犬神さまの子を産むには~犬神さまの子を産むことになった私。旦那様はもふもふ甘々の寂しがり屋でした~
「睡蓮。君が悲しむことは無いんだ。怒ることも」
「でも……」
「それにこれからは一人じゃなくなる。俺の子供を産んでくれるんだろう? 子育てに専念すれば気も紛れるし、何も考えなくていい。自分の子供のことだけ考えればいいからな……」
「一人で出来るの?」
「それはやってみないことには……。誰にでも始めてはあるものさ。最初は上手く行かなくても徐々に良くなっていくだろう。心配しなくていい。だからもう泣くな」

 ポロポロと涙を溢す華蓮の涙を拭おうとしたのか春雷は手を伸ばしたが、手が土や泥で汚れていることに気付いて手を引っ込めてしまう。その代わりに春雷は顔を近づけると、華蓮の目尻に口を付けて涙を吸い取ったのだった。

「頼むからもう泣かないでくれ……。縁があるからか、俺の子供を身ごもっているから、どちらにしろ君の感情が大きく乱れると俺まで感情が不安定になるんだ……。君が泣いている姿を見ていると、俺まで悲しくなってくるんだ……」

 衝撃で涙が止まっていた華蓮だったが、自分の胸を押さえながら顔を歪める春雷の姿に再び涙が込み上げてくる。
 そんな涙を隠すように華蓮は自ら春雷に近くと、大きな胸元に縋り付いたのだった。
 
「春雷。私……私っ、絶対春雷の子供を産むからっ! そうしたらもう寂しくないよね?」

 華蓮の行動に驚いたのか春雷は戸惑っていたようだったが、やがてそっと身を寄せたのだった。
 
「そうだな……きっと……」

 春雷の背中に腕を回すと、華蓮は静かに涙を流す。汗を掻いたと言って気にしていたものの、春雷からは黒犬と同じ瑞々しい睡蓮の香りしかしなかった。

「あまり強く抱きつくと、腹の子に負担が掛かるぞ」
「そう思うなら、春雷から離せばいいじゃない」
「離せるわけないだろう。……こうして誰かに抱きしめられたことは、今まで無いんだからさ」

 やがて春雷は華蓮の顔に残っていた涙を掬ってしまうと、どこか言いづらそうに話し出したのだった。

「その……汚れてしまうかもしれないが、腹に触れてもいいか。その……子供に」
「うん。触って」

 華蓮が頷くと、春雷は恐る恐る大きく膨らんだ華蓮の腹に触れる。始めは壊れ物を扱うように触っていたが、やがて愛おしむように撫でると頬を寄せたのだった。

「温かいな」

 穏やかな表情をして腹に身を寄せる春雷の姿が、何故か黒犬と重なる。黒犬と春雷が同じ香りを纏っているからなのか、それとも二人が同じ表情をしているように見えるからなのか。いずれにしても、最初に比べて春雷に対する恐怖や不信感が消えたのは確かだった。
 今ではお腹の子と同じくらい春雷を愛おしく感じる自分がいる。

(でも、春雷とは……)

 子供が産まれたら春雷とは縁が切れてしまう。縁が存在しない以上、二人は別れなければならない。華蓮は人間で、春雷はあやかし。住む世界さえ違う。人間は人間の世界で、あやかしはあやかしの世界で住むのが一番良い。
 それに春雷は自分の置かれた事情に華蓮を巻き込むつもりは無いだろう。優しい彼は自分が原因で華蓮が傷付き、苦しみ、苦労する姿を見たくないだろうから……。
 そんなことを考えていると、内側から身体を蹴られたように感じて顔を上げる。春雷も気づいたのか、頬を離して瞬きを繰り返すと、華蓮と目を合わせたのだった。

「睡蓮。今のは……」
「春雷も感じた!? 今、お腹蹴ったよね!?」

 二人は華蓮のお腹に意識を傾けると、また内側から蹴られる。先程よりは小さかったものの、それでも自分の存在を主張するように華蓮のお腹を蹴る我が子に頬を緩ませたのだった。

「この子も早く会いたいって」
「ああ。俺も早く会いたいよ」

 愛おしむようにお腹を撫でる春雷と華蓮の手が重なる。黒土で汚れた手を春雷は引っ込めようとするが、それより先に華蓮が春雷の手を掴む。春雷に心を許したからか、今度は電流が流れなかった。離せと言われる前に手を握ってしまうと華蓮は話し出す。
 
「春雷はどんな子に育って欲しいとか、男の子と女の子のどっちが良いとか、希望はある?」
「男でも女でも元気に産まれてきてくれれば……自分のなりたいように育ってくれればいい。子供には俺のような思いをさせたくないんだ。寂しいとか、悲しいとか」
「春雷は良いお父さんになるね」

 華蓮が庭を振り返ると、いつの間にか雨が晴れて空には虹が架かっていた。
 春雷も外の様子に気づいたのか、ゆっくり立ち上がると華蓮に手を貸してくれたのだった。

「いつまでも辛気臭い顔をして暗い部屋に詰めていないで畑に戻るとするか。睡蓮はどうする? 部屋に戻るのか?」
「私、春雷のためにタオルと飲み物を取りに行こうとしたの。汗を掻いたと言っていたし、一休みするかなと思って」

 華蓮の言葉に春雷は驚いたような顔をすると、みるみる内に顔を赤く染める。そして目を逸らしながらも、「そうだな」と同意したのだった。
 
「やりたいことは一通り終わったし、もう少し休んでもいいか……。睡蓮も一緒にどうだ?」
「いいの?」
「ああ。俺の話はしたし、今度は睡蓮の話が聞きたい。身体の調子や人間界の話を」
「そんなことが聞きたいの?」
「人間界はたまに出入りするが、様変わりするのが早くてついていけなくてな……。前から聞いてみたいと思っていたんだ。秋に穴を開けた南瓜を飾っていたかと思うと、今度は緑の葉が茂る木に飾りつけをするだろう。あれは何だ。門松や笹飾りとは違うようだが……」
「ハロウィンかぼちゃとクリスマスツリーも知らないの? クリスマスケーキやローストチキンも?」
「ケーキは知っている。雪起がたまに作って持ってくるからな。その『ろーすとちきん』というものは知らないな。どういうものなんだ?」
 
 春雷の手を掴んだまま二人は部屋を出る。春雷を怖がり、避けるようにして部屋にこもっていた最初の頃が嘘のようだった。
 足元が覚束なくてわずかな段差に躓きそうになれば、春雷が手を引いて肩を支えてくれる。華蓮を振った彼氏は、華蓮がどんなに大荷物を持っていても、気に掛けてくれなかった。
 華蓮のことを気丈だと思っていたのか、それとも弱音を吐かなかったからか。どんなことでも華蓮から頼まない限り、彼氏は何もしてくれなかった。
 それに対して些細なことでも華蓮を大切に想ってくれる春雷の気遣いが、今はとても心地良い。
 
(そんなお父さんの元に生まれるなんて、この子は幸せ者だね)

 お腹に触れると自然と笑みを浮かべてしまう。母親としての自覚が出てきたのかもしれない。
 妊娠が判明したばかりの頃は、早く子供を産んで元の世界に戻りたかったというのに……。
 しばらくして外出していた雪起が戻って来るまで、二人は縁側から虹を眺めながら身を寄せ合って人間界の話をしたのだった。
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