私がもう一人いる!
江本朋絵
私の名前は江本朋絵。都立回文中学校に通う二年生だ。同じクラスの成町マリナちゃんと違って私には恋人はいないし、趣味らしい趣味もないけど、小学生の時からの親友の夏奈と面白おかしく過ごす学校生活はそれなりに充実している。
だけど最近、私たちの関係に影響を与える、ちょっとした問題が発生していて……。
『最近なかなか予定が合わなかったし、明日は久しぶりに遊びに行かない?』
土曜日の夜。ベッドで横になってスマホで動画を見ていると、夏奈から私に遊びのお誘いのメッセージが届いた。楽しいお話だけど、私はすぐに返事をすることが出来なかった。
体の調子は問題ないし、明日は特に用事もない。私も久しぶりに夏奈と一緒に楽しく遊びたいという思いもある。来週からは梅雨入りらしいし、快適にお出かけするには今がチャンスかもしれない。鏡に気をつけていれば大丈夫かな?
だけど、あいつの恐怖に怯えていたら楽しめるものも楽しめないし、私の様子がおかしかったら、夏奈にも余計な気をつかわせてしまうかもしれない。「どうかしたの?」と聞かれた時、何て返したらいいか分からないし……。
『ごめん。明日は家族と用事が……ごめんね』
けっきょく私は嘘をついて、夏奈からお誘いを断ることにした。親友に申し訳なくて心が痛い。この感覚には決して慣れることはないと思うし、慣れたくもない。
最近私は、放課後の寄り道や週末の外出のお誘いを全て断っている。繁華街には多くのお店が並び、それだけの数、窓や入口にガラスが存在して、それが私の姿を鏡のように映し出す。今の私にとって、そんな繁華街はあまりにも危険すぎる。
今回は嘘の理由で誤魔化したけど、それだっていつまでも続けられないし、続けてはいけない。友情にひびが入る前に、私が抱えている問題をどうにかして解決しないといけない。
『用事ならしかたないよ。また今度遊ぼうね!』
夏奈のメッセージは優しい。だからこそ悔しい。
どうしてあんな奴に怯えて、友達と過ごす楽しい週末を犠牲にしないといけないのだろう。
……私は鏡が怖い。そこに映る自分の姿が怖い。違う。怖いのは自分の姿じゃない。
鏡の中に潜む、私の姿をしたあいつが怖い。私はあいつのことを、鏡の中の悪魔と呼んでいる。
※※※
鏡の中の悪魔が私の前に姿を現したのは、今からちょうど二週間前のことだ。
この日は疲れていたのか、お風呂上りに髪も乾かさずに寝落ちしちゃった。中途半端な時間に眠ったせいか、夜中の二時には目を覚ましてしまった。
髪がぐちゃぐちゃになっていないか心配で、洗面所の大きな鏡で自分の姿を見ながら髪に触る。最初は特に違和感はなかった。鏡の中では、乾かさないまま寝たせいで、長い髪がぐちゃぐちゃになってしまった私が目を細めていただけだ。髪を整えたいという気持ちもありつつもまだまだ眠気は強くて、私は部屋に戻ることにした。そうして鏡から目を離そうとした瞬間に異変は起きた。寝起きなのもあって、私は不機嫌そうな真顔だったはずなのに、鏡の中の私の口が笑ったような気がしたのだ。
視界の端に何となく見えただけだったし、寝起きで視界も思考もぼんやりとしている。ただの気のせいだとは思ったけど、再び鏡に意識を向けるには十分なきっかけだった。
「笑ってる……どうして?」
それは見間違えなんかじゃなかった。再び鏡を直視すると、鏡の中の私は満面の笑みを浮かべていた。もちろん、こっち側の私は笑ってなんかいない。鏡の中の私が違う表情をしていることに恐怖し、むしろ表情が凍りついているはずだ。驚きのあまり、感情と表情にギャップが生まれているのかもしれない。口元に指先で触れてみたけど、口は真っすぐに結ばれて、笑顔の形を作っていない。鏡に笑顔で映る私の姿はやっぱりおかしい。
鏡の前で首を左右に振ってみたり、右手でピースサインを作ってみたり、SNSで流れてきた流行りのダンスをワンフレーズだけ踊ってみたり。色々と試してみたけど、反転した鏡の中の私は、動きを正確に再現している。だけど相変わらず、表情だけが笑顔と真顔で一致しない。首振りはともかく、ピースサインとダンスについては鏡の中の笑顔の私の方が様になっていて、何だか複雑な気分だ。
