夕奈先輩は一条くんのマスクの下が見たい!!
感染症ウイルスのパンデミックによってマスクが手放せなくなったご時世の、とある会社のビルの、とあるフロア。
「夕奈!来た来た!アンタのお気に入りの子」
その声に、夕奈はにらめっこしていたパソコンから思いきり顔を上げて振り返った。夕奈はデスクの後ろを通り過ぎる〝お気に入りの子〟のすらりとした後ろ姿を何気ない顔で追いかけた。
「……来ると思った」
心底呆れた様な口調でそういうと、夕奈の〝お気に入りの子〟は振り返った。
「で、今日は何ですか?」
「とぼけちゃって~。今日こそマスクの下、見せてよ。一条くん」
そう言うと、一条はため息を吐き捨てた。
そう。夕奈は一条のマスクの下が見たい。見たくてたまらないのだ。一条のマスクの下を見たという人間から、『イケメンだった』以外の言葉を聞いたことがない。だから絶対に、イケメンのはずなのだ。彼はマスクイケメンじゃない。正真正銘のイケメンらしいのだ。
「嫌です」
「え~いいじゃんケチ。別に減るモンでもないんだからさ~」
「じゃあ先輩、ここでパンツ脱げますか?」
「……は?」
夕奈はイケメン(と噂の彼)から出た衝撃発言の意味をしばらく考えていた。
「いくらなんでも、パンツは違くない?」
「この前先輩『マスクは顔パンツ』って言ってたじゃないですか。で、脱げるんですか?パンツ。パンツも減るモンじゃないですよ」
自分から話題振っておいてなんなんだけど、頼むから会社でパンツ連呼するのやめてくれよ。と思った夕奈は、返す言葉が見つからなかった。
「ねっ。俺もここじゃさすがに顔パンツ、脱げないんですよ」
そう言うと、一条はさっさと歩いて行ってしまった。
いつもこんな感じでかわされる。夕奈がデスクに戻れば、いつも一条が来た事を教えてくれる同僚がニヤニヤして近寄ってくる。
「今日もダメだったか」
「ダメだね。私多分、一生見られないね」
「一条くん、愛想いいのにアンタには取り繕う気、微塵もないよね」
二人して一条を見ると。彼は小柄で可愛らしい女の子と何やら楽し気に話していた。
「あ~あの子。一条くんの彼女」
「えっ、彼女?一条くん彼女いたの?しかも職場に」
「知らなかったの?結構噂になってるよ。あの女の子、狙ってる人多かったから」
夕奈はもう一度、しっかりと一条と彼女を見た。小柄な彼女と身長の高い一条は身長差こそ目立つが、彼女はとても可愛らしい。二人はよくお似合いだ。
「私、めっちゃ嫌なヤツじゃん」
「なんで?」
「だって、彼女いる相手に『イケメンなんでしょ~?マスクの下見せて~』って、ヤバい女すぎるじゃん」
「ま、いいんじゃない。知らなかったんだし」
「教えてよ!!」
しかし、なんだか一条は職場で彼女を作ってイチャイチャする様なイメージではなかった。だからなんだか、イメージと違う。と思ってしまうのは、お似合いな二人に対するねたみなのだろうか。だが、ジェンダーレスが叫ばれるこの現代。セクハラだと騒ぐこともなく、根気強く絡みを受け流してくれた一条に感謝すべきだと思った。そして同時に少し寂しい気持ちになる。
「彼氏にしたくて絡んでいる様には見えなかったし。ってか、もしそうならあの絡みは底辺でしょ。落ち込みなさんな。まずは飲みに行こう」
「自分が飲みたいだけじゃん」
その日から夕奈は、一条に無駄に絡む事をやめた。
一か月後。
一条に無駄に絡むことをやめる決心をしてから、早一か月。特に何も変化はない。以前から一条が自分から深く絡んでくる事はなかったので、夕奈が絡まなければ現状何も変わらないというのは至極当然の事だった。
自動販売機が列をなす休憩室を通りかかった時、一条の後ろ姿が見えた。一条は缶コーヒーに口を付けた後、横を向いた。夕奈は思わず立ち止まった。これはチャンスだ。やっと顔が見られる。絡む事を諦めたのがよかったのか、やっとマスクの女神がほほ笑んだ!!と思ったのも束の間、ちょうど逆光と重なって、完全に見える位置に一条が移動したときにはもう、彼はしっかりと鼻までを覆ってマスクを着けていた。
