全てを失った人形令嬢は美貌の皇帝に拾われる
全てを失った人形令嬢は美貌の皇帝に拾われる
「おや、驚いた。このような陰鬱とした場所に、妖精が住んでいたのか」
人形令嬢こと元ブランドナー伯爵令嬢のシェリーを見た美しい男性は、開口一番にそう言った。
彼がそういうのも無理もない。
シェリーは五歳にして整った容姿をしている。
ミルクのように白い肌に、すっと通った鼻筋にぽってりとした可愛らしい薔薇色の唇。
アイスブルーの瞳から頬にかけては、長いピンクブロンドの色の睫毛が作った影が落ちている。
そしてピンクブロンドの髪は艶やかで、緩くウェーブがかかっている。
着ているドレスは彼女のアイスブルーの瞳に合わせて水色で、可愛らしいデザインのものだ。
彼女を見た誰もが、妖精や人形のようだと褒め称えるだろう。
一方で男性もまた整った容姿をしている。
陶器のように白い肌に彫像のように整った顔立ち。
髪は夜を紡いだ糸のように美しい黒色で、頭の後ろで結わえて肩に流している。
瞳は赤く、ルビーのように美しい。
なんて美しい人なのだろう。
シェリーはすっかり見惚れてしまった。
年齢は三十代くらい。
シェリーの養父だったブランドナー伯爵より若い。
着ている黒地に金糸の刺繍の入った上着とスラックスや、柔らかな白いシャツを見る限り、貴族だろう。
「わたし、妖精じゃない……」
シェリーは心の底から悲しそうな声で否定すると、アイスブルーの瞳にじわりと涙を浮かべた。
大粒の真珠のような涙が、ほろりと頬を伝う。
「ああ、わかっているよ。君は人間だ。あまりにもかわいらしいから、そう例えただけだ」
男性は少し慌てた調子でそう言うと、シェリーをひょいと抱き上げる。
上着から絹のハンカチを取り出すと、そっとシェリーの目元と頬を拭った。
「ずいぶんと軽いな。君はどこかの令嬢のようだが、ちゃんと食事はとっていたのか?」
「食べていたけど、とても少なかったわ。人形は太っちゃいけないってブランドナー伯爵夫人が言うから、わたしのごはんはほんのちょっとだったの。屋敷にいた猫のご飯よりすくなかったと思うわ」
「……なるほど。そのご飯の話、じっくりと聞かせてもらおうか」
男性はシェリーの頭を撫でると、彼女を抱っこしたまま食堂へと向かった。
屋敷の使用人らしい男性に言いつけて、シェリーの夕食を作らせたのだった。
「ねえ、お兄さんはだれですか?」
見上げて問うシェリーに、男性は美しい微笑みを返す。
「俺はデーヴィド・アレクシス。アレクシス魔法帝国で皇帝って仕事をしているんだ。今は魔法の恩師の孫娘を探しに、エーレントラウト王国に滞在していたところだよ」
***
シェリーは孤児だった。
あまりにも幼い頃に孤児院に来たものだから、両親の顔を知らない。
孤児院の院長から聞いた話だと、両親は事故で亡くなったらしい。
彼らはこの国――エーレントラウト王国の出身ではないらしく、身内がいなかったため孤児院に預けられたのだ。
そうして孤児院で育ち、四歳になった頃、シェリーはブランドナー伯爵夫妻に引き取られた。
人形のようにかわいらしい。
それが、シェリーが引き取られた理由だった。
ブランドナー伯爵夫人はシェリーをとてもかわいがった。
彼女の大切な人形のコレクションの一つとしてかわいがったのだ。
そんな彼女を、社交界では人形令嬢と呼んでいた。
初めは素敵なドレスや豪奢な部屋に歓喜したシェリーだったが、次第に人形扱いされることへの不満を募らせていった。
しかし自分を引き取ってくれたブランドナー伯爵夫妻に不満を言うのは気が引けた。また孤児院に戻されるのではないかと、気を揉んでいたのだ。
孤児院には戻りたくない。
あそこはいつもみんなピリピリしていて、体の小さなシェリーは他の子どもたちから虐められていた。
我慢していると、ブランドナー伯爵夫人は輪をかけてシェリーを人形扱いし始めた。
食事はうんと減らされるし、「人形は話さない」といったおかしな理由でシェリーが話すのを嫌がったのだ。
シェリーが笑うことも、人形らしくないと嫌がった。
ブランドナー伯爵夫人の機嫌が悪い時は、歩くことさえ許されなかった。
なにもかも自由にできず、シェリーは息が詰まりそうだった。
一挙手一投足を批判されると、自分という存在が否定されているようで、人形のように心を失くしてしまえばどれほど楽だろうかと思うこともあった。
ある日、我慢ができなくなったシェリーはブランドナー伯爵夫人に反抗した。
「ブランドナー伯爵夫人、わたしは人形ではありません。ご飯が少ないとお腹がペコペコで痛くなるし、言葉があるから話したいです」
するとブランドナー伯爵夫人の顔からすっと表情が抜け落ちた。
「あら、そう。人形ではないなら、いらないわ」
その一言で、シェリーの生活はすぐに追い出された。
着の身着のままで茫然と門の前に立つシェリーの目の前を、馬車に乗ったブランドナー伯爵夫妻が通り過ぎる。
彼らはこれから、新しい人形を探しに行くらしい。
唯一の家族と出会えたと思えた。
しかし彼らにとってシェリーは人形で、替えの利く存在だったのだ。
シェリーは涙を堪えて、屋敷から去った。
とはいえ行く当てがなく彷徨っていたところ夜になり、小雨が降り始める。
成す術もなかったシェリーは、慌てて近くにある古びた屋敷に飛び込んだのだった。
屋敷は打ち捨てられているかのように廃れた雰囲気があり、一見すると人が住んでいなさそうに見えた。
しかしシェリーが屋敷の中に入ると、魔法がかけられたかのように屋敷の中が明るかった。
「どうして? 外から見た時は真っ暗だったのに……」
戸惑って立ち尽くすシェリーの前に、アレクシス魔法帝国の若き皇帝ことデーヴィドがシェリーの気配を察知して現れたのだった。
