私がもう一人いる!
鏡を意識しながら、なるべく近づかないようにする生活は大変だ。
洗面所と並んで、家庭で最も接する機会の多い鏡はお風呂場だ。だからといってまさか、何日もお風呂を我慢するわけにはいかないので、入浴の度にくふうを加えることが必要になった。
お風呂に入る時は湿度が高い状態をキープして、鏡をわざと曇らせて、自分の姿が映らないようにした。浴槽のお湯に姿が反射する危険性もあるから、基本的にはシャワーですませる。曇った鏡に、シャワーがかかって綺麗にならないように気をつけないといけないので、これはこれで大変だ。
どうしてもお風呂に浸かりたい時には、濃い色の入浴剤を入れるようにしている。これならお風呂は鏡の役目を果たさない。鏡の中の悪魔に対する緊張感は相変わらずなので、お風呂なのにあまりリラックス出来ないのが悲しいところだ。
スマホは操作しなくても画面が自動で消えないように設定を変えたけど、その分バッテリーの消費は早いし、くせで電源ボタンで画面を消してしまいそうになって、我ながら危なっかしい。スマホは日常生活になくてはならないものだし、これまで通り使用してはいるけど、例えば動画を見たりしていていも、シーンによっては画面が暗かったり、時には演出で真っ黒になってたりして、スマホの画面が私の姿を映し出し、鏡の中の悪魔がゆかいに笑っていたりする。あの瞬間はどんなホラーゲーム実況よりも恐ろしいと思う。結局お風呂の時と同じで、常に鏡の中の悪魔の影がちらつき、スマホを見る時間を心の底から楽しむことは出来ていない。
それでも、こういった努力と駆け引きのおかげで、教室でのスマホの一件以来、鏡の中の悪魔に直接手を触れられるような、危険な状況には遭遇していない、無事に三週間をやり過ごすことが出来た。
だけど、鏡の中の悪魔は今この瞬間だって私との入れ替わりを狙っているし、ふとした時にあの挑発的な笑顔を目にしてしまう。どうすれば鏡の中の悪魔がいなくなるのか分からない。ひょっとしたら私は一生、あいつに怯えながら生きていかないといけないのかな? 関東地方も梅雨入りし、今日も雨が降っている。天気と同じで私の心も雨模様だ。
※※※
「……いつになったら安心出来るのかな」
寝不足と天気のせいで頭が痛くて、私は学校の保健室でベッドを借りていた。だけど、目を閉じても思い浮かべるのは鏡の中の悪魔のことばかりでまるで眠れる気がしない。
「江本さん。少しよろしいですか?」
保健室の扉をノックする音。声の主は担任の樹林寺人力先生だ。保健室の先生が一時的に席を外しているので、代わりに様子を見にきてくれたのかな? 私が一言「どうぞ」と言うと、樹林寺先生が保健室へと入ってきた。
「具合は大丈夫ですか? もし辛いようなら、ご家族に連絡して早退してもいいんですよ」
「……少し休めば大丈夫だと思います。午後の授業に出るつもりです」
「そうですか。決して無理はしないように」
私を気づかう言葉を残して、樹林寺先生は一度保健室を出ようとしたけど、扉に手をかけたところで動きを止めて、こちらへと振り返った。
「江本さん。本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫ですって。心配し過ぎですよ」
「今日に限った話ではありません。ここ三週間ほど、江本さんの様子がおかしいことには気づいていましたよ」
失礼ながら、正直意外だった。樹林寺先生はたんたんと授業をこなしているだけの教師だと思っていたけど、意外と生徒のことも見てくれているんだ。
「私でよければ、お話ぐらいは聞きますよ」
「先生に話せるようなことは……」
本当は誰かに鏡の中の悪魔のことを話したくてしかたがなかったけど、先生だからと相談することは難しい。親友の夏奈にだって信じてもらえるか不安なのだ。大人に相談したところで、作り話だとバカにされておしまいだと思う。
「ひょっとしたら、何か常識では説明できない、不思議な出来事に巻き込まれたりはしていませんか?」
「ど、どうしてそのことを?」
「何となくですよ。最近も、別の生徒から不思議な出来事について相談を受けたこともありましたから。その反応だと図星のようですね」
「話してもいいのかな……」
「それで江本さんの心が少しでも軽くなるのなら。私に出来るのは話を聞くことぐらいですが」
まるで心を見透かされているようだったけど、同時に安心感のようなものを覚えたのも事実だった。先生にだったら話してもいいのかもしれない。そう思った瞬間には、自然と言葉が飛び出していた。
「実は三週間前から鏡の中に――」
私はある日、突然はじまった鏡の中の悪魔の遭遇と、これまでに体験した不思議な出来事について、樹林寺先生に全て打ち明けた。
「なるほど。鏡の悪魔とでも呼ぶべき存在が、江本さんと入れ替わろうとしていると」
話が行ったり来たりして、上手く説明できなかったかもしれないけど、樹林寺先生は嫌な顔一つせず、最後まで私の話に耳を傾けてくれた。これまで誰にも話せなかった、鏡の中の悪魔の存在。何かが解決したわけではないけど、少しだけ気持ちが軽くなったような気がする。