嘘だろ。紫外線まき散らすだけじゃ飽き足らず、職場での唯一の楽しみすら奪うのか。ドキドキを返せ!!こっちはもう、しつこく絡む選択肢は消えているんだ。たまたま太陽光に顔面が遮られる確率ってどれくらいだ。現実に起こるラッキースケベより確率低そうじゃん。ふざけるな。と夕奈が絶望のあまり心の中で暴言を吐き散らしていると、一条はこちらにジトリとした視線を寄越していた。夕奈はため息をついて一条に向かって、挨拶代わりに片手をあげた。
「直談判やめたかと思ったら、次は盗み見ですか」
「別に絶対見てやろうと思った訳じゃないし。あわよくばと思っただけだし」
「言い方」
不貞腐れた様な口調の夕奈に、一条は笑った。その様子に胸がときめいた。こんなイケメン(と噂の彼)と付き合えるんだから、一条の同期の女の子は前世で相当徳を積んだに違いない思った夕奈だったが、同期の女の子も相当可愛いので、おそらく徳を積んだのは彼も一緒だと考えなおした。
「私、今日残業確定の仕事があるから。またね、一条くん」
夕奈はそう言いながら一条に手を振って自分のデスクに歩いた。
今、可能性のない男に胸をときめかせている暇なんて一切ない。任された資料作成のおかげで今日は残業が確定しているのだ。10時までには帰りたい。そう思いながら、夕奈はデスクに座って気合を入れた。
「終わったぁ~」
そうテンプレの様な言葉を吐いて、テンプレの様な仕草で身体を伸ばした、9時42分。10時までには家に帰ることは出来そうにないが、10時までに会社を出る事は出来そうだ。当然、残っているのは夕奈一人。夕奈は電気を消すスイッチを全て押した後、給湯室の電気がついている事に気が付いた。給湯室のスイッチだけは、給湯室の中にある。
「うわ、めんどくさ」
そう吐き捨てた夕奈は、しぶしぶ給湯室まで歩いて電気のスイッチに手を添えた。
「まだいた」
「わッ!!」
すぐ後ろから聞こえた声に、夕奈は驚いて電気のスイッチを押してしまい給湯室の電気は消えた。しかし、それに構っている暇などなく、振り返りながら数歩後ずさった。
「だ、誰!?」
「俺」
そう答えるヤツが一番危険なんだよ。オレオレ詐欺、知らないの?と思った夕奈だったが、窓から入る外の明かりと廊下の光でぼんやりと相手の顔、というより目元が見えた。
「一条くん?もう、やめてよ……!」
「ビックリしました?」
「当たり前じゃん。なにしてんの?」
「なにって。……嵌められて、ムカついたから、撒いてきた。先輩、もう仕事終わり?」
どう嵌められて、何にムカついて、誰を撒いてきたのか。肝心な事は何一つわからなかったが「そうなんだ」とだけ呟いておいた。って言うか、敬語どこに忘れて来た。
「終わりだけど、」
「じゃあ、俺と遊ぼ」
夕奈は耳を疑った。遊ぼうって、今から?何するの?もしかして大学生みたいに、スポッチャオールとかカラオケオールとかするつもり?と、いろいろな事を考えた夕奈だったが、冷静になってやっと肝心な事に気が付いた。
「一条くん、キャラ違くない?」
「何も違くないです。話、逸らしてませんか?そんなに俺と遊びたくない?」
少し落ち込んだ様子を見せる一条に、いや絶対キャラ違うじゃん。と思うと同時に、なんだか可哀想な気持ちになってくる。そしてはっとした。この雰囲気はマズい。遊ぼうってそっちか、と。そう思い始めれば、哀れみから幻滅まで急降下だ。同じ会社に彼女がいるくせに、同じ会社の女と遊ぼうとするなんて、最低以外の言葉が見当たらない。
「無理だから」
「なんで?」
「なんでって……。わかんないの?」
「わかんない」
そういうと一条は、夕奈の首に腕を絡めて引き寄せた。
「わかんないから、教えて」
「酒くさッ!」
夕奈は思わず一条の胸を押して一条と距離を取った。
「ちょっと……!酔ってんの!?」
「酔ってない」
「いや、酔っぱらいの常套句じゃん……!」
この男、居酒屋に敬語忘れて来てたのか。そもそもどうして、酒飲んだ後にわざわざ会社まで。そう考えて、夕奈ははっとした。
「わざわざ会いに来たの?」
「うん」
「私と遊ぶ為に?彼女、いるのに?」
「その噂、嘘。アイツ『男に声かけられるの怖いから、付き合ってるって噂はそのままにしておいてほしい』とか言っててさ。絶対自分で流してるから。マジで迷惑」
「……ちょっと、言い過ぎなんじゃ、」