***
シェリーからこれまでの経緯を聞いたデーヴィッドは顔を顰める。
「……そんなことがあったのか。幼いのによくそのような環境で一年も耐えたね。それにしても、許しがたい所業だ」
皺を寄せても美しい相貌は相変わらず整ったままだ。
「シェリーに提案がある。君には魔力が感じられるから、俺の国に来て魔導士として働かないか?」
「わたしに魔力が……」
シェリーは視線を手元に落とし、自分の手を見つめる。
この皮膚の下に魔力が宿っているなんて、俄には信じ難い。
この世界では魔法が存在する。
しかしエーレントラウト王国では魔法が使える人はほんの一握りしかおらず、そのほとんどは貴族だ。
一方でアレクシス魔法帝国では誰もが魔法を使えると聞いた。
アレクシス魔法帝国が数年前の戦争でこの近隣の国を配下にして統治できたのは、ひとえに魔法のおかげだと、孤児院にあった本で読んだことがある。
「わたしなんかが行っていいのですか?」
「ああ、君のように気丈で聡い子どもは大歓迎だよ」
それと、とデーヴィッドは気まずそうに言葉を続ける。
「俺の息子と友だちになってほしいんだ。君のように真っ直ぐな子どもなら、あいつも心を開くかもしれない」
デーヴィッドには、シェリーより二つ年上の息子が一人いる。
名前はアシェル。
デーヴィッドから赤色の瞳を、彼の妻から金色の髪を受け継いだ、美しい少年だ。
皇太子という立場もあり、物心がついた頃から彼の権力にあやかろうとして擦り寄る人物が多いこともあり、アシェルは他人に対してなかなか心を開こうとしない。
「わたしもお友だちになりたいです。今まで一人も友だちがいなかったから嬉しいです!」
花が咲いたように笑うシェリーを、デーヴィッドは柔らかな笑みで見守った。
***
デーヴィッドに連れられてアレクシス魔法帝国へと向かったシェリーは、皇城に呼び出された神官たちによって魔力検査を受けた。
アレクシス魔法帝国では、子どもは五歳になると神殿へ行って魔力検査を受ける。
魔力検査では、その者が持つ魔法属性や魔力量が測られる。
そこでシェリーは、とてつもなく膨大な水の魔力を持っていると聞かされた。
しかし何者かがシェリーの魔力を封じているそうで、デーヴィッドはその封印を解くために彼の魔法の恩師であるフレディ・ホルバインを呼んだ。
フレディは六十代くらいの男性で、白髪交じりの金色の髪に、シェリーと同じアイスブルーの瞳を持っている。
気難しそうな顔つきだったため、シェリーはいささか怯んだ。
フレディはシェリーを一目見るなり、瞳を大きく見開いた。
「陛下、この子は……どこで……?」
「エーレントラウト王国の王都にある私の隠れ家で見つけた。逆境にも負けない気丈で聡い子だし、魔力を持っているようだから連れて帰ったんだ」
「そうですか。まさか……いや、魔法の封印を解くのが先でしたね」
フレディはシェリーの頭に触れて魔法を解析する。
彼はまたもや目を見張ると、突然シェリーを抱きしめた。
アイスブルーの瞳から、一筋の涙が落ちる。
「陛下、この子を封印していた魔力は私の息子のものでした。それれにこの子は我がホルバイン家が誇る水属性の魔力の持ち主です。この子は――私の孫娘です」
「やはりそうだったか。初めてシェリーを見た時、貴殿の亡くなった令息によく似ていると思ったんだ」
「魔法を封印したのは恐らく、この子が魔法を使えると人買いに売られると危惧したのでしょう」
こうしてシェリーはフレディに引き取られ、シェリー・ホルバイン侯爵令嬢となった。
後日、フレディは一人で皇城へ向かい、デーヴィッドからシェリーがエーレントラウト王国でどのような仕打ちを受けていたのか聞いた。
「子どもを人形のように扱うなど浅ましいのにもほどがある!」
フレディは拳で強くテーブルを叩いた。
「同感だ。だからエーレントラウト王国に残してきた騎士たちにブランドナー伯爵夫妻の調査をさせている。些細なことでもいいからシェリーを虐待した報いを受けさせるつもりだ」
デーヴィッドは黒い笑みを浮かべた。
美しい顔がより酷薄さを醸し出す表情だ。
まるで魔王のようだと、彼の側に控えている使用人たちは密かに思う。
「軽くて爵位の剥奪だな」
「財を没収も必要でしょう」
「国外追放も付け加えるべきだ。無一文で知らない土地に投げ出されて苦労すればいい」
デーヴィッドが魔王であれば、フレディはさしずめ魔王の右腕だろう。
二人は揃ってニヤリと笑った。
***
晴れて実の家族を見つけられたシェリーは、アシェルの友だちになるというデーヴィッドとの約束を果たすべく皇城を訪ねた。
アシェルはデーヴィッドの美貌を受け継ぎ、目を見張るほどの美少年だ。
彼はシェリーを見るなり赤い瞳を眇めた。
「はあ……君もまた僕の婚約者になるよう言われてここに来たんだね」
「いいえ、わたしは皇帝陛下とあなたの友だちになるという約束をしたからここに来たの。皇妃になるつもりはないわ。だって皇妃なんて面倒そうだし、お爺様と一緒にいられなくなるもの。そんなのごめんよ」
「――っ」
アシェルの頬が瞬く間に赤くなった。
まさかこんなにも真っ向から自分の婚約者になりたくないと言われるとは思ってもみなかったらしい。
他の令嬢たちはアシェルの機嫌を取るために、彼の顔色ばかり窺っていたのだから。
「それに、もし結婚が必要になったらお爺様が養子に迎えているルークとするわ。だって、ルークにはまだ婚約者がいないもの」
フレディは息子を失ってから五年後、跡継ぎが必要なため養子のルークを迎えた。
ルークはフレディの教え子の一人の家の子どもで、シェリーの五歳年上の少年だ。
柔和な性格で、早くもシェリーの兄として過保護になっている。
シェリーが魔法に興味があるとわかるや否や、魔法の練習に付き合ってくれている。
