猫と兎
17 懺悔の始まり
正月休みが明け、のんびりと仕事をしながら、僕は陽奈のことばかり考えていた。再会してから一週間、特に連絡はない。
その日は、会社のお偉いさん三人と僕というメンバーで、面談を兼ねた飲み会があった。この四月で、入社して四年目になるのだが、僕は確実に転勤するようなことを言われた。業種によっては、毎年引っ越しさせられるところもあるし、こうして示唆してくれるだけうちの会社は優良なのだろう。
二軒連れまわされたお陰で、ずいぶん遅くなってしまったが、明日は休みということもあり、また波流のいるバーへ足を向ける。
「いらっしゃい。珍しいね、こんな時間に」
マスターは、いつも通りの笑顔で僕を迎える。前回、僕が女の子を連れて帰ったことは、ネタにしない方針らしい。波流は奥の方で、他の客の相手をしている。僕は入り口に近い席に座り、ビールを注文する。
「立野くん、飲み会帰りかい?」
「ええ。お偉いさんたちにビール注ぎまくってました」
「勤め人は大変だねえ。はい、お疲れさん」
「いただきます」
僕はマスターに、転勤のことを話す。もしかしたら、この店にもあまり行けなくなるかもしれない、と。隣に座っていた初老の男性が、僕の話に入ってきて、それからしばらく仕事の話になる。彼は三十代で脱サラして、飲食店を始めた人だった。
こういうことがあるから、バーは面白い。
「じゃ、俺帰るわ。お兄さん、頑張ってな」
「はい。ありがとうございます」
客は僕一人になる。波流の方に目を向けると、溜まった洗い物に苦戦しているようだ。
「波流、あとは俺がやっとく。もうあがっていいぞ」
「え、いいんですか?」
「立野くんと喋りたそうだからな」
マスターはふんぞり返ってニヤリと笑う。波流は少し口をとがらせる。心境を見透かされたのが悔しいのだろう。
「じゃ、お言葉に甘えさせてもらいます。立野くん、お腹すいてる?」
「多少なら食べれるよ」
「焼き鳥が美味しい店があるんだけどさ、そこ行かない?」
波流と店の外で飲むのは、初めてだった。カッチリとしたジャケットを羽織った彼女は、こう言っちゃ悪いがホストのようだな、と思う。すれ違う人からは、男の二人連れのように見られていることだろう。
連れて行かれたのは、ワインと炭火焼きの店で、外観は至って普通のバーである。僕たちは安めのボトルを注文し、朝まで飲み明かすことにした。
「で、陽奈ちゃんとは、どうなったわけ?」
「波流はいつも直球だな……」
「そういう性格なもので」
僕は長い時間をかけて、一週間前の出来事を話す。あの夜、陽奈とは何もなかったこと。駅まで送る途中、手を掴んで、拒絶されたこと。そもそも、彼女とは付き合っていたときから、最後までちゃんとできたことが無かったということ。
そこまで話したとき、波流はワインボトルを追加する。飲んでいるのはほとんど、僕だ。
「ていうか、なんで僕、女の子に対してこんなことまで喋ってるんだろ……」
「あー、酒のせい酒のせい。それに、わたしは半分男みたいなもんだし、気にすんな」
「お前さあ、自分のことそういう風に言うの、やめろよー」
駄目だ、口が悪くなってきている。僕は自分が酔っていることを自覚する。今日は何杯飲んでいる?上司に付き合って、二軒行って、さっきは三杯くらい、今は……もうわからない。
「はい、今日はもう酒に飲まれちゃえ!」
「おい待て!」
波流がグラスになみなみとワインを注ぐ。観念した僕は、甘んじてそれを受け入れる。
「立野くんは、陽奈ちゃんのことまだ好きなわけ?」
「どうなんだろうな。そりゃ、最初の彼女だし?久しぶりに会ったら、すっげー可愛くなってたし?僕だって男だし?正直、襲いたかったさ」
でも僕は、そうしなかった。陽奈をこれ以上、傷つけたくなかったから。ゲスい男だと思われたくなかったから。
「襲った方が、良かったと思うよ」
波流がぽつりと、そう言う。冗談でないことは、酔っていてもわかる。僕は言葉に詰まる。
「立野くんは、真面目すぎるんだよ。陽奈ちゃんを傷つけたくなかったんでしょ?でも多分、逆だった」
「……どういうことだよ?」
「あの子は、自分に性的な魅力がないと思い込んでる節がある。婚約者を寝取られたから、一時的にそうなっているんだって思ったんだけど、今回の話を聞