「で。その彼女に嵌められて、みんなで飲むって言うから行ったのに、現地集合したらアイツしかいないの。帰ろうとしたら、『キャンセル料金発生するから二人で飲もう』って言われて、じゃあ俺が払うって言ったら、『店に迷惑かかるから』とか言われて、挙句の果てに泣かれて。で、酒飲んで、撒いて帰ってきた。ほぼ詐欺だろ、これ」
それが本当なら、女の子に同情の余地はない気がした。いくら何でも一条が不憫だ。
「そんな事より。先輩、なんでやめたんですか?俺に『マスクの下見せて~』って、言ってくるの」
大変だったんだね。お疲れ様。と言うより前に、一条は壁に寄り掛かってそう言った。
「俺、なんか調教された犬みたいじゃん」
「ちょ、調教?……犬?」
一体いつ一条を調教したというのだろう。そんなS嬢みたいな事をした覚えもなければ、趣味もない。しかしどうやら一条の中では、そういう事になっているらしい。
「都合のいいときだけ一方的に遊ばれて、それが楽しみになったと思ったら、遊んでもらえなくなって。気付いた時には、頭から離れなくなるくらい洗脳されてて」
「楽しみだったの?」
「そう。楽しみだったの。もっと条件いい所に転職しようかなって思っても、引っかかるくらい。……それで知らん顔はズルくない?責任とか感じないの?」
どんだけだよ。と思いつつも、それはさすがに責任を感じる。しかし、一体どうすれば、という考えは結末を導き出すよりも前に中断された。一条が、夕奈にじりじりと迫っている事実によって。
「ちょっと落ち着いて……!わかったから、待って!!」
「先輩酔ってんの?もう一か月も〝待て〟してるじゃん」
酔ってんのはアンタだろ。それに、その犬みたいな言い方やめてよ。と、言いたいことは山ほど浮かんでくるのに、どれも今の一条を煽る材料になりそうで、夕奈は黙ったまま後ずさった。
「いままで散々先輩の一方的な遊びに付き合ってたんだよ。なら、俺の一方的な遊びにも付き合ってくれないと、割に合わなくない?」
自分のマスクの鼻の部分に指をかけた一条に、夕奈は血の気が引いた。
「な、何でマスク外すの……?」
「何でって、キスするから」
「こっ、ここで!?」
「うん。ここで、今から」
給湯室の流しにぶつかり、後がなくなった夕奈は距離を詰めさせまいと両手を伸ばした。
「私に彼氏いるとか考えないの!?」
「だっていないじゃん。ちゃんと調べてる。だからもう、観念してよ」
一条はマスクから指を離して、夕奈の両手をかき分ける様に手で払うと、夕奈の頬を両手で掴んだ。
「それに彼氏がいたって俺、負ける気ないし。多分、俺の方がいい男だよ。いや、絶対」
何言ってんだ、酔っぱらい。という度胸はさすがになかった。一条は夕奈のつけているマスクを顎まで下げると、もう一度自分のマスクに指をかけた。
「マスクの下、見たかったんでしょ。なら、俺の事ちゃんと見といてよ」
下がったマスクによって、一条の顔が露わになった。どうして顔で飯を食っていくという判断をしなかったのか疑問に思う程の美形が、そこにはあった。ほぼ芸能人じゃん。よくこのご尊顔をみんな『イケメンだった』の一言で片付けたな。と思う程。そう思ってただ、唖然としていた。
とんでもないことを仕出かした自覚だけはあった。遊び半分で絡んだ相手がまさかここまで端正な顔立ちだったなんて想像もしていなかったし、ましてやその責任を取れと言われるなんて夢にも思わなかった。
「見えてる?」
そうか。夢オチか。イケメンに迫られてキスされそうになっているなんて、そんな大興奮の展開が自分に訪れるわけがない。この地に足が付いていない様な浮いた感覚はそうだ。夢だ。これは夢なんだ。と、思い始めた辺りまではよかったが、いや待て。夢ならいっそ最後まで見せてくれ。夢でくらいイケメンとキスさせてくれ!一回だけでいいから!!と完全に欲望が勝った瞬間、一条は夕奈に軽く口付けを落とした。
魔法のキスというのは、本当に存在しているらしい。夢の中から引きずり出され、急に現実に引き戻された。抵抗する間もなく重なって離れた唇の形はやっぱり綺麗で、この状況に対する焦りさえ、自分自身が自覚するより前にぼけていく。
「見えてるのって、聞いてる」
聞きなれた声の持ち主は、こんな綺麗な顔をしていたんだ。そんな事実だけでまた、夢の中に沈んだ錯覚に陥っていく。