ルークもシェリーと同じく水属性の魔力の持ち主であるため、彼のアドバイスは非常にわかりやすかった。
「わたしはお義兄様が好きだから、結婚できるならそのつもりよ。二人で水魔法を使って領地をより豊かにするわ」
「……君が全く皇太子妃の座に興味がないことはわかったよ」
アシェルは頬を膨らませながら白旗を揚げた。
赤い瞳はやや恨めし気で、シェリーを睨みつけている。
「でもね友だちがほしいから、わたしたち、友だちになりましょう?」
シェリーがにっこりと微笑みを浮かべて手を差し出すと、アシェルは躊躇いがちにその手を握り返した。
そのひと月後、シェリーはフレディから、ブランドナー伯爵夫妻が奴隷商から子どもを買っていた罪で爵位を取り上げられたと聞いた。
奴隷の売買は禁忌だ。それを冒してまであの夫妻は人形のような子どもをほっしていたらしい。
その罰を報いることになったと聞き、シェリーは少し心が軽くなった。
***
それから五年後。
シェリーは十歳となり、道を歩けば誰もが振り返るほどの美しい少女へと変貌した。
あどけなく可愛らしかった顔つきは、聡明さと力強い意思を併せ持った大人の女性らしいものとなった。
この五年間、シェリーは時おり、「人形のようにかわいらしい」と褒め称えられるたびに過去のトラウマに苛まれることもあった。
しかしその度に礼儀作法の授業や魔法の鍛錬や研究に打ち込んで気を紛らわせた。
おかげで彼女の優秀さを聞いた帝国一の魔法学園から、通常よりも三年も早いが入学してみないかと打診を受けたのだ。
自分はもう、あの頃の人形のように何もできなかったシェリーではない。
積み重ねてきた時間と努力が、彼女の心を強くした。
アシェルとの交流は今も続いている。
シェリーは皇太子妃の地位には全く興味がなく、魔法に傾倒している様子を間近で見てきたアシェルは、次第にシェリーに心を開いた。
以来、シェリーを風除けと称してパーティーのパートナーに指名している。
そんな二人は恋仲なのだと噂されている。
おかげで社交界では、皇太子妃最有力候補となってしまった。
今日もシェリーがアシェルを訪ねて皇城へ行くと、彼女の姿を見かけた使用人たちは生暖かい視線で見守ってくるものだからいたたまれない。
「もうっ、また根も葉もない噂がたっているわ! それに皇帝陛下ったら、噂が流れているし、せっかくだから妃教育を受けないかなんて聞いてきたのよ」
アシェルと待ち合わせた応接室に入ると、シェリーは先に部屋にいた美しい少年――アシェルに不満をぶつけた。
十二歳になったアシェルは、父親のデーヴィッドのように精悍な顔立ちになっていた。
背はうんと伸びて、今ではシェリーより頭一つ分背が高くなっている。
おかげでシェリーはいつも、アシェルを見上げて話さなければならなくなってしまった。
「いいんじゃない? シェリーは勉強が好きなんだから受けてみれば?」
アシェルは長椅子に座って本を読んでいるまま、適当に返事をする。
「そうすると、学園での勉強がおろそかになってしまうわ。わたしは学年での四年間を勉強漬けになって楽しむつもりなんだから!」
「……君って相変わらず魔法が一番だね」
アシェルは溜息をつくと本をテーブルの上に置く。空いた手はシェリーの細腕を掴んだ。
ぐらりとシェリーは態勢を崩し、気づけば長椅子の上に座っている。
両側はアシェルの腕に塞がれており、身動きが取れない。
見上げると、アシェルのルビーのように赤い瞳と視線が交わった。
シェリーを映すその瞳には切実さが滲んでいる。
明らかにいつものアシェルではない。
シェリーは戸惑うあまり、なにも言えなかった。
「ねえ、シェリー。学園に行ったら、きっとたくさんの縁談が持ち込まれるよ。それとなく君に言い寄る輩も多いだろうね。だって君は優秀だし家柄もいいから」
「すべて断るつもりよ。お爺様は許してくださるわ。だってわたしと離れたくないのだもの」
「……まあ、あの最終関門を超えられる人なんていないだろうね。だけどシェリーが惚れてくれたらどうにかなると思う奴らがしつこく追いかけてくるかもしれないよ?」
「そんな人はいない気がするけど……いたとしたら厄介ね。勉強に集中したいわ」
「そこで提案なんだけどさ、僕の恋人のフリをしてくれない?」
「はい?」
怪訝そうな顔で問い返すシェリーを、アシェルは心から愛おしそうに見つめ返す。
「僕も一緒に入学するだろう? 僕も勉強に集中したいから、言い寄られるのは嫌なんだよね。だけど僕には君の祖父のような盾がないから貴重な勉強時間を守る術がないんだ。友人を助けると思って、協力してくれると嬉しいのだけど……ダメかな?」
アシェルはあざとく首を傾げる。
シェリーは言葉に詰まった。
友人と言われると断りづらい。
なんやかんや言ってシェリーにとってアシェルは初めてできた友人で――特別な存在だ。
彼が困っているなら助けたいし、恋人のフリをするくらいなら勉強の片手間にできるはずだ。
「……いいわよ。恋人のフリをするくらいなら。だけど、お爺様とルークには知らせておくからね?」
「うん、そうしてくれて構わないよ」
上機嫌のアシェルはシェリーの髪を一房手に取ると、祈るように口づけを落とした。
***
学園に入学したシェリーは、入学試験が一位だったことや入学前からあったアシェルとの噂もあり、早々から注目の的となった。
シェリーの美貌に魅せられた男子生徒から声をかけられることが度々あったが、アシェルとの恋人の演技で彼と一緒にいることで、次第に声をかけられなくなった。
アシェルは時間さえあればいつもシェリーの隣にいて、彼女と一緒に勉強した。
初めはシェリーを妬んだ侯爵令嬢から小さな嫌がらせを受けていたが、シェリーが証拠を掴んで追求したことで彼女は退学することとなった。