「理科の授業で鏡像を習ったことがあると思います。現代では鏡が姿を反射する原理は解明されていますが、本当に我々は鏡の全てを理解しているのでしょうか? 教師が言うセリフではないかもしれませんが、我々人類は鏡の全てを本当に理解してはいないのではいかと、時々思うことがあります。鏡は大昔から神秘的なものと考えられてきました。お化粧の道具よりも、祭事に使う祭具としての歴史の方が古いとされています。鏡の向こうにもう一つの世界があるという考え方も世界中に見られますし、鏡の向こう側の世界の住人の一人が気まぐれに、こちら側に顔を出そうとすることも、時には起こり得るのかもしれません。今の江本さんのようにね」
「……先生、私どうしたらいいんですか?」
樹林寺先生なら、この状況を解決してくれるような気がした。先生ならきっと解決方法を知っている。だけど……。
「残念ながら、私に出来ることは何もありません。言ったでしょう。私には話を聞くことぐらいしか出来ないと」
そう言うと、樹林寺先生は今度こそ保健室を出て行こうと、再び入口の扉に手をかけた。いや待ってよ! 確かに話を聞くことぐらいしか出来ないとは言っていたけど、言葉通りだとは思わないじゃん。話を聞いてくれたことは嬉しかったけど、その後は何だかかなりあっさりとしてるし。
「ま、待ってください。本当にこのまま行っちゃうんですか?」
「次の授業の準備がありますから」
「待って! このまま私はいつか鏡の悪魔と入れ替わっちゃうかもしれない。先生は私を見捨てるんですか?」
「見捨てるとは人聞きが悪い。言ったでしょう。私に出来ることは何もないんです」
「だからって……」
先生にそのつもりはないのかもしれないけど、私にとってはひどい裏切りにあったような気分だった。こんなことなら、相談なんかしないで自分一人で向き合っていた方がよっぽどマシだったかもしれない。
「……これからは口にすることは、ただの推測ですが」
そう前置きして、先生は一度足を止めた。
「鏡の中の悪魔とは、鏡の向こうにいるもう一人の江本さんです。だとすれば、鏡の中の悪魔に出来ることは、江本さんにも出来る可能性があるのではないでしょうか。それではお大事に」
そう言い残すと、先生は一度も振り返らず、今度こそ保健室を後にした。
「……寝よう」
頭が混乱していて、今は先生の言葉を冷静に考える余裕すらなかった。一度眠って頭をスッキリさせよう。私は頭から毛布を被った。
洗面所と並んで、家庭で最も接する機会の多い鏡はお風呂場だ。だからといってまさか、何日もお風呂を我慢するわけにはいかないので、入浴の度にくふうを加えることが必要になった。
お風呂に入る時は湿度が高い状態をキープして、鏡をわざと曇らせて、自分の姿が映らないようにした。浴槽のお湯に姿が反射する危険性もあるから、基本的にはシャワーですませる。曇った鏡に、シャワーがかかって綺麗にならないように気をつけないといけないので、これはこれで大変だ。
どうしてもお風呂に浸かりたい時には、濃い色の入浴剤を入れるようにしている。これならお風呂は鏡の役目を果たさない。鏡の中の悪魔に対する緊張感は相変わらずなので、お風呂なのにあまりリラックス出来ないのが悲しいところだ。
スマホは操作しなくても画面が自動で消えないように設定を変えたけど、その分バッテリーの消費は早いし、くせで電源ボタンで画面を消してしまいそうになって、我ながら危なっかしい。スマホは日常生活になくてはならないものだし、これまで通り使用してはいるけど、例えば動画を見たりしていていも、シーンによっては画面が暗かったり、時には演出で真っ黒になってたりして、スマホの画面が私の姿を映し出し、鏡の中の悪魔がゆかいに笑っていたりする。あの瞬間はどんなホラーゲーム実況よりも恐ろしいと思う。結局お風呂の時と同じで、常に鏡の中の悪魔の影がちらつき、スマホを見る時間を心の底から楽しむことは出来ていない。
それでも、こういった努力と駆け引きのおかげで、教室でのスマホの一件以来、鏡の中の悪魔に直接手を触れられるような、危険な状況には遭遇していない、無事に三週間をやり過ごすことが出来た。
だけど、鏡の中の悪魔は今この瞬間だって私との入れ替わりを狙っているし、ふとした時にあの挑発的な笑顔を目にしてしまう。どうすれば鏡の中の悪魔がいなくなるのか分からない。ひょっとしたら私は一生、あいつに怯えながら生きていかないといけないのかな? 関東地方も梅雨入りし、今日も雨が降っている。天気と同じで私の心も雨模様だ。
※※※
「……いつになったら安心出来るのかな」
寝不足と天気のせいで頭が痛くて、私は学校の保健室でベッドを借りていた。だけど、目を閉じても思い浮かべるのは鏡の中の悪魔のことばかりでまるで眠れる気がしない。
「江本さん。少しよろしいですか?」