「みえてる」
夕奈の返答を聞いて、一条は先ほどよりも少し長く口付けた。
「じゃあ、もっとちゃんと見て」
そう言って一条は少し唇を開いた。唇が重なった後、ゆっくりと唇を閉じるその感覚に触発されて、背筋に何かが駆け上がる。それはもう焦りすら、根本的に掻き消していく様だ。
「みえない」
「そっか。じゃあやっぱ、見なくていいや」
一条から一方的に押し付けられる様な口付けを受け止める事に必死になれば、すぐに身体中の力が抜けていく。一条は夕奈の身体を支えて少し持ち上げると、流し台の横の作業台に座らせた。それからは、ただ性急に求められていると思い知らされる様な口付けが、何の遠慮も配慮もなく降ってくる。逃げても追われて、とうとう片手で抱きしめられてしまえば、抵抗する気力すらなくなって、何もかも見失ったのではないかと思う程に、この世界に夢中にさせられる。
唇が離れるころには、絵に描いた様な夢現の中。時間が経過する感覚さえなかった。ただ一条の顔はほんのりと赤いのに、酒臭い匂いは消えていた。
「少しも可能性ないの?」
「私にも、よくわかんない」
「それなら先輩は、ヤった方が情が芽生えるタイプ?それとも、自分を大切にしてるなら我慢できるでしょってタイプ?」
そっちの質問の方が難易度高いし、答えたくないし、何なら失礼すぎてよく異性にその質問したな。と夢現の中で感心さえしていた。この男、本当に居酒屋に忘れてきたのは敬語ではなく、理性だったらしい。
「まあいいや。長期戦で」
そう言って潔く離れる一条に、なんだか切ない気持ちになった事だけは、本人には言えないと思った。
「って、ポイント上げる為に女が好きそうな誠実な男演じて恰好つけとくんだけど、褒めて。俺、結構本気で今、我慢してるから」
一条は夕奈を作業台から降ろすと、撫でてくれと言わんばかりに身を屈めて頭を差し出した。夕奈が恐る恐る一条の頭を撫でると、一条は夕奈に覆いかぶさるように勢いよく抱き着いた。
それからしばらく、一条は動かない。立ったまま寝たのかと思うくらい。
「……あの、一条くん」
「ん、なに?」
言葉はすぐに返ってくる。どうやら起きてはいるらしい。
「これ、何の時間?」
「夕奈先輩の〝やっぱり気が変わった〟って言う言葉待ちの時間。……でも、今日はちゃんと我慢する。本当はしたくないけど我慢するから、もう遅いし家まで送らせて」
夕奈の頭の中には〝送り狼〟という言葉が浮かんだが、何もしないから!本当だから!と一方的に押し付ける様な提案ではないだけ、信用してもいいと思った。素直過ぎて逆に好感すら抱いているのだから笑えない。さらに言うなら、万が一って事があっても別に初めてって訳でもないし。と思っているあたりが、理性を欠いているのは一条だけではないという決定的な証拠だった。どうかしている、本当に。
結局二人そろってタクシーに乗り込み、夕奈の住むアパートの前で止まったタクシーの中、お金を払うという夕奈をほとんど無理矢理タクシーの外に放りだして、一条は去っていった。
そんな事があった昨日。今日夕奈は、〝先輩。昨日は本当にすみません。俺、酔ってて最低な事しました〟という一条の言葉をどこか期待していた。つい数分前まで。
「先輩。見せてあげようか?顔パンツの下」
「いいから。マジで」
「えーなんでー?」
マスクの上からでもわかるニヒルな笑みを浮かべて近寄ってきた一条は、キャラ変して無駄に絡んでくる。多分、頭のネジが飛んだんだと思う。
「この前まではあんなに求めてくれてたのにー、自分が満足したらサヨウナラなんだー。夕奈せんぱーい。それってほぼヤり捨てじゃーん」
一条は、平坦な口調でそういう。
おい、マジで勘弁してくれ。上司にする言い訳を考えてあげるから、頼むから今すぐ居酒屋に理性取りに戻ってほしい。昨日の今日だから、居酒屋の店主もまだきっと一条の理性取っといてくれているはずだ。マニュアルに乗っ取って〝忘れ物〟と書かれたメモと共にバイトに引き継いでくれているに違いない。
しかし、こんなアホな事をしている男のマスクの下には、とびきり端正な顔立ちがあると思うと、なんだかそれはそれで悪い気はしないのだ。そして今度は自分がこの状況を楽しみにするようになって、それから〝待て〟をされる番なのではないかと思っている時点で、結末はありきたりで捻りがない。
