私がもう一人いる!
 保健室で仮眠したら頭痛は落ち着いたので、午後からは授業にも出席して、今日も一日無事に乗り切ることが出来た。帰りのホームルームで樹林寺先生と目があったけど、保健室でのやり取りなんてなかったかのように、たんたんと仕事をこなすいつも樹林寺先生だった。声をかけてみようかとも思ったけど、同じことを言われるだけと思って結局は止めた。

「ごめん、朋絵。今日の放課後は委員会の集まりがあること忘れてた」

「委員会なら仕方ないよ。また明日ね」

 普段は一緒に下校している夏奈が委員会で残ることになったので、今日は一人で帰ることになった。今週から関東も梅雨入りして今日もずっと雨が降っていたけど、一時間ぐらい前に雨が晴れたので、帰り道ではぬれずにすみそうだ。気持ちは晴れないけど、天気が晴れたのはせめてもの救いだ。

「……鏡の中の悪魔に出来ることは、私にも出来るか」

 歩いて下校しながら、保健室での樹林寺先生の言葉を思い出す。あれは一体どういう意味だったのだろう? 私はどこにでもいる普通の女子中学生だ。そんな私を、鏡の中の悪魔のような、非現実的(ひげんじつてき)な存在と比べられても困るんだけどな……。

「やだ、冷たい」

 考え事をしながら歩道を歩いていると、大きな水たまりを踏んでしまい、雨水が(いきお)いよくはねた。防水シューズを履いていたから靴下にはしみなかったけど、はねた水がふくらはぎについて少し気持ちが悪い。思わず足元を確認すると。

「えっ?」

 大きな水たまりはそのまま、姿を反射する大きな鏡となっていた。そこに潜む鏡の中の悪魔が満面の笑みを浮かべて、こちらへと腕を伸ばしてくる。

「ようやく捕まえた」

「きゃああああああああああああ!」

 鏡の中の悪魔が両腕で私の右足を抱きかかえ、ものすごい力で水たまりの中へと引きずり込んだ。

 ※※※

「あれ……私、どうなったんだっけ?」

 目を覚ますと、見覚えのある真っ白な天井(てんじょう)が見えた。どうやら私は、自分の部屋のベッドで眠っていたらしい。

「さっきのは、夢?」

 下校途中に水たまりを踏んで、そこに潜んでいた鏡の中の悪魔が私を引きずりこんで、そのまま意識を失った……だけど、私はこの通り無事だ。よっぽど疲れていたのか、帰るなり、着替えもしないままベッドで眠ってしまったみたい。それにしてもひどい悪夢だった……。

とりあえず一度着替えよう。制服をハンガーにかけて、部屋着のティーシャツとショートパンツに着替えようとすると。

「……何かおかしいような」

 ティーシャツを手に取った瞬間、強い違和感を覚えた。左右対称(さゆうたいしょう)(ねこ)の顔のイラストと「CAT」の文字がプリントされているはずのティーシャツ。猫の顔と「A」、「T」の文字は普段通りなのに、「C」の文字だけが普段と逆の方向を向いているのだ。まるで視力検査で左側を示す記号のように……。

「待って、これって……」

 嫌な予感がして、部屋中を見て回った。左右対称なものは見分けがつかなかったけど、壁にかけてあるカレンダーの日付、本棚8ほんだな)の漫画や小説、窓から見える外の道路標識(どうろひょうしき)速度制限(せいげんそくど)を示す道路の数字などが、まるで鏡に映したかのように左右が逆になっている。これではあまるで、鏡の中にいるたみたいだ……。

「嘘だ嘘だ嘘だ」

 悪夢なら覚めて! 私は(あわ)てて洗面所に駆け込んだ。

「おはよう。ぐっすりだったね」

 鏡の向こう側で、鏡の中の悪魔が笑っている。着ている部屋着のティーシャツのプリントの文字は、左右逆転していない、正しい「CAT」の文字だった。

「顔色悪いよ。その様子だと気づいたみたいだね。今あなたがいるそっちは鏡の中の世界で、私がいるこっちが、今まであなたがいた世界。水たまりを踏んでくれてありがとう。おかげで入れ替わることが出来たよ」