まさか退学するとは思ってもみなかったシェリーは驚いていた。
その退学にアシェルが一枚噛んでいたことを、シェリーは知らない。
やがてシェリーには学友ができて学生生活を謳歌していた。
そんなある日、放課後に友人と一緒に王都のカフェへと向かっていたシェリーの前に、みすぼらしい服装の夫婦が現れた。
「まあっ! シェリーだわ。わたしの可愛いお人形のシェリーよ!」
「ああ、本当だ。シェリー! こんなところにいたのか!」
聞き慣れた声に、体が自然と硬くなる。
その声を一日も忘れたことはない。
シェリーを人形扱いしていた、元ブランドナー伯爵夫妻の声だ。
「どうして、ここに……」
たじろぐシェリーに縋るように、元ブランドナー伯爵夫人がシェリーの両肩を掴む。
「エーレントラウト王国で何もかも失ったから、生活費を稼ぐためにアレクシス魔法帝国に来たのよ。ああ、わたしのかわいいシェリー。どうかこの母を助けておくれ!」
元ブランドナー伯爵夫人の甲高い声に、周囲にいる人たちが振り返って彼女たちを遠巻きに眺める。
「そうだ、今のお前は貴族のようないい身なりをしているし、それなりにいい家に引き取られたのだろう? 上手く言って私たちをそこに住まわせてくれよ。一時とはいえ、家族だったのだから助けてくれて当然だろう?!」
元ブランドナー伯爵も声を張り上げる。
いつもなら冷静に言い返せるシェリーだが、今は震えるばかりでなにも言い返せなかった。
心の中にあるトラウマがシェリーを飲み込み、思考を奪ったのだ。
まるで、五歳のあの頃に戻ったかのように、シェリーは成す術もなく立ち尽くした。
すると、人垣を掻き分けてシェリーの隣に立つ人物が現れた。
その者の大きな手がシェリーの背中にそっと添えられる。
「どうした? いつものように言い返すといい。今のシェリーは人形ではない。魔法一筋で、水魔法に関しては学園一の使い手の、皇太子妃筆頭候補のシェリー・ホルバインだ。人形だったのは過去のことだ。今の君は強い。――それに僕がいるから、もう誰にも人形にはさせない」
アシェルの声だ。
その声はシェリーの凍った心と体を溶かしていく。
「アシェル……殿下……」
シェリーの呼びかけに、アシェルは優しく微笑んだ。
その微笑みが、シェリーに勇気を分け与えてくれた。
シェリーはしゃんと背筋を伸ばすと、元養父母に正面から向き合う。
「――お断りします。今すぐわたしの目の前から消えてください。あなたたちはわたしを人形だからといって虐待をした挙句に捨てたのです。どうしてそんな人たちを助ける必要があるのでしょう?」
まさかシェリーが口答えするとは思ってもみなかった元ブランドナー伯爵は虚を突かれたように茫然と佇む。
一方で子どものシェリーを見下していた元ブランドナー伯爵夫人はカッと怒りに顔を真っ赤にした。
「なんて生意気な! あんたは人形のくせに!」
シェリーに向かって腕を振り上げると、その腕を駆けつけた近衛騎士に取り押さえられた。
帝国の貴族令嬢を害しようとしたバツとして、二人は投獄された。
今回の事件を聞いたデーヴィッドはかなりご立腹で、二人を北の最果てにある監獄に一生閉じ込めるとの判決を下した。
そこは厳しい環境の中で一生労働をしなければならず、一度投獄されると死ぬまで出られないといわれる恐ろしい場所だった。
***
事件の後、シェリーはアシェルに連れられ、皇城にある応接室で休むこととなった。
本来ならホルバイン家のタウン・ハウスに帰すべきだが、あいにく今はフレディもルークもそれぞれの用事でいない。
一人にするわけにもいかず、そしてアシェルがシェリーと離れたくなかったため、彼女を城に連れて行くことにした。
「シェリー……ごめん」
アシェルは馬車の中で、シェリーに頭を下げた。
「どうしてアシェルが謝るの?」
「恋人として、君を守ることができなかったから。……まさか、あいつらが帝国内にいるとは思ってもみなかったんだ」
「律儀ね。恋人のフリをしているのだから、アシェルが責任を感じる必要なんてないのに」
「……シェリーの人生に僕を関わらせてほしい」
アシェルの赤い瞳が真剣みを帯びてシェリーを見つめる。
「シェリーは思わせぶりな言葉を言ってもわかってくれないから、正直に話すよ。本当は五年前に、すっかりシェリーに惚れてしまったんだ。だから他の者を寄せつけないようにシェリーをパートナーに指名していたし、……ルークに縁談をたくさんまわしていた」
「お義兄様に縁談地獄が来ていたのはアシェルの仕業だったのね!」
眦を吊り上げるシェリーに、アシェルはしゅんと項垂れる。
「卑怯な手を使って悪かった。だけどこのままでは本当にシェリーがルークと結婚しそうで焦っていたんだ。だから僕に機会をくれないか? 卒業するまでにシェリーを惚れさせたら、僕と結婚してほしい」
「そ、卒業するまでにできたらね。やれるものならやってみるといいわ」
戸惑いのあまりそう返事をすると、アシェルはまるで美しい宝物を得たように無邪気に喜んだ。
「うん、卒業するまでに分かってもらえるように頑張るよ」
アシェルは宣言通り、シェリーに猛アタックした。
シェリーと会うたびに心から嬉しそうに微笑み、その度に甘い言葉を囁いた。
初めはいつもと違うアシェルに困惑したシェリーだったが、紆余曲折を経てアシェルに陥落した。
そうして二人は両想いになった。
***
事件が起こった日から四年後、学園を卒業したシェリーはアシェルと婚約を結び、翌年に結婚した。
シェリーの祖父であるフレディは孫娘から離れたくないあまりアシェルに決闘を申し込もうとしたりと大暴れしたが、シェリーのアシェルへの想いを聞いて鎮まったのだった。