「夕奈!来た来た!アンタのお気に入りの子」
その声に、夕奈はにらめっこしていたパソコンから思いきり顔を上げて振り返った。夕奈はデスクの後ろを通り過ぎる〝お気に入りの子〟のすらりとした後ろ姿を何気ない顔で追いかけた。
「……来ると思った」
心底呆れた様な口調でそういうと、夕奈の〝お気に入りの子〟は振り返った。
「で、今日は何ですか?」
「とぼけちゃって~。今日こそマスクの下、見せてよ。一条くん」
そう言うと、一条はため息を吐き捨てた。
そう。夕奈は一条のマスクの下が見たい。見たくてたまらないのだ。一条のマスクの下を見たという人間から、『イケメンだった』以外の言葉を聞いたことがない。だから絶対に、イケメンのはずなのだ。彼はマスクイケメンじゃない。正真正銘のイケメンらしいのだ。
「嫌です」
「え~いいじゃんケチ。別に減るモンでもないんだからさ~」
「じゃあ先輩、ここでパンツ脱げますか?」
「……は?」
夕奈はイケメン(と噂の彼)から出た衝撃発言の意味をしばらく考えていた。
「いくらなんでも、パンツは違くない?」
「この前先輩『マスクは顔パンツ』って言ってたじゃないですか。で、脱げるんですか?パンツ。パンツも減るモンじゃないですよ」
自分から話題振っておいてなんなんだけど、頼むから会社でパンツ連呼するのやめてくれよ。と思った夕奈は、返す言葉が見つからなかった。
「ねっ。俺もここじゃさすがに顔パンツ、脱げないんですよ」
そう言うと、一条はさっさと歩いて行ってしまった。
いつもこんな感じでかわされる。夕奈がデスクに戻れば、いつも一条が来た事を教えてくれる同僚がニヤニヤして近寄ってくる。
「今日もダメだったか」
「ダメだね。私多分、一生見られないね」
「一条くん、愛想いいのにアンタには取り繕う気、微塵もないよね」
二人して一条を見ると。彼は小柄で可愛らしい女の子と何やら楽し気に話していた。
「あ~あの子。一条くんの彼女」
「えっ、彼女?一条くん彼女いたの?しかも職場に」
「知らなかったの?結構噂になってるよ。あの女の子、狙ってる人多かったから」
夕奈はもう一度、しっかりと一条と彼女を見た。小柄な彼女と身長の高い一条は身長差こそ目立つが、彼女はとても可愛らしい。二人はよくお似合いだ。
「私、めっちゃ嫌なヤツじゃん」
「なんで?」
「だって、彼女いる相手に『イケメンなんでしょ~?マスクの下見せて~』って、ヤバい女すぎるじゃん」
「ま、いいんじゃない。知らなかったんだし」
「教えてよ!!」
しかし、なんだか一条は職場で彼女を作ってイチャイチャする様なイメージではなかった。だからなんだか、イメージと違う。と思ってしまうのは、お似合いな二人に対するねたみなのだろうか。だが、ジェンダーレスが叫ばれるこの現代。セクハラだと騒ぐこともなく、根気強く絡みを受け流してくれた一条に感謝すべきだと思った。そして同時に少し寂しい気持ちになる。
「彼氏にしたくて絡んでいる様には見えなかったし。ってか、もしそうならあの絡みは底辺でしょ。落ち込みなさんな。まずは飲みに行こう」
「自分が飲みたいだけじゃん」
その日から夕奈は、一条に無駄に絡む事をやめた。
一か月後。
一条に無駄に絡むことをやめる決心をしてから、早一か月。特に何も変化はない。以前から一条が自分から深く絡んでくる事はなかったので、夕奈が絡まなければ現状何も変わらないというのは至極当然の事だった。
自動販売機が列をなす休憩室を通りかかった時、一条の後ろ姿が見えた。一条は缶コーヒーに口を付けた後、横を向いた。夕奈は思わず立ち止まった。これはチャンスだ。やっと顔が見られる。絡む事を諦めたのがよかったのか、やっとマスクの女神がほほ笑んだ!!と思ったのも束の間、ちょうど逆光と重なって、完全に見える位置に一条が移動したときにはもう、彼はしっかりと鼻までを覆ってマスクを着けていた。
嘘だろ。紫外線まき散らすだけじゃ飽き足らず、職場での唯一の楽しみすら奪うのか。ドキドキを返せ!!こっちはもう、しつこく絡む選択肢は消えているんだ。たまたま太陽光に顔面が遮られる確率ってどれくらいだ。現実に起こるラッキースケベより確率低そうじゃん。ふざけるな。と夕奈が絶望のあまり心の中で暴言を吐き散らしていると、一条はこちらにジトリとした視線を寄越していた。夕奈はため息をついて一条に向かって、挨拶代わりに片手をあげた。