それにしても、どうして鏡に映る私だけ表情が違うのだろう? 見慣れてくるにつれて、怖さが少しずつ好奇心へと変わってきた。理科は苦手でも得意でもないけど、少なくとも私はこんな現象を知らない。それとも私が知らないだけで、何らかの条件でこういう現象が起こることもあるのかな? 今のところは不気味なだけで、危ない目にはあっていないし。
何か分かるかもしれないと思って、私は鏡へと手を伸ばした。それとシンクロして、鏡の中の私も笑顔のままこちらへと手を伸ばしてくる。右手の指先が鏡へと触れ、二人の私の指先が触れあった瞬間。
「ねえ。私と場所を交換しようよ」
「えっ?」
私は何も言っていないのに、突然鏡の中から私の声がした。次の瞬間、鏡の中から実体のある手が伸びてきて、鏡に触れる私の右腕を掴んだ。
「きゃああああああああ!」
夜中なのも忘れて絶叫した。必死に腕を振り解こうとするけど、掴む力は思いのほか強くて、そう簡単には手を離してはくれない。
「そんなに驚かないでよ。傷つくな~」
鏡の中の私がむじゃきに笑う。よく見ると鏡の中の私の伸ばした手が、鏡という境界を越えてこちら側の世界へと侵入している。科学的とかそういうレベルの話じゃない。普通なら絶対にあり得ないことが起きている。
「ねえねえ。私と位置を代わってよ」
「離して! 離しなさいよ!」
鏡の中の私が、強い力で私の体を引き寄せる。早く離れないと! 必死に腕を引いて抵抗するけど、力はほぼ互角で、鏡の中の私から離れることが出来ない。
感覚的に分かる。早くあいつから離れないとやばい! 鏡の中の私の「場所を代わってよ」という言葉。鏡の中の私はたぶん、私を鏡の中へと引きずり込み、代わりに自分がこっちの世界に出てくるつもりだ。もしそうなったら、私はどうなってしまうのか? 怖くて想像もしたくない……。
「一回だけ。お試しだと思って。お願い」
「だ、だめに決まってるでしょう。いいから離してよ!」
必死な私とは対照的に、鏡の中の私はあざとい声と上目づかいでお願いしてくる。その一方で私を引き寄せようとする力は相変わらず強くて、まったく可愛くない。そのギャップも怖い。
こう着状態がどれだけ続いたのか分からない。ひょっとしたらまだ一分も立っていいないのかもしれないけど、緊張でもう何時間も経っているように感じられる。
「あっ!」
疲れが出たのか、私の力が一瞬ゆるむ。鏡の中の私はその瞬間を見逃さず、これまでよりも強く私の腕を引っ張った。バランスを崩された。駄目! このままじゃ鏡に引きずり込まれる……。
私は恐怖のあまり、目をつぶってしまった。
「さっきからうるさいわよ。何時だと思ってるの?」
突然、不機嫌そうな母の声が洗面台に響いた。そのことに驚いて目を開けた瞬間、バランスを崩していた私の体は、額が鏡とごっつんこした。
「痛い……ぶつかったの?」
額に痛みを感じる。ぶつかったということは、どうやら私は鏡に引きずり込まれずにすんだみたいだ。恐る恐る、目の前の鏡を見つめると、額が赤くなった私が、痛みと混乱とで目を細めていた。私が自覚している表情と、鏡の中の私の姿は一致していた。
「ちゃんと私が映ってる」
「当たり前のこと言って、寝ぼけてるの? とにかく、びっくりするから夜中に大声出さないでよね」
そう言って私に注意すると、母はあくびをしながら寝室へと戻っていった。
「寝ぼけてた? 違う。そんなはずない」
鏡の中の私に腕を掴まれた感覚と恐怖心は、今もはっきりと体に残っている。たまたま母が起きてきたから姿を消しただけで、あのまま二人きりだったら私を鏡の中へ引きずり込んでいたに違いない。
「鏡の中の悪魔」
鏡の中のあいつは私であって私じゃない。常識を超えた恐ろしい存在だ。もう一人の私なんてとても呼ぶ気になんてなれない。あれは悪魔。鏡の中の悪魔だ。
だけど最近、私たちの関係に影響を与える、ちょっとした問題が発生していて……。
『最近なかなか予定が合わなかったし、明日は久しぶりに遊びに行かない?』
土曜日の夜。ベッドで横になってスマホで動画を見ていると、夏奈から私に遊びのお誘いのメッセージが届いた。楽しいお話だけど、私はすぐに返事をすることが出来なかった。
体の調子は問題ないし、明日は特に用事もない。私も久しぶりに夏奈と一緒に楽しく遊びたいという思いもある。来週からは梅雨入りらしいし、快適にお出かけするには今がチャンスかもしれない。鏡に気をつけていれば大丈夫かな?
