君が滲んでみえない
 昨日の雨が嘘だったかのように日差しが照り付けていた。昨日はあまり眠れなかった。月浜さんの事をずっと考えていたから。来るかもわからない、誰かも良く分からない奴をずっと待ってるなんてどうかしてると思った。そして月浜さんと簡単な気持ちで約束して簡単に破った自分が恥ずかしかった。震える月浜さんの小指が未だ僕の小指に絡みついているようだった。寝不足だったので、今日の朝もサーフィンに行くのはやめた。冬でも毎日通っていたが、二日も休むのは久しぶりだった。今日もお昼に記念すべき第2回目のそうめんを食べると、春によくキャンプで地元にやって来る球団の帽子を被って家を出る。アスファルトはすっかり乾いていて、ゆらゆらと陽炎をまとっていた。国道の下を潜ると、あの高いフェンスが見える。しばらくフェンスに沿って歩いて行くと、もたれかかる人影が目に入る。今日の月浜さんは水着に少し大きなサイズの白いパーカーを羽織っていた。近づく僕に気が付いたのか、月浜さんは笑顔でこちらへ手を振る。僕は手を振っていいのか、どうすればいいのか良く分からず、ペコペコしながら近づいてしまった。

「フウタ君!こんにちは!」

 プールサイドが高いから月浜さんのくるぶしが僕の目線になる。僕は目線を上げて応える。

「こんにちは」

 彼女の首筋はパーカーの影で透けてキラキラと反射する。

「今日は、ずっとお話できるよ!」

 そう言うと彼女は足元の水が出ているホースを手に取る。

「それがあれば足は火傷せんね」

「そう!あ、フウタ君、ホークスファン?」

「これ?」

 僕は帽子を取ると、ロゴを見て軽く振る。

「そんなにやけど、今日は日が照ってるかいね」

「運動しないの?」

「野球はせんけど、サーフィンするよ」

「ここ有名だもんね」

「そう、いつも波が高いかい。月浜さんも泳ぐの好きなん?」

「リコ!」

「え?」

「リコって呼んで」

「あぁ、……リコ?」

「そう!」

 そう言うと満足そうに彼女は胡坐をかいて座り込む。丁度、目の前に膝が来ていやでも真っ白な太腿が目につく。リコはネイビーの生地にブルーのラインが入った競泳水着を着ている。

「私、死ぬために泳いでるの」

「え?」

 本当に何を言っているのかよく分からなかった。透明な首筋と共存しているリコの肌は、白く健康的で生命力に満ち溢れているように見えた。この肌がもうすぐ死んでしまうことはどうしても理解できなかった。

「私、もうすぐしたら最終水槽ってところに入れられるの」

「最終水槽?」

「そう、水で満たされて、私が水になる瞬間から一滴も外に出さないための水槽」

 僕は何も言えなくなった。

「ちょっとでも水が怖くないように、私ギリギリまで泳ぐことにしたの」

 突然、リコはホースで僕に水を掛けた。僕は、顔に掛かった水を手で拭う。

「そんなに怖い顔しないでよ」

「ごめん」

「けど、素敵だと思わない?」

「素敵?」

「水になって死ねるなんて。綺麗でしょ?」

 僕はまた言葉に詰まる。と同時にまた顔に水がかかる。

「だから怖い顔しないで」

 僕はまた手で水を拭う。彼女はまた笑っていた。

「ごめん」

「もっと気の利いたこと言えないの?」

「そんなこと言われても、すぐには出て来んよ」

「私、綺麗な海と一つになりたいの」

「最終水槽からは出れんのやろ?」

「濾過装置を通せば出て来れるの。それが私なのかはよくわかんないけどね」

 彼女は何かを思いついたようで、大きな瞳をさらに見開く。

「フウタがそこの海に撒いてよ。そしたら、いつでも君とサーフィンが出来るわ」

 ホースを持った手を大きく振り上げるものだから、水飛沫がこちらに飛んでくる。

「ええけど、綺麗な海がいいんやろ?やったら、そこの海はダメやな。波は高いけど、ゴミは浮いとるし、砂浜は牡蠣殻で歩けたもんやないよ」

「こんなに南に来てもまだ海は汚いのね」

「なんや見たことないんか?」

「私、半年前に越してきたけど、ずっとここにいるから」

「もっと南に行けば、もっと綺麗な海はあるよ。澄んだ海、魚もいっぱいおるし。穏やかなところやから、サーフィンには向かんけど」

「いいわね、水になる前に一回見てみたいわ」

「今度連れてっちゃるよ。そんなに元気やったら、大丈夫やろ。学校にも来ればいいとに」

「うん、行きたい!……行きたいけど、法律で決まってるんだって」

「外に出れんのがや?」

 やたらと高いフェンスを見渡す。

「そう、水化病の人は発症したら外出できなくなるの」

「うつらんとに?」

「そう、うつらないのに。けど、わかるわ。掛かってない人からしたら怖いもの」

「そんなの、酷すぎるが」

「しょうがないわ、今、水化病の人は世界に100人もいないんだから。その人たちが我慢すればこの病気はこの世から消えるの」

 僕と同じ年くらいで同じ地域に住んでいる少女がそんな理不尽にさらされているなんて。

「だから、この目で見えなくてもいいから、フウタがその綺麗な海に連れてって」

 僕はまた何も言えなくなる。言葉は出なかったが、水は飛んでこなかった。

「おねがい」

 僕は、何度か頷く。

「わかった、ペットボトルにでも詰めてまいちゃるよ」

 彼女は整った顔をしかめる。

「ペットボトルは嫌。なんか芸がないわ」

「じゃあ、なんがいいとや」

「小瓶がいいわ。かわいいやつがいい」

 彼女は親指と人差し指で5cmほどの間隔を示す。

「僕が探すとや?」

「そうよ、私、出れないんだもの」

 リコはそう言うと、フェンスをガシャガシャと揺らした。僕は思わず笑ってしまう。

「わかった。探しとく。来週の土曜に持ってくるわ」

「明日は来てくれないの?」

 リコは急に自信無さげな表情に変わる。

「明日から学校で夏期講習やから」

「ふーん、いいなー」

「金曜に持ってくるかい、楽しみにしときないよ」

「分かった、約束よ」

 そう言うと、リコはまたフェンスの網目から小指を差し出した。

「あんた、これ好きやね」

「うん!」

 僕は小指を絡める。

「約束だからね」

「わかっとるよ」

 なんだかとても長い間、リコと指切りをしていたような気がした。



 リコと別れた後、僕は小瓶を探しに雑貨屋に向かうことにした。小瓶がどこにあるかは、よく知らなかったが、かわいいものは雑貨屋にあるような気がした。雑貨屋は古民家を改造したもので間取りは日本古来のものであるが、家具は英国公爵家から直接買い付けたという店主自慢の品である。入れ物が和風で品が洋風というのは乱雑になってしまいそうなものであるが、店主の美的感覚で洒落た印象を来た人に与える。引き戸を開けると、カウンターでアンナが頬杖をついて文庫本を読んでいた。マホガニーでつくられた陳列棚にはファンシーな小物から、怪しげな人の顔の木彫りまで、統一性はないがお行儀よくまとまって置いてあった。アンナは栗色の柔らかそうな髪を頭の後ろで一つに括っている。アンナは僕に気が付くと、面倒そうに文庫本を閉じる。

「いらっしゃいませー」

「ちゃんと働け」

「いいんよ、客があんたなんやから」

「客は客やろ」

「めったに来んやつは客やないよ」

「小瓶とかあるや?」

「小瓶?あったと思うけど……」

 アンナは立ち上がると店の奥に向かう。

「あったよ、ほら」

 アンナは透明なガラスでできた手のひらに収まるサイズの小瓶を持ってきた。小瓶にはコルクの栓がついていた。

「いいやん、これ買うわ」

「毎度ありー、けど、なんに使うとや、それ」

「……水を入れるとよ」

「何やそれ」

「なんでもいいやろ」

「そういえば、月浜さんどうやった?」

「ちゃんと宿題渡したよ」

「ありがとう、助かったわ」

 そう言うと、アンナは身を乗り出す。

「で?可愛かったとね?」

「アンナよりは」

「なんねそれ、むかつくわー」

「標準語やったよ」

「それもなんかむかつくわ」

 そうやといいながらアンナはさらにこちらに身を乗り出す。

「私も紹介せんね」

「なんでや、勝手に行けばいいやろ」

「いきなり行ったら気まずいやろ」

「めんどくさいわ」

「次、いつ会うとね」

「……来週の金曜」

「ほら、もう約束しとるがね。やらしー」

「そんなんやないが」

「へー、必死やねぇ」

「なんなんや」

「来週の土曜は、私も行くかいね。講習終わったら待っときないよ」

「アンナ、バスケは?」

「オフよ、オ・フ」

「嫌がるかも知れんがね」

「なにその自分は喜ばれるみたいな言いぐさは」

「もう知らんわ、勝手にしないよ」

「はーい」

 アンナはむかつくほど綺麗にウィンクを決めた。
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