「直談判やめたかと思ったら、次は盗み見ですか」
「別に絶対見てやろうと思った訳じゃないし。あわよくばと思っただけだし」
「言い方」
不貞腐れた様な口調の夕奈に、一条は笑った。その様子に胸がときめいた。こんなイケメン(と噂の彼)と付き合えるんだから、一条の同期の女の子は前世で相当徳を積んだに違いない思った夕奈だったが、同期の女の子も相当可愛いので、おそらく徳を積んだのは彼も一緒だと考えなおした。
「私、今日残業確定の仕事があるから。またね、一条くん」
夕奈はそう言いながら一条に手を振って自分のデスクに歩いた。
今、可能性のない男に胸をときめかせている暇なんて一切ない。任された資料作成のおかげで今日は残業が確定しているのだ。10時までには帰りたい。そう思いながら、夕奈はデスクに座って気合を入れた。
「終わったぁ~」
そうテンプレの様な言葉を吐いて、テンプレの様な仕草で身体を伸ばした、9時42分。10時までには家に帰ることは出来そうにないが、10時までに会社を出る事は出来そうだ。当然、残っているのは夕奈一人。夕奈は電気を消すスイッチを全て押した後、給湯室の電気がついている事に気が付いた。給湯室のスイッチだけは、給湯室の中にある。
「うわ、めんどくさ」
そう吐き捨てた夕奈は、しぶしぶ給湯室まで歩いて電気のスイッチに手を添えた。
「まだいた」
「わッ!!」
すぐ後ろから聞こえた声に、夕奈は驚いて電気のスイッチを押してしまい給湯室の電気は消えた。しかし、それに構っている暇などなく、振り返りながら数歩後ずさった。
「だ、誰!?」
「俺」
そう答えるヤツが一番危険なんだよ。オレオレ詐欺、知らないの?と思った夕奈だったが、窓から入る外の明かりと廊下の光でぼんやりと相手の顔、というより目元が見えた。
「一条くん?もう、やめてよ……!」
「ビックリしました?」
「当たり前じゃん。なにしてんの?」
「なにって。……嵌められて、ムカついたから、撒いてきた。先輩、もう仕事終わり?」
どう嵌められて、何にムカついて、誰を撒いてきたのか。肝心な事は何一つわからなかったが「そうなんだ」とだけ呟いておいた。って言うか、敬語どこに忘れて来た。
「終わりだけど、」
「じゃあ、俺と遊ぼ」
夕奈は耳を疑った。遊ぼうって、今から?何するの?もしかして大学生みたいに、スポッチャオールとかカラオケオールとかするつもり?と、いろいろな事を考えた夕奈だったが、冷静になってやっと肝心な事に気が付いた。
「一条くん、キャラ違くない?」
「何も違くないです。話、逸らしてませんか?そんなに俺と遊びたくない?」
少し落ち込んだ様子を見せる一条に、いや絶対キャラ違うじゃん。と思うと同時に、なんだか可哀想な気持ちになってくる。そしてはっとした。この雰囲気はマズい。遊ぼうってそっちか、と。そう思い始めれば、哀れみから幻滅まで急降下だ。同じ会社に彼女がいるくせに、同じ会社の女と遊ぼうとするなんて、最低以外の言葉が見当たらない。
「無理だから」
「なんで?」
「なんでって……。わかんないの?」
「わかんない」
そういうと一条は、夕奈の首に腕を絡めて引き寄せた。
「わかんないから、教えて」
「酒くさッ!」
夕奈は思わず一条の胸を押して一条と距離を取った。
「ちょっと……!酔ってんの!?」
「酔ってない」
「いや、酔っぱらいの常套句じゃん……!」
この男、居酒屋に敬語忘れて来てたのか。そもそもどうして、酒飲んだ後にわざわざ会社まで。そう考えて、夕奈ははっとした。
「わざわざ会いに来たの?」
「うん」
「私と遊ぶ為に?彼女、いるのに?」
「その噂、嘘。アイツ『男に声かけられるの怖いから、付き合ってるって噂はそのままにしておいてほしい』とか言っててさ。絶対自分で流してるから。マジで迷惑」
「……ちょっと、言い過ぎなんじゃ、」
