君しか考えられないーエリート御曹司は傷物の令嬢にあふれる愛を隠さないー
「どうして……?」

 ささやくような私の声は父の耳に届いていなかったが、彼にはしっかり聞こえていたようだ。
 その男性は、父の陰で私にだけわかるように笑みを深めた。

 彼とはもう何度か顔を合せている。
 二年近く前にとある場所で初めて会って以来、偶然一緒になる機会が続いて会話を交すようになった。
 さらにここ最近は、諸事情から頻繁にメッセージを送り合う関係にある。

 父の隣に、間を空けて腰を下ろす。

「こちらが、娘の亜子(あこ)だ」

「よろしく、お願いします」

 どうやら父は、私と彼に面識があると知らないらしい。
 はじめましてではないため、なんて言えばいいのかわからない。どうにも場違いな挨拶になるのも、呼ばれた理由が不明なのだから仕方がないだろう。

「ええ、よろしくお願いします」

 にこやかに返してくれた彼を遠慮がちに見つめた。

「それでこちらは三崎(みさき)商事の副社長に就任した、三崎晴臣(はるおみ)君だ。今月から、彼がうちを担当してくれることになった」

「え?」

 彼がそんな立場にある人だとは知らず、驚きに目を見開く。

 三崎商事と言えば世界を股にかける商社で、絢音屋の最も重要な取引先だ。
 ここ数年の絢音屋が飛躍的に業績を伸ばしているのは、先代社長の代から世話になっている三崎商事のおかげだと社員の誰もが知っている。

 明治時代から続く絢音屋は、今では関東一の呉服屋と言われるまでに成長した。父はさらに手を広げていきたいと意欲的で、数年前から国外でも取引をはじめている。
 デザインだけでなく使う素材や販売する地域、宣伝の方法など、絢音屋はあらゆる面で三崎商事の協力を得た。そこで提案された戦略が功を奏して、うちの商品は国外でも年々人気が高まっている。

 とはいえ、あちらは圧倒的な格上だ。二社の上下関係は明確なのに、父が彼を〝君〟づけで呼ぶのはあまりにも砕けすぎている。
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