玉響の花雫       あなたにもう一度恋を 壱
「マスター‥‥約3年間私の我儘で
 アルバイトとして雇ってくださり
 本当にありがとうございました。」


ついに来週から新しい会社で、
新社会人として入社式を迎える


卒業旅行やサークルのみんなとの時間も
勿論作りつつも、とにかくギリギリまで
ここで働きたかった。


窓際を眺めると誰もいない空間に
賭けには負けてしまったけれど、
ここで過ごした時間は本当に幸せだった


『霞さん』

「はい、マスター。」

『最後に一杯飲んでいきませんか?
 私からのお祝いです。』


「わぁ、ありがとうございます!」


いつもと変わらない温かい表情と、
優しい声色で
カウンターの椅子をひいてくれたので
お辞儀をしてそこへ座らせてもらった


次ここへ来る時は、
マスターのブラックコーヒーを
美味しく飲める
大人になっているだろうか‥


丁寧に豆を弾くこの音も、この香りも、
日常になりすぎていて、
急に寂しく感じると
涙が溢れそうになってくる


『霞さんアルバイトご苦労様でした。
 あなたの人柄を信じて雇ったことを
 僕は誇り思いますよ。
 ここは霞さんを
 いつでも待っています。
 本当にありがとうございました。』


私のために淹れてくれた珈琲に、
我慢していた涙が溢れ、テーブルに
いくつもの雫を落としていく


たかがアルバイト。
ただのお小遣い稼ぎ。


この珈琲店に来る前は、
高校生の時からアルバイトというのは
そういうものだと思って働いてきた


でもここでは、
話し方や接客の仕方一つで
笑顔になって
ホッとしていただけることを知り、
お金を稼ぐ以上の経験ができ
多くを学べたのだ


口数が多いマスターではないけれど、
悩んだ時、悲しい時、嬉しい時に
いつも素敵な言葉を送ってくださった



「‥‥‥とても苦いです。」


『では蜂蜜でも入れなさい。
 無理せずそのままでいいんですよ。』


泣きながら頷くと、マスターは
蜂蜜を用意してくれ私はその甘さを
しっかりと忘れないように一口ひとくち
大切に飲んだ



「はぁ‥‥‥終わっちゃった‥‥」


いつも裏口から帰る私は、
その足で表通りに向かうと、
喫茶店の前に立ち素敵な店構えを眺め
色々を思い出していた。


ここで筒井さんに出会えて、
珈琲をお席まで何度運んだのだろう


いつもお似合いのスーツ姿がもう
見れなくなるのはとても悲しいです。


それでも
やっぱりここに来て良かった‥‥



筒井さんどうかお元気で
いつまでも素敵でいらしてください‥‥


『こんばんは。』


えっ?

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