だけど、あいつの恐怖に怯えていたら楽しめるものも楽しめないし、私の様子がおかしかったら、夏奈にも余計な気をつかわせてしまうかもしれない。「どうかしたの?」と聞かれた時、何て返したらいいか分からないし……。
『ごめん。明日は家族と用事が……ごめんね』
けっきょく私は嘘をついて、夏奈からお誘いを断ることにした。親友に申し訳なくて心が痛い。この感覚には決して慣れることはないと思うし、慣れたくもない。
最近私は、放課後の寄り道や週末の外出のお誘いを全て断っている。繁華街には多くのお店が並び、それだけの数、窓や入口にガラスが存在して、それが私の姿を鏡のように映し出す。今の私にとって、そんな繁華街はあまりにも危険すぎる。
今回は嘘の理由で誤魔化したけど、それだっていつまでも続けられないし、続けてはいけない。友情にひびが入る前に、私が抱えている問題をどうにかして解決しないといけない。
『用事ならしかたないよ。また今度遊ぼうね!』
夏奈のメッセージは優しい。だからこそ悔しい。
どうしてあんな奴に怯えて、友達と過ごす楽しい週末を犠牲にしないといけないのだろう。
……私は鏡が怖い。そこに映る自分の姿が怖い。違う。怖いのは自分の姿じゃない。
鏡の中に潜む、私の姿をしたあいつが怖い。私はあいつのことを、鏡の中の悪魔と呼んでいる。
※※※
鏡の中の悪魔が私の前に姿を現したのは、今からちょうど二週間前のことだ。
この日は疲れていたのか、お風呂上りに髪も乾かさずに寝落ちしちゃった。中途半端な時間に眠ったせいか、夜中の二時には目を覚ましてしまった。
髪がぐちゃぐちゃになっていないか心配で、洗面所の大きな鏡で自分の姿を見ながら髪に触る。最初は特に違和感はなかった。鏡の中では、乾かさないまま寝たせいで、長い髪がぐちゃぐちゃになってしまった私が目を細めていただけだ。髪を整えたいという気持ちもありつつもまだまだ眠気は強くて、私は部屋に戻ることにした。そうして鏡から目を離そうとした瞬間に異変は起きた。寝起きなのもあって、私は不機嫌そうな真顔だったはずなのに、鏡の中の私の口が笑ったような気がしたのだ。
視界の端に何となく見えただけだったし、寝起きで視界も思考もぼんやりとしている。ただの気のせいだとは思ったけど、再び鏡に意識を向けるには十分なきっかけだった。
「笑ってる……どうして?」
それは見間違えなんかじゃなかった。再び鏡を直視すると、鏡の中の私は満面の笑みを浮かべていた。もちろん、こっち側の私は笑ってなんかいない。鏡の中の私が違う表情をしていることに恐怖し、むしろ表情が凍りついているはずだ。驚きのあまり、感情と表情にギャップが生まれているのかもしれない。口元に指先で触れてみたけど、口は真っすぐに結ばれて、笑顔の形を作っていない。鏡に笑顔で映る私の姿はやっぱりおかしい。
鏡の前で首を左右に振ってみたり、右手でピースサインを作ってみたり、SNSで流れてきた流行りのダンスをワンフレーズだけ踊ってみたり。色々と試してみたけど、反転した鏡の中の私は、動きを正確に再現している。だけど相変わらず、表情だけが笑顔と真顔で一致しない。首振りはともかく、ピースサインとダンスについては鏡の中の笑顔の私の方が様になっていて、何だか複雑な気分だ。
それにしても、どうして鏡に映る私だけ表情が違うのだろう? 見慣れてくるにつれて、怖さが少しずつ好奇心へと変わってきた。理科は苦手でも得意でもないけど、少なくとも私はこんな現象を知らない。それとも私が知らないだけで、何らかの条件でこういう現象が起こることもあるのかな? 今のところは不気味なだけで、危ない目にはあっていないし。