 やっぱり、あれは夢なんかじゃなかった。私はあの時、鏡の中の世界に引きずり込まれていたんだ。だけどそんなのって……。

「そんなの(みと)められるはずない! 私を元の世界に帰して!」

「別にいいじゃない。あなたはずっとこっちの世界にいたんだから、今度は私にこっちの世界で遊ばせてよ。別に江本朋絵という存在が消えるわけじゃないし、何も問題ないでしょう?」

「問題大ありだよ! あなたは私じゃない」

「ほくろの位置や髪の分け目が左右逆転しているだけで、私もあなたも江本朋絵だよ。これからも世界は何の異常もなく回っていく」

「ふざけないでよ! 鏡の中の悪魔め」

「それって自虐(じぎゃく)? 今、鏡の中にいるのはあなたの方でしょう?」

 確かにその通りだけど、鏡の中の悪魔にそう言われるのはすごくむかつく。誰のせいでこうなったと思ってるのよ!

「いいから私を元に戻して! あなたになら出来るでしょう」

「嫌よ」

 鏡の中の悪魔が舌を出して私を挑発してきた。本当にムカつくやつ! 無理ではなく、嫌ということは、私を元に戻すことは可能なのだろうけど、この様子だと願いを聞いてくれる様子はない。

 私は一体どうすれば……。

『鏡の中の悪魔とは、鏡の向こうにいるもう一人の江本さんです。だとすれば、鏡の中の悪魔に出来ることは、江本さんにも出来る可能性があるのではないでしょうか』

 ふと思い出したのは、保健室で樹林寺先生から言われたあの言葉だった。もしかして、そういうことなの?

「このままじゃ終われない!」

 このまま鏡の中の悪魔に好き勝手させておくわけにはいかない。私を覚悟(かくご)を決めて洗面所に身を乗り出し、鏡に、その向こう側にいる鏡の悪魔に向けて腕を伸ばした。

「捕まえた!」

「えっ?」

 私の腕は鏡の境界を越えて、鏡の中の悪魔の腕をがっしりと掴んだ。鏡の中の悪魔も、私にも同じことが出来ることを知らなかったらしい。腕を掴まれた瞬間、ビックリして目をカッと開いた。

「私と入れ替わってもらうよ」

 私は力いっぱい鏡の中の悪魔のこちらへと引きずり込み、入れ替わる形で鏡の向こうへと身を乗り出した。

「良かった。戻ってこれたんだ」

 一瞬だけ意識が飛び、目を開けると洗面所の前でしりもちをついていた。慌ててティーシャツの(すそ)を持ち上げて、上からプリントを確認する。「CAT」の文字は普段通り、ここは私が元いた世界であると確認出来た。

「あなたにも同じことが出来るなんて聞いてないよ」

 再び洗面所の鏡と向かい合うと、鏡の中の悪魔が悔しそうにほほをふくらませていた。

「残念でした。これでもう――」

(すき)あり!」

「きゃっ!」

 勝った気になっていたら、鏡の中の悪魔が勢いよく鏡から体を乗り出してきて、再び私を鏡の中へと引きずり込み、場所が入れ替わった。

「やってくれたわね」

 鏡の中の世界に逆戻りしてしまったけど、恐怖に(ふる)えてたこれまでとは違う。今の私は鏡の向こうに手を伸ばせると知っている。そっちがその気ならとことん戦ってやる。私は再び、鏡の向こうの、鏡の中の悪魔の体を掴んだ。

 ※※※

「流石にしんどい。一時休戦にしない?」

「同感。汗でびっしょり」

 まさか鏡の中の悪魔と意見が一致(いっち)することになるとは思ってもいなかった。お互いにどれだけの時間、掴み合い、入れ替わるのを繰り返していただろう。お互いに息が切れて、ティーシャツも汗で湿(しめ)っている。プリントの「CAT」の位置が正しいので、今私がいるのは私が生まれ育った世界の方のようだ。入れ替わり過ぎて、ティーシャツを確認するまで自分がどっちの世界にいるか判断(はんだん)できなかった。

