樹と二人で実家に帰り結婚式の予定を説明すると、宗治は不満そうに眉を寄せた。
「いまから式場予約して、なんだから、それでも早いくらいだよ」
「そんなもんなのか……まあ、藤本病院の息子の結婚式なんだ、盛大にやるんだろうし、準備に時間がかかるのは仕方ないか」
「そうそう」
式場の目星はだいたいついている。和樹の兄が結婚式を挙げたのと同じホテルだ。先週の休みに二人で見学に行ってきたのだが、披露宴会場は広々としていて大勢の招待客を収容できるし、併設されたチャペルは天井が高く、太陽光がいっぱい差し込んでくるところが気に入った。
宗治と佳菜には親戚がほとんどいないし、宗治はもう仕事を引退している。大病院を経営していて付き合いの広い藤本家と比べたら、招待客の人数には大きな開きがあるが、そこはもう、しかたがないと割り切ることにした。
「おじいちゃんには、私と腕組んでバージンロードを歩いてもらうからね。頑張ってよ」
「おお、それは大役だな。緊張しすぎて心臓が止まらなきゃいいが」
「やめてよ、心臓ジョークは……」
祖父と孫娘の会話を聞いて、和樹はおかしそうに笑っている。
「大丈夫ですよ。止まったら、俺がまたすぐ動かします」
「それはありがたい」
宗治は佳菜がお土産に持ってきた葛餅をつまんで目を細めた。
手術を終え、体調が落ち着いた宗治は、すっかり円くなった。和樹に対してとやかく言うこともない。佳菜は見ていないが、通院するときも、元医師だからと和樹に意見したりすることはまったくないらしい。
だから、手術を提案されて最初にごねたときは、本当にただただ佳菜のことが心配だったのだとよくわかる。
「六月なんて、きっとすぐだよ。それまでに、食事のコースとか引き出物とか、着るものとか、決めなきゃいけないことが山ほどあるし」
大変そうだけれど、和樹と一緒にひとつひとつ吟味して決めていく作業はとても楽しそうだ、と思ったのだが。
「お、白無垢か?」
宗治が言った。
「えっ」
式はチャペルで挙げるつもりだし、和装はまったく考えていなかった。
「白無垢の佳菜も綺麗だろうなあ……」
和樹までそんなことを言いだす。
「ま、待って、私はドレスを着るつもりで──」
「両方着りゃあいいじゃないか。それくらいの貯金はあるぞ。お色直しってやつか? 三着でも四着でも着替えりゃいいだろ」
「無理無理無理、そんな出たり入ったりしてたら、ほとんど披露宴会場にいられないじゃない」
「それなら、写真だけは和装も撮ったらどうだろう。撮影のとき、森下先生にも来てもらって」
いいことを思いついた、という感じで、和樹が提案してきた。
「それもいいな」
と、宗治も同意する。
「どうせ着物を着るなら、色打掛も着てもらいたいなあ」
お茶を飲みながらほのぼのと語り合う二人を見て、ずいぶん仲良くなったものだと思う。その二人が望むなら、なんだって着てもいいかなという気になってくる。
こういうのを、幸せというのだろう。
「わかったわかった、白無垢でも色打掛でも色ドレスでも、なんでも着ます。ただし、当日は白ドレスで一日すごします」
「佳菜がそう言うなら、それで」
和樹が穏やかな笑みを浮かべる。
和樹だったらきっと、袴もタキシードも難なく着こなすことだろう。とびきり綺麗にしてもらって、そんな彼の隣に並ぶ日が、いまから楽しみになってきた。