何か分かるかもしれないと思って、私は鏡へと手を伸ばした。それとシンクロして、鏡の中の私も笑顔のままこちらへと手を伸ばしてくる。右手の指先が鏡へと触れ、二人の私の指先が触れあった瞬間。
「ねえ。私と場所を交換しようよ」
「えっ?」
私は何も言っていないのに、突然鏡の中から私の声がした。次の瞬間、鏡の中から実体のある手が伸びてきて、鏡に触れる私の右腕を掴んだ。
「きゃああああああああ!」
夜中なのも忘れて絶叫した。必死に腕を振り解こうとするけど、掴む力は思いのほか強くて、そう簡単には手を離してはくれない。
「そんなに驚かないでよ。傷つくな~」
鏡の中の私がむじゃきに笑う。よく見ると鏡の中の私の伸ばした手が、鏡という境界を越えてこちら側の世界へと侵入している。科学的とかそういうレベルの話じゃない。普通なら絶対にあり得ないことが起きている。
「ねえねえ。私と位置を代わってよ」
「離して! 離しなさいよ!」
鏡の中の私が、強い力で私の体を引き寄せる。早く離れないと! 必死に腕を引いて抵抗するけど、力はほぼ互角で、鏡の中の私から離れることが出来ない。
感覚的に分かる。早くあいつから離れないとやばい! 鏡の中の私の「場所を代わってよ」という言葉。鏡の中の私はたぶん、私を鏡の中へと引きずり込み、代わりに自分がこっちの世界に出てくるつもりだ。もしそうなったら、私はどうなってしまうのか? 怖くて想像もしたくない……。
「一回だけ。お試しだと思って。お願い」
「だ、だめに決まってるでしょう。いいから離してよ!」
必死な私とは対照的に、鏡の中の私はあざとい声と上目づかいでお願いしてくる。その一方で私を引き寄せようとする力は相変わらず強くて、まったく可愛くない。そのギャップも怖い。
こう着状態がどれだけ続いたのか分からない。ひょっとしたらまだ一分も立っていいないのかもしれないけど、緊張でもう何時間も経っているように感じられる。
「あっ!」
疲れが出たのか、私の力が一瞬ゆるむ。鏡の中の私はその瞬間を見逃さず、これまでよりも強く私の腕を引っ張った。バランスを崩された。駄目! このままじゃ鏡に引きずり込まれる……。
私は恐怖のあまり、目をつぶってしまった。
「さっきからうるさいわよ。何時だと思ってるの?」
突然、不機嫌そうな母の声が洗面台に響いた。そのことに驚いて目を開けた瞬間、バランスを崩していた私の体は、額が鏡とごっつんこした。
「痛い……ぶつかったの?」
額に痛みを感じる。ぶつかったということは、どうやら私は鏡に引きずり込まれずにすんだみたいだ。恐る恐る、目の前の鏡を見つめると、額が赤くなった私が、痛みと混乱とで目を細めていた。私が自覚している表情と、鏡の中の私の姿は一致していた。
「ちゃんと私が映ってる」
「当たり前のこと言って、寝ぼけてるの? とにかく、びっくりするから夜中に大声出さないでよね」
そう言って私に注意すると、母はあくびをしながら寝室へと戻っていった。
「寝ぼけてた? 違う。そんなはずない」
鏡の中の私に腕を掴まれた感覚と恐怖心は、今もはっきりと体に残っている。たまたま母が起きてきたから姿を消しただけで、あのまま二人きりだったら私を鏡の中へ引きずり込んでいたに違いない。
「鏡の中の悪魔」
鏡の中のあいつは私であって私じゃない。常識を超えた恐ろしい存在だ。もう一人の私なんてとても呼ぶ気になんてなれない。あれは悪魔。鏡の中の悪魔だ。