かつて人形令嬢と呼ばれていた少女は今、皇太子の最愛となり彼や大切な人たちと一緒に幸せな日々を過ごしている。
人形令嬢こと元ブランドナー伯爵令嬢のシェリーを見た美しい男性は、開口一番にそう言った。
彼がそういうのも無理もない。
シェリーは五歳にして整った容姿をしている。
ミルクのように白い肌に、すっと通った鼻筋にぽってりとした可愛らしい薔薇色の唇。
アイスブルーの瞳から頬にかけては、長いピンクブロンドの色の睫毛が作った影が落ちている。
そしてピンクブロンドの髪は艶やかで、緩くウェーブがかかっている。
着ているドレスは彼女のアイスブルーの瞳に合わせて水色で、可愛らしいデザインのものだ。
彼女を見た誰もが、妖精や人形のようだと褒め称えるだろう。
一方で男性もまた整った容姿をしている。
陶器のように白い肌に彫像のように整った顔立ち。
髪は夜を紡いだ糸のように美しい黒色で、頭の後ろで結わえて肩に流している。
瞳は赤く、ルビーのように美しい。
なんて美しい人なのだろう。
シェリーはすっかり見惚れてしまった。
年齢は三十代くらい。
シェリーの養父だったブランドナー伯爵より若い。
着ている黒地に金糸の刺繍の入った上着とスラックスや、柔らかな白いシャツを見る限り、貴族だろう。
「わたし、妖精じゃない……」
シェリーは心の底から悲しそうな声で否定すると、アイスブルーの瞳にじわりと涙を浮かべた。
大粒の真珠のような涙が、ほろりと頬を伝う。
「ああ、わかっているよ。君は人間だ。あまりにもかわいらしいから、そう例えただけだ」
男性は少し慌てた調子でそう言うと、シェリーをひょいと抱き上げる。
上着から絹のハンカチを取り出すと、そっとシェリーの目元と頬を拭った。
「ずいぶんと軽いな。君はどこかの令嬢のようだが、ちゃんと食事はとっていたのか?」
「食べていたけど、とても少なかったわ。人形は太っちゃいけないってブランドナー伯爵夫人が言うから、わたしのごはんはほんのちょっとだったの。屋敷にいた猫のご飯よりすくなかったと思うわ」
「……なるほど。そのご飯の話、じっくりと聞かせてもらおうか」
男性はシェリーの頭を撫でると、彼女を抱っこしたまま食堂へと向かった。
屋敷の使用人らしい男性に言いつけて、シェリーの夕食を作らせたのだった。
「ねえ、お兄さんはだれですか?」
見上げて問うシェリーに、男性は美しい微笑みを返す。
「俺はデーヴィド・アレクシス。アレクシス魔法帝国で皇帝って仕事をしているんだ。今は魔法の恩師の孫娘を探しに、エーレントラウト王国に滞在していたところだよ」
***
シェリーは孤児だった。
あまりにも幼い頃に孤児院に来たものだから、両親の顔を知らない。
孤児院の院長から聞いた話だと、両親は事故で亡くなったらしい。
彼らはこの国――エーレントラウト王国の出身ではないらしく、身内がいなかったため孤児院に預けられたのだ。
そうして孤児院で育ち、四歳になった頃、シェリーはブランドナー伯爵夫妻に引き取られた。
人形のようにかわいらしい。
それが、シェリーが引き取られた理由だった。
ブランドナー伯爵夫人はシェリーをとてもかわいがった。
彼女の大切な人形のコレクションの一つとしてかわいがったのだ。
そんな彼女を、社交界では人形令嬢と呼んでいた。
初めは素敵なドレスや豪奢な部屋に歓喜したシェリーだったが、次第に人形扱いされることへの不満を募らせていった。
しかし自分を引き取ってくれたブランドナー伯爵夫妻に不満を言うのは気が引けた。また孤児院に戻されるのではないかと、気を揉んでいたのだ。
孤児院には戻りたくない。
あそこはいつもみんなピリピリしていて、体の小さなシェリーは他の子どもたちから虐められていた。
我慢していると、ブランドナー伯爵夫人は輪をかけてシェリーを人形扱いし始めた。
食事はうんと減らされるし、「人形は話さない」といったおかしな理由でシェリーが話すのを嫌がったのだ。
シェリーが笑うことも、人形らしくないと嫌がった。
ブランドナー伯爵夫人の機嫌が悪い時は、歩くことさえ許されなかった。
なにもかも自由にできず、シェリーは息が詰まりそうだった。
一挙手一投足を批判されると、自分という存在が否定されているようで、人形のように心を失くしてしまえばどれほど楽だろうかと思うこともあった。
ある日、我慢ができなくなったシェリーはブランドナー伯爵夫人に反抗した。
「ブランドナー伯爵夫人、わたしは人形ではありません。ご飯が少ないとお腹がペコペコで痛くなるし、言葉があるから話したいです」
するとブランドナー伯爵夫人の顔からすっと表情が抜け落ちた。
「あら、そう。人形ではないなら、いらないわ」
その一言で、シェリーの生活はすぐに追い出された。
着の身着のままで茫然と門の前に立つシェリーの目の前を、馬車に乗ったブランドナー伯爵夫妻が通り過ぎる。
彼らはこれから、新しい人形を探しに行くらしい。
唯一の家族と出会えたと思えた。
しかし彼らにとってシェリーは人形で、替えの利く存在だったのだ。
シェリーは涙を堪えて、屋敷から去った。
とはいえ行く当てがなく彷徨っていたところ夜になり、小雨が降り始める。
成す術もなかったシェリーは、慌てて近くにある古びた屋敷に飛び込んだのだった。
屋敷は打ち捨てられているかのように廃れた雰囲気があり、一見すると人が住んでいなさそうに見えた。
しかしシェリーが屋敷の中に入ると、魔法がかけられたかのように屋敷の中が明るかった。
「どうして? 外から見た時は真っ暗だったのに……」
戸惑って立ち尽くすシェリーの前に、アレクシス魔法帝国の若き皇帝ことデーヴィドがシェリーの気配を察知して現れたのだった。
***
シェリーからこれまでの経緯を聞いたデーヴィッドは顔を顰める。
