玉響の花雫       あなたにもう一度恋を 壱
ここで働き始めて2年以上経つのに、
一度も飲んだことのない
マスターの珈琲をじっと眺めた


丁寧に心を込めて豆を引き、一杯ずつ
無駄のない動きで淹れるマスターを
ずっとそばで見てきた


話すこともない日々が多かったけど、
珈琲の香りと音楽、この建物の雰囲気が
大好きだから働きたいと思えたのだ


「いただきます‥」


ふーっと少し息を吹いてから
カップき口をつけ一口口に含むと、
香りとは裏腹になんとも言えない
苦味が口の中を覆っていく


あの人も好んで飲むブラックの珈琲は
こんなにも大人の味がするんだ‥‥。


美味しいなんて口には出さないけど、
一口目を飲んだ後の彼の表情は
穏やかでホッとした顔をしている。

 
「とても苦いです‥‥」


素直にそう伝えてから、
蜂蜜を一杯スプーンで
すくって珈琲にトプンと落とし、
優しく混ぜてからまた一口飲んだ



「えっ?すごい!とても美味しいです」


『そうでしょう?
 人はね、それぞれ感じ方も違うし、
 足りないなと思った時は
 何かを足せばいいんですよ?
 霞さんが割ってしまったカップもまた
 足せばいいだけのことです。』


叱ることもなく、
怒った表情をみせることもなく
穏やかな話し方で
珈琲をすするマスターに
涙が溢れそうになるのを堪えた


「マスター、ありがとうございます。」


『はい、
 その気持ちだけでじゅうぶんです。』


静かな空間で飲んだ大人の珈琲の味を
私はきっと忘れることはないだろう


残り少ない時間をこの素敵な空間で
過ごせることに喜びを感じ、
来てくださる方々に
マスターのように感謝を伝えて
行けたらいいな‥‥


それから私は
変わらず平日はアルバイトに来て、
時々訪れる彼の姿を遠くから眺めた


私が飲めなかったブラックの珈琲を
美味しそうに口に含みホッとした時間を
ここで過ごしているのを見届ける


それだけでじゅうぶん幸せだった。





『おや、雨が降ってきたようですね。』



ある平日の夜、
突然降り始めた土砂降りの雨音が
店内のクラッシックジャズの
音色をかき消していく。


折り畳み傘を持ってきていて
良かった‥‥。帰る頃には
少しは止んでるといいけれど。



カランカラン


「いらっしゃいませ‥‥」


雨の匂いと共に扉から風が吹き込み
いつも通り笑顔で挨拶を向けると、
もう閉店間際の店内に彼が現れたことに
驚いてしまった



『おや、筒井さん、いらっしゃいませ。 突然の酷い雨に
 遭遇してしまいましたね。』


走って来たのかスーツが
かなり濡れてしまっていて、
慌てて裏から
ふかふかのタオルを持ってくると
ハンカチで肩口をふいていた彼に
そっと差し出した。


「どうぞ使ってください‥
 風邪をひいてしまいますから‥」


『‥‥ありがとう、助かります。』


恥ずかしくて目も見れない私は
震える手で差し出したタオルを
受け取ってもらえるとお辞儀をした。


『霞さんタオルを
 ありがとうございます。
 筒井さんもそこにいては
 寒いでしょう?こちらでも良ければ
 温かい一杯をいかがですか?』



外の看板をしまいに行く私の後ろで、
カウンターに向かい座る彼に心臓が
ドクドクとうるさく騒いでいる

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