策士な支社長は新米秘書を独占的に可愛がりたい
 道のなかばまで来たあたりで、達基さんは急に立ち止まり、腕を取って、わたしの背を壁にそわせた。
 そして、目の前に立ち、片手を壁についた。

 これが噂に聞く〈壁ドン〉というものだろうか。
 でも、ブームはもうとっくに過ぎ去ったんじゃないかな。

 なんて、冷静さを装っているけれど、実は心臓が今日、一番の勢いでバクバクしはじめた。
 だって、こんな近さでこんな端正な顔にこんな切ない表情で見つめられたら、誰でもこうなるはず。

 「悪ガキのころ、この道のこと、仲間内でなんて呼んでたか、わかる?」

 わたしはぶんぶんと首を振る。
 「わかる訳ないですよ、そんなの」

 「キス&クライ」

 意味がわからず、わたしは首を傾げる。
 「なんでですか?」

 「フィギュアスケートの採点席のことをそういうだろう。好きな子に告白して、うまく行けばキス、振られたら涙のクライ。ああ、クライと暗いも掛けてたんだな。今、気づいた」

 「なるほど」とわたしは頷く。

 で、達基さんはキス……したのかな。

 ふと制服姿の彼が可愛い女の子を連れている映像が脳裏をかすめて、チクッと胸が痛んだ。
 それをごまかすように、わたしは訊いた。

 「じゃあ、きっと〈キス〉だったんでしょうね、達基さんなら」

  わたしの言葉に、彼はふっと口角を上げる。

 「嬉しいな。有希乃が妬いてくれるなんて」

 確かに妬いてるけれど。
 簡単に言い当てられたのがちょっと癪で、わたしは強がった。

 「ヤキモチなんかじゃないです。単なる好奇心で」

 達基さんは、そんな訳ないだろうとでもいうように、ちょっと目をすがめて、口の端を持ち上げた。
 そして、言った。

 「さあ、どうだろうね」

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