「お互いに同じことが出来るなら、何度入れ替わっても結果は同じか。無駄(むだ)に体力を消費するだけ」

「ようやく(あきら)める気になってくれた?」

 私は自分の居場所を守るためなら何度でも戦うつもりだったけど、最初に折れたのは鏡の中の悪魔の方だった。

「ううん。諦めたわけじゃない。私のそっちの世界への興味(きょうみ)()きないもの。だけど、こうしてお互いに必死になっているを見ていたら、少しだけ気持ちが変わった。もう少し平和的に解決しない?」

「……話ぐらいなら聞く」

「これからは力づくであなたを入れ替わるような真似はしない。その代わり、時々でいいから私にもそっちの世界を体験させてくれない? タイミングや交代している時間はもちろん相談して決めるから」

「それ、私に何かメリットある?」

「あなたが言うところの、鏡の悪魔の恐怖に怯え続けるよりは、鏡の中の悪魔と和解(わかい)して上手く付き合っていったほうが、気持ち的には楽じゃない? 自分で言うのもなんだけど、私を消す方法なんて存在しないと思うし、いて当たり前の存在だと割り切るしかないと思うよ」

「……私からしたらいい迷惑(めいわく)だけど、確かにずっと警戒(けいかい)しているよりはマシか。そんなことしてたら私の心が壊れちゃう」

交渉成立(こうしょうせいりつ)ってことでいい?」

「とりあえずはね。何か変な動きをしたら、力づくで交代するから」

「分かってるよ。それじゃあ早速、これからについて相談しない?」

「相談もいいけど先にお風呂にしない? こっちとそっちを行ったり来たりで汗びしょびしょ」

「確かにそれがいいね。それならお風呂の鏡で向かい合いながら相談しようよ」

「分かったわよ」

 正直、まだ納得(なっとく)いかないところもあるけど、鏡の中の悪魔と歩み寄ることになって、少しだけ安心出来た気がする。交渉次第ではあるけど、これからは普通に鏡やスマホを使うことが出来そうだ。

 鏡の中の悪魔は「お互いに必死になっているのを見ていたら、少しだけ気持ちが変わった」と言っていたけど、それは私も同じだった。必死な姿を見て、鏡の中の悪魔は立派なもう一人の私なんだなという実感が湧いた。

「これからよろしく、もう一人の私」

 少し恥ずかしかったけど、私はお風呂場の鏡の向こうにそう呼びかけた。

「鏡の中の悪魔って呼ばないの?」

「あなたは私なんでしょう。それを悪魔呼ばわりしたら何だか自虐みたいだなって」

「ようやく気づいたか。こちらこそよろしく、もう一人の私」

 鏡ごしに、私たちは手を重ねた。

 ※※※

「朋絵、最近何だか元気になったね」

「まあね。悩み事が解決したというか、いったん落ち着いたというか」

 もう一人の私と和解したことで、私は学校でもこれまで通り笑えるようになった。久しぶりに週末は夏奈と繁華街に遊びに行く約束もしたし、毎日が充実している。少しだけ今までとは変わったこともあるけれども。

「ねえねえ、そろそろ」

「分かってるって」

「朋絵、何か言った?」

 私ともう一人の私のやり取りを夏奈が拾ったようで、首をかしげていた。

「ううん。何でもない。ちょっとトイレに行ってくるね」

 適当(てきとう)な理由で席を立つ。入れ替わりを誰かに見られるのはまずい。鏡かガラスがあって、人気のない場所があるといいけれど。

「夏奈。トイレから戻った私が変なこと言っても、あまり気にしないでね」

 そう言って、私は教室を飛び出した。次の授業はもう一人の私が担当する時間だ。
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