保健室の扉をノックする音。声の主は担任の樹林寺人力先生だ。保健室の先生が一時的に席を外しているので、代わりに様子を見にきてくれたのかな? 私が一言「どうぞ」と言うと、樹林寺先生が保健室へと入ってきた。
「具合は大丈夫ですか? もし辛いようなら、ご家族に連絡して早退してもいいんですよ」
「……少し休めば大丈夫だと思います。午後の授業に出るつもりです」
「そうですか。決して無理はしないように」
私を気づかう言葉を残して、樹林寺先生は一度保健室を出ようとしたけど、扉に手をかけたところで動きを止めて、こちらへと振り返った。
「江本さん。本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫ですって。心配し過ぎですよ」
「今日に限った話ではありません。ここ三週間ほど、江本さんの様子がおかしいことには気づいていましたよ」
失礼ながら、正直意外だった。樹林寺先生はたんたんと授業をこなしているだけの教師だと思っていたけど、意外と生徒のことも見てくれているんだ。
「私でよければ、お話ぐらいは聞きますよ」
「先生に話せるようなことは……」
本当は誰かに鏡の中の悪魔のことを話したくてしかたがなかったけど、先生だからと相談することは難しい。親友の夏奈にだって信じてもらえるか不安なのだ。大人に相談したところで、作り話だとバカにされておしまいだと思う。
「ひょっとしたら、何か常識では説明できない、不思議な出来事に巻き込まれたりはしていませんか?」
「ど、どうしてそのことを?」
「何となくですよ。最近も、別の生徒から不思議な出来事について相談を受けたこともありましたから。その反応だと図星のようですね」
「話してもいいのかな……」
「それで江本さんの心が少しでも軽くなるのなら。私に出来るのは話を聞くことぐらいですが」
まるで心を見透かされているようだったけど、同時に安心感のようなものを覚えたのも事実だった。先生にだったら話してもいいのかもしれない。そう思った瞬間には、自然と言葉が飛び出していた。
「実は三週間前から鏡の中に――」
私はある日、突然はじまった鏡の中の悪魔の遭遇と、これまでに体験した不思議な出来事について、樹林寺先生に全て打ち明けた。
「なるほど。鏡の悪魔とでも呼ぶべき存在が、江本さんと入れ替わろうとしていると」
話が行ったり来たりして、上手く説明できなかったかもしれないけど、樹林寺先生は嫌な顔一つせず、最後まで私の話に耳を傾けてくれた。これまで誰にも話せなかった、鏡の中の悪魔の存在。何かが解決したわけではないけど、少しだけ気持ちが軽くなったような気がする。
「理科の授業で鏡像を習ったことがあると思います。現代では鏡が姿を反射する原理は解明されていますが、本当に我々は鏡の全てを理解しているのでしょうか? 教師が言うセリフではないかもしれませんが、我々人類は鏡の全てを本当に理解してはいないのではいかと、時々思うことがあります。鏡は大昔から神秘的なものと考えられてきました。お化粧の道具よりも、祭事に使う祭具としての歴史の方が古いとされています。鏡の向こうにもう一つの世界があるという考え方も世界中に見られますし、鏡の向こう側の世界の住人の一人が気まぐれに、こちら側に顔を出そうとすることも、時には起こり得るのかもしれません。今の江本さんのようにね」
「……先生、私どうしたらいいんですか?」
樹林寺先生なら、この状況を解決してくれるような気がした。先生ならきっと解決方法を知っている。だけど……。
「残念ながら、私に出来ることは何もありません。言ったでしょう。私には話を聞くことぐらいしか出来ないと」
そう言うと、樹林寺先生は今度こそ保健室を出て行こうと、再び入口の扉に手をかけた。いや待ってよ! 確かに話を聞くことぐらいしか出来ないとは言っていたけど、言葉通りだとは思わないじゃん。話を聞いてくれたことは嬉しかったけど、その後は何だかかなりあっさりとしてるし。
「ま、待ってください。本当にこのまま行っちゃうんですか?」
「次の授業の準備がありますから」
「待って! このまま私はいつか鏡の悪魔と入れ替わっちゃうかもしれない。先生は私を見捨てるんですか?」
「見捨てるとは人聞きが悪い。言ったでしょう。私に出来ることは何もないんです」
「だからって……」
先生にそのつもりはないのかもしれないけど、私にとってはひどい裏切りにあったような気分だった。こんなことなら、相談なんかしないで自分一人で向き合っていた方がよっぽどマシだったかもしれない。
「……これからは口にすることは、ただの推測ですが」
そう前置きして、先生は一度足を止めた。
「鏡の中の悪魔とは、鏡の向こうにいるもう一人の江本さんです。だとすれば、鏡の中の悪魔に出来ることは、江本さんにも出来る可能性があるのではないでしょうか。それではお大事に」
そう言い残すと、先生は一度も振り返らず、今度こそ保健室を後にした。
「……寝よう」
頭が混乱していて、今は先生の言葉を冷静に考える余裕すらなかった。一度眠って頭をスッキリさせよう。私は頭から毛布を被った。