「……そんなことがあったのか。幼いのによくそのような環境で一年も耐えたね。それにしても、許しがたい所業だ」
皺を寄せても美しい相貌は相変わらず整ったままだ。
「シェリーに提案がある。君には魔力が感じられるから、俺の国に来て魔導士として働かないか?」
「わたしに魔力が……」
シェリーは視線を手元に落とし、自分の手を見つめる。
この皮膚の下に魔力が宿っているなんて、俄には信じ難い。
この世界では魔法が存在する。
しかしエーレントラウト王国では魔法が使える人はほんの一握りしかおらず、そのほとんどは貴族だ。
一方でアレクシス魔法帝国では誰もが魔法を使えると聞いた。
アレクシス魔法帝国が数年前の戦争でこの近隣の国を配下にして統治できたのは、ひとえに魔法のおかげだと、孤児院にあった本で読んだことがある。
「わたしなんかが行っていいのですか?」
「ああ、君のように気丈で聡い子どもは大歓迎だよ」
それと、とデーヴィッドは気まずそうに言葉を続ける。
「俺の息子と友だちになってほしいんだ。君のように真っ直ぐな子どもなら、あいつも心を開くかもしれない」
デーヴィッドには、シェリーより二つ年上の息子が一人いる。
名前はアシェル。
デーヴィッドから赤色の瞳を、彼の妻から金色の髪を受け継いだ、美しい少年だ。
皇太子という立場もあり、物心がついた頃から彼の権力にあやかろうとして擦り寄る人物が多いこともあり、アシェルは他人に対してなかなか心を開こうとしない。
「わたしもお友だちになりたいです。今まで一人も友だちがいなかったから嬉しいです!」
花が咲いたように笑うシェリーを、デーヴィッドは柔らかな笑みで見守った。
***
デーヴィッドに連れられてアレクシス魔法帝国へと向かったシェリーは、皇城に呼び出された神官たちによって魔力検査を受けた。
アレクシス魔法帝国では、子どもは五歳になると神殿へ行って魔力検査を受ける。
魔力検査では、その者が持つ魔法属性や魔力量が測られる。
そこでシェリーは、とてつもなく膨大な水の魔力を持っていると聞かされた。
しかし何者かがシェリーの魔力を封じているそうで、デーヴィッドはその封印を解くために彼の魔法の恩師であるフレディ・ホルバインを呼んだ。
フレディは六十代くらいの男性で、白髪交じりの金色の髪に、シェリーと同じアイスブルーの瞳を持っている。
気難しそうな顔つきだったため、シェリーはいささか怯んだ。
フレディはシェリーを一目見るなり、瞳を大きく見開いた。
「陛下、この子は……どこで……?」
「エーレントラウト王国の王都にある私の隠れ家で見つけた。逆境にも負けない気丈で聡い子だし、魔力を持っているようだから連れて帰ったんだ」
「そうですか。まさか……いや、魔法の封印を解くのが先でしたね」
フレディはシェリーの頭に触れて魔法を解析する。
彼はまたもや目を見張ると、突然シェリーを抱きしめた。
アイスブルーの瞳から、一筋の涙が落ちる。
「陛下、この子を封印していた魔力は私の息子のものでした。それれにこの子は我がホルバイン家が誇る水属性の魔力の持ち主です。この子は――私の孫娘です」
「やはりそうだったか。初めてシェリーを見た時、貴殿の亡くなった令息によく似ていると思ったんだ」
「魔法を封印したのは恐らく、この子が魔法を使えると人買いに売られると危惧したのでしょう」
こうしてシェリーはフレディに引き取られ、シェリー・ホルバイン侯爵令嬢となった。
後日、フレディは一人で皇城へ向かい、デーヴィッドからシェリーがエーレントラウト王国でどのような仕打ちを受けていたのか聞いた。
「子どもを人形のように扱うなど浅ましいのにもほどがある!」
フレディは拳で強くテーブルを叩いた。
「同感だ。だからエーレントラウト王国に残してきた騎士たちにブランドナー伯爵夫妻の調査をさせている。些細なことでもいいからシェリーを虐待した報いを受けさせるつもりだ」
デーヴィッドは黒い笑みを浮かべた。
美しい顔がより酷薄さを醸し出す表情だ。
まるで魔王のようだと、彼の側に控えている使用人たちは密かに思う。
「軽くて爵位の剥奪だな」
「財を没収も必要でしょう」
「国外追放も付け加えるべきだ。無一文で知らない土地に投げ出されて苦労すればいい」
デーヴィッドが魔王であれば、フレディはさしずめ魔王の右腕だろう。
二人は揃ってニヤリと笑った。
***
晴れて実の家族を見つけられたシェリーは、アシェルの友だちになるというデーヴィッドとの約束を果たすべく皇城を訪ねた。
アシェルはデーヴィッドの美貌を受け継ぎ、目を見張るほどの美少年だ。
彼はシェリーを見るなり赤い瞳を眇めた。
「はあ……君もまた僕の婚約者になるよう言われてここに来たんだね」
「いいえ、わたしは皇帝陛下とあなたの友だちになるという約束をしたからここに来たの。皇妃になるつもりはないわ。だって皇妃なんて面倒そうだし、お爺様と一緒にいられなくなるもの。そんなのごめんよ」
「――っ」
アシェルの頬が瞬く間に赤くなった。
まさかこんなにも真っ向から自分の婚約者になりたくないと言われるとは思ってもみなかったらしい。
他の令嬢たちはアシェルの機嫌を取るために、彼の顔色ばかり窺っていたのだから。
「それに、もし結婚が必要になったらお爺様が養子に迎えているルークとするわ。だって、ルークにはまだ婚約者がいないもの」
フレディは息子を失ってから五年後、跡継ぎが必要なため養子のルークを迎えた。
ルークはフレディの教え子の一人の家の子どもで、シェリーの五歳年上の少年だ。
柔和な性格で、早くもシェリーの兄として過保護になっている。
シェリーが魔法に興味があるとわかるや否や、魔法の練習に付き合ってくれている。
ルークもシェリーと同じく水属性の魔力の持ち主であるため、彼のアドバイスは非常にわかりやすかった。