「で。その彼女に嵌められて、みんなで飲むって言うから行ったのに、現地集合したらアイツしかいないの。帰ろうとしたら、『キャンセル料金発生するから二人で飲もう』って言われて、じゃあ俺が払うって言ったら、『店に迷惑かかるから』とか言われて、挙句の果てに泣かれて。で、酒飲んで、撒いて帰ってきた。ほぼ詐欺だろ、これ」
それが本当なら、女の子に同情の余地はない気がした。いくら何でも一条が不憫だ。
「そんな事より。先輩、なんでやめたんですか?俺に『マスクの下見せて~』って、言ってくるの」
大変だったんだね。お疲れ様。と言うより前に、一条は壁に寄り掛かってそう言った。
「俺、なんか調教された犬みたいじゃん」
「ちょ、調教?……犬?」
一体いつ一条を調教したというのだろう。そんなS嬢みたいな事をした覚えもなければ、趣味もない。しかしどうやら一条の中では、そういう事になっているらしい。
「都合のいいときだけ一方的に遊ばれて、それが楽しみになったと思ったら、遊んでもらえなくなって。気付いた時には、頭から離れなくなるくらい洗脳されてて」
「楽しみだったの?」
「そう。楽しみだったの。もっと条件いい所に転職しようかなって思っても、引っかかるくらい。……それで知らん顔はズルくない?責任とか感じないの?」
どんだけだよ。と思いつつも、それはさすがに責任を感じる。しかし、一体どうすれば、という考えは結末を導き出すよりも前に中断された。一条が、夕奈にじりじりと迫っている事実によって。
「ちょっと落ち着いて……!わかったから、待って!!」
「先輩酔ってんの?もう一か月も〝待て〟してるじゃん」
酔ってんのはアンタだろ。それに、その犬みたいな言い方やめてよ。と、言いたいことは山ほど浮かんでくるのに、どれも今の一条を煽る材料になりそうで、夕奈は黙ったまま後ずさった。
「いままで散々先輩の一方的な遊びに付き合ってたんだよ。なら、俺の一方的な遊びにも付き合ってくれないと、割に合わなくない?」
自分のマスクの鼻の部分に指をかけた一条に、夕奈は血の気が引いた。
「な、何でマスク外すの……?」
「何でって、キスするから」
「こっ、ここで!?」
「うん。ここで、今から」
給湯室の流しにぶつかり、後がなくなった夕奈は距離を詰めさせまいと両手を伸ばした。
「私に彼氏いるとか考えないの!?」
「だっていないじゃん。ちゃんと調べてる。だからもう、観念してよ」
一条はマスクから指を離して、夕奈の両手をかき分ける様に手で払うと、夕奈の頬を両手で掴んだ。
「それに彼氏がいたって俺、負ける気ないし。多分、俺の方がいい男だよ。いや、絶対」
何言ってんだ、酔っぱらい。という度胸はさすがになかった。一条は夕奈のつけているマスクを顎まで下げると、もう一度自分のマスクに指をかけた。
「マスクの下、見たかったんでしょ。なら、俺の事ちゃんと見といてよ」
下がったマスクによって、一条の顔が露わになった。どうして顔で飯を食っていくという判断をしなかったのか疑問に思う程の美形が、そこにはあった。ほぼ芸能人じゃん。よくこのご尊顔をみんな『イケメンだった』の一言で片付けたな。と思う程。そう思ってただ、唖然としていた。
とんでもないことを仕出かした自覚だけはあった。遊び半分で絡んだ相手がまさかここまで端正な顔立ちだったなんて想像もしていなかったし、ましてやその責任を取れと言われるなんて夢にも思わなかった。
「見えてる?」
そうか。夢オチか。イケメンに迫られてキスされそうになっているなんて、そんな大興奮の展開が自分に訪れるわけがない。この地に足が付いていない様な浮いた感覚はそうだ。夢だ。これは夢なんだ。と、思い始めた辺りまではよかったが、いや待て。夢ならいっそ最後まで見せてくれ。夢でくらいイケメンとキスさせてくれ!一回だけでいいから!!と完全に欲望が勝った瞬間、一条は夕奈に軽く口付けを落とした。
魔法のキスというのは、本当に存在しているらしい。夢の中から引きずり出され、急に現実に引き戻された。抵抗する間もなく重なって離れた唇の形はやっぱり綺麗で、この状況に対する焦りさえ、自分自身が自覚するより前にぼけていく。
「見えてるのって、聞いてる」
聞きなれた声の持ち主は、こんな綺麗な顔をしていたんだ。そんな事実だけでまた、夢の中に沈んだ錯覚に陥っていく。
「みえてる」
夕奈の返答を聞いて、一条は先ほどよりも少し長く口付けた。
「じゃあ、もっとちゃんと見て」
そう言って一条は少し唇を開いた。唇が重なった後、ゆっくりと唇を閉じるその感覚に触発されて、背筋に何かが駆け上がる。それはもう焦りすら、根本的に掻き消していく様だ。
「みえない」
「そっか。じゃあやっぱ、見なくていいや」
一条から一方的に押し付けられる様な口付けを受け止める事に必死になれば、すぐに身体中の力が抜けていく。一条は夕奈の身体を支えて少し持ち上げると、流し台の横の作業台に座らせた。それからは、ただ性急に求められていると思い知らされる様な口付けが、何の遠慮も配慮もなく降ってくる。逃げても追われて、とうとう片手で抱きしめられてしまえば、抵抗する気力すらなくなって、何もかも見失ったのではないかと思う程に、この世界に夢中にさせられる。
唇が離れるころには、絵に描いた様な夢現の中。時間が経過する感覚さえなかった。ただ一条の顔はほんのりと赤いのに、酒臭い匂いは消えていた。
「少しも可能性ないの?」
「私にも、よくわかんない」
「それなら先輩は、ヤった方が情が芽生えるタイプ?それとも、自分を大切にしてるなら我慢できるでしょってタイプ?」
そっちの質問の方が難易度高いし、答えたくないし、何なら失礼すぎてよく異性にその質問したな。と夢現の中で感心さえしていた。この男、本当に居酒屋に忘れてきたのは敬語ではなく、理性だったらしい。
「まあいいや。長期戦で」
そう言って潔く離れる一条に、なんだか切ない気持ちになった事だけは、本人には言えないと思った。
「って、ポイント上げる為に女が好きそうな誠実な男演じて恰好つけとくんだけど、褒めて。俺、結構本気で今、我慢してるから」
一条は夕奈を作業台から降ろすと、撫でてくれと言わんばかりに身を屈めて頭を差し出した。夕奈が恐る恐る一条の頭を撫でると、一条は夕奈に覆いかぶさるように勢いよく抱き着いた。
それからしばらく、一条は動かない。立ったまま寝たのかと思うくらい。
「……あの、一条くん」
「ん、なに?」
言葉はすぐに返ってくる。どうやら起きてはいるらしい。
「これ、何の時間?」
「夕奈先輩の〝やっぱり気が変わった〟って言う言葉待ちの時間。……でも、今日はちゃんと我慢する。本当はしたくないけど我慢するから、もう遅いし家まで送らせて」
夕奈の頭の中には〝送り狼〟という言葉が浮かんだが、何もしないから!本当だから!と一方的に押し付ける様な提案ではないだけ、信用してもいいと思った。素直過ぎて逆に好感すら抱いているのだから笑えない。さらに言うなら、万が一って事があっても別に初めてって訳でもないし。と思っているあたりが、理性を欠いているのは一条だけではないという決定的な証拠だった。どうかしている、本当に。
結局二人そろってタクシーに乗り込み、夕奈の住むアパートの前で止まったタクシーの中、お金を払うという夕奈をほとんど無理矢理タクシーの外に放りだして、一条は去っていった。
そんな事があった昨日。今日夕奈は、〝先輩。昨日は本当にすみません。俺、酔ってて最低な事しました〟という一条の言葉をどこか期待していた。つい数分前まで。
「先輩。見せてあげようか?顔パンツの下」
「いいから。マジで」
「えーなんでー?」
マスクの上からでもわかるニヒルな笑みを浮かべて近寄ってきた一条は、キャラ変して無駄に絡んでくる。多分、頭のネジが飛んだんだと思う。
「この前まではあんなに求めてくれてたのにー、自分が満足したらサヨウナラなんだー。夕奈せんぱーい。それってほぼヤり捨てじゃーん」
一条は、平坦な口調でそういう。
おい、マジで勘弁してくれ。上司にする言い訳を考えてあげるから、頼むから今すぐ居酒屋に理性取りに戻ってほしい。昨日の今日だから、居酒屋の店主もまだきっと一条の理性取っといてくれているはずだ。マニュアルに乗っ取って〝忘れ物〟と書かれたメモと共にバイトに引き継いでくれているに違いない。
しかし、こんなアホな事をしている男のマスクの下には、とびきり端正な顔立ちがあると思うと、なんだかそれはそれで悪い気はしないのだ。そして今度は自分がこの状況を楽しみにするようになって、それから〝待て〟をされる番なのではないかと思っている時点で、結末はありきたりで捻りがない。