「わたしはお義兄様が好きだから、結婚できるならそのつもりよ。二人で水魔法を使って領地をより豊かにするわ」
「……君が全く皇太子妃の座に興味がないことはわかったよ」
アシェルは頬を膨らませながら白旗を揚げた。
赤い瞳はやや恨めし気で、シェリーを睨みつけている。
「でもね友だちがほしいから、わたしたち、友だちになりましょう?」
シェリーがにっこりと微笑みを浮かべて手を差し出すと、アシェルは躊躇いがちにその手を握り返した。
そのひと月後、シェリーはフレディから、ブランドナー伯爵夫妻が奴隷商から子どもを買っていた罪で爵位を取り上げられたと聞いた。
奴隷の売買は禁忌だ。それを冒してまであの夫妻は人形のような子どもをほっしていたらしい。
その罰を報いることになったと聞き、シェリーは少し心が軽くなった。
***
それから五年後。
シェリーは十歳となり、道を歩けば誰もが振り返るほどの美しい少女へと変貌した。
あどけなく可愛らしかった顔つきは、聡明さと力強い意思を併せ持った大人の女性らしいものとなった。
この五年間、シェリーは時おり、「人形のようにかわいらしい」と褒め称えられるたびに過去のトラウマに苛まれることもあった。
しかしその度に礼儀作法の授業や魔法の鍛錬や研究に打ち込んで気を紛らわせた。
おかげで彼女の優秀さを聞いた帝国一の魔法学園から、通常よりも三年も早いが入学してみないかと打診を受けたのだ。
自分はもう、あの頃の人形のように何もできなかったシェリーではない。
積み重ねてきた時間と努力が、彼女の心を強くした。
アシェルとの交流は今も続いている。
シェリーは皇太子妃の地位には全く興味がなく、魔法に傾倒している様子を間近で見てきたアシェルは、次第にシェリーに心を開いた。
以来、シェリーを風除けと称してパーティーのパートナーに指名している。
そんな二人は恋仲なのだと噂されている。
おかげで社交界では、皇太子妃最有力候補となってしまった。
今日もシェリーがアシェルを訪ねて皇城へ行くと、彼女の姿を見かけた使用人たちは生暖かい視線で見守ってくるものだからいたたまれない。
「もうっ、また根も葉もない噂がたっているわ! それに皇帝陛下ったら、噂が流れているし、せっかくだから妃教育を受けないかなんて聞いてきたのよ」
アシェルと待ち合わせた応接室に入ると、シェリーは先に部屋にいた美しい少年――アシェルに不満をぶつけた。
十二歳になったアシェルは、父親のデーヴィッドのように精悍な顔立ちになっていた。
背はうんと伸びて、今ではシェリーより頭一つ分背が高くなっている。
おかげでシェリーはいつも、アシェルを見上げて話さなければならなくなってしまった。
「いいんじゃない? シェリーは勉強が好きなんだから受けてみれば?」
アシェルは長椅子に座って本を読んでいるまま、適当に返事をする。
「そうすると、学園での勉強がおろそかになってしまうわ。わたしは学年での四年間を勉強漬けになって楽しむつもりなんだから!」
「……君って相変わらず魔法が一番だね」
アシェルは溜息をつくと本をテーブルの上に置く。空いた手はシェリーの細腕を掴んだ。
ぐらりとシェリーは態勢を崩し、気づけば長椅子の上に座っている。
両側はアシェルの腕に塞がれており、身動きが取れない。
見上げると、アシェルのルビーのように赤い瞳と視線が交わった。
シェリーを映すその瞳には切実さが滲んでいる。
明らかにいつものアシェルではない。
シェリーは戸惑うあまり、なにも言えなかった。
「ねえ、シェリー。学園に行ったら、きっとたくさんの縁談が持ち込まれるよ。それとなく君に言い寄る輩も多いだろうね。だって君は優秀だし家柄もいいから」
「すべて断るつもりよ。お爺様は許してくださるわ。だってわたしと離れたくないのだもの」
「……まあ、あの最終関門を超えられる人なんていないだろうね。だけどシェリーが惚れてくれたらどうにかなると思う奴らがしつこく追いかけてくるかもしれないよ?」
「そんな人はいない気がするけど……いたとしたら厄介ね。勉強に集中したいわ」
「そこで提案なんだけどさ、僕の恋人のフリをしてくれない?」
「はい?」
怪訝そうな顔で問い返すシェリーを、アシェルは心から愛おしそうに見つめ返す。
「僕も一緒に入学するだろう? 僕も勉強に集中したいから、言い寄られるのは嫌なんだよね。だけど僕には君の祖父のような盾がないから貴重な勉強時間を守る術がないんだ。友人を助けると思って、協力してくれると嬉しいのだけど……ダメかな?」
アシェルはあざとく首を傾げる。
シェリーは言葉に詰まった。
友人と言われると断りづらい。
なんやかんや言ってシェリーにとってアシェルは初めてできた友人で――特別な存在だ。
彼が困っているなら助けたいし、恋人のフリをするくらいなら勉強の片手間にできるはずだ。
「……いいわよ。恋人のフリをするくらいなら。だけど、お爺様とルークには知らせておくからね?」
「うん、そうしてくれて構わないよ」
上機嫌のアシェルはシェリーの髪を一房手に取ると、祈るように口づけを落とした。
***
学園に入学したシェリーは、入学試験が一位だったことや入学前からあったアシェルとの噂もあり、早々から注目の的となった。
シェリーの美貌に魅せられた男子生徒から声をかけられることが度々あったが、アシェルとの恋人の演技で彼と一緒にいることで、次第に声をかけられなくなった。
アシェルは時間さえあればいつもシェリーの隣にいて、彼女と一緒に勉強した。
初めはシェリーを妬んだ侯爵令嬢から小さな嫌がらせを受けていたが、シェリーが証拠を掴んで追求したことで彼女は退学することとなった。
まさか退学するとは思ってもみなかったシェリーは驚いていた。
その退学にアシェルが一枚噛んでいたことを、シェリーは知らない。
やがてシェリーには学友ができて学生生活を謳歌していた。
そんなある日、放課後に友人と一緒に王都のカフェへと向かっていたシェリーの前に、みすぼらしい服装の夫婦が現れた。
「まあっ! シェリーだわ。わたしの可愛いお人形のシェリーよ!」
「ああ、本当だ。シェリー! こんなところにいたのか!」
聞き慣れた声に、体が自然と硬くなる。
その声を一日も忘れたことはない。
シェリーを人形扱いしていた、元ブランドナー伯爵夫妻の声だ。
「どうして、ここに……」
たじろぐシェリーに縋るように、元ブランドナー伯爵夫人がシェリーの両肩を掴む。
「エーレントラウト王国で何もかも失ったから、生活費を稼ぐためにアレクシス魔法帝国に来たのよ。ああ、わたしのかわいいシェリー。どうかこの母を助けておくれ!」
元ブランドナー伯爵夫人の甲高い声に、周囲にいる人たちが振り返って彼女たちを遠巻きに眺める。
「そうだ、今のお前は貴族のようないい身なりをしているし、それなりにいい家に引き取られたのだろう? 上手く言って私たちをそこに住まわせてくれよ。一時とはいえ、家族だったのだから助けてくれて当然だろう?!」
元ブランドナー伯爵も声を張り上げる。
いつもなら冷静に言い返せるシェリーだが、今は震えるばかりでなにも言い返せなかった。
心の中にあるトラウマがシェリーを飲み込み、思考を奪ったのだ。
まるで、五歳のあの頃に戻ったかのように、シェリーは成す術もなく立ち尽くした。
すると、人垣を掻き分けてシェリーの隣に立つ人物が現れた。
その者の大きな手がシェリーの背中にそっと添えられる。
「どうした? いつものように言い返すといい。今のシェリーは人形ではない。魔法一筋で、水魔法に関しては学園一の使い手の、皇太子妃筆頭候補のシェリー・ホルバインだ。人形だったのは過去のことだ。今の君は強い。――それに僕がいるから、もう誰にも人形にはさせない」
アシェルの声だ。
その声はシェリーの凍った心と体を溶かしていく。
「アシェル……殿下……」
シェリーの呼びかけに、アシェルは優しく微笑んだ。
その微笑みが、シェリーに勇気を分け与えてくれた。
シェリーはしゃんと背筋を伸ばすと、元養父母に正面から向き合う。
「――お断りします。今すぐわたしの目の前から消えてください。あなたたちはわたしを人形だからといって虐待をした挙句に捨てたのです。どうしてそんな人たちを助ける必要があるのでしょう?」
まさかシェリーが口答えするとは思ってもみなかった元ブランドナー伯爵は虚を突かれたように茫然と佇む。
一方で子どものシェリーを見下していた元ブランドナー伯爵夫人はカッと怒りに顔を真っ赤にした。
「なんて生意気な! あんたは人形のくせに!」
シェリーに向かって腕を振り上げると、その腕を駆けつけた近衛騎士に取り押さえられた。
帝国の貴族令嬢を害しようとしたバツとして、二人は投獄された。
今回の事件を聞いたデーヴィッドはかなりご立腹で、二人を北の最果てにある監獄に一生閉じ込めるとの判決を下した。
そこは厳しい環境の中で一生労働をしなければならず、一度投獄されると死ぬまで出られないといわれる恐ろしい場所だった。
***
事件の後、シェリーはアシェルに連れられ、皇城にある応接室で休むこととなった。
本来ならホルバイン家のタウン・ハウスに帰すべきだが、あいにく今はフレディもルークもそれぞれの用事でいない。
一人にするわけにもいかず、そしてアシェルがシェリーと離れたくなかったため、彼女を城に連れて行くことにした。
「シェリー……ごめん」
アシェルは馬車の中で、シェリーに頭を下げた。
「どうしてアシェルが謝るの?」
「恋人として、君を守ることができなかったから。……まさか、あいつらが帝国内にいるとは思ってもみなかったんだ」
「律儀ね。恋人のフリをしているのだから、アシェルが責任を感じる必要なんてないのに」
「……シェリーの人生に僕を関わらせてほしい」
アシェルの赤い瞳が真剣みを帯びてシェリーを見つめる。
「シェリーは思わせぶりな言葉を言ってもわかってくれないから、正直に話すよ。本当は五年前に、すっかりシェリーに惚れてしまったんだ。だから他の者を寄せつけないようにシェリーをパートナーに指名していたし、……ルークに縁談をたくさんまわしていた」
「お義兄様に縁談地獄が来ていたのはアシェルの仕業だったのね!」
眦を吊り上げるシェリーに、アシェルはしゅんと項垂れる。
「卑怯な手を使って悪かった。だけどこのままでは本当にシェリーがルークと結婚しそうで焦っていたんだ。だから僕に機会をくれないか? 卒業するまでにシェリーを惚れさせたら、僕と結婚してほしい」
「そ、卒業するまでにできたらね。やれるものならやってみるといいわ」
戸惑いのあまりそう返事をすると、アシェルはまるで美しい宝物を得たように無邪気に喜んだ。
「うん、卒業するまでに分かってもらえるように頑張るよ」
アシェルは宣言通り、シェリーに猛アタックした。
シェリーと会うたびに心から嬉しそうに微笑み、その度に甘い言葉を囁いた。
初めはいつもと違うアシェルに困惑したシェリーだったが、紆余曲折を経てアシェルに陥落した。
そうして二人は両想いになった。
***
事件が起こった日から四年後、学園を卒業したシェリーはアシェルと婚約を結び、翌年に結婚した。
シェリーの祖父であるフレディは孫娘から離れたくないあまりアシェルに決闘を申し込もうとしたりと大暴れしたが、シェリーのアシェルへの想いを聞いて鎮まったのだった。
かつて人形令嬢と呼ばれていた少女は今、皇太子の最愛となり彼や大切な人たちと一緒に幸せな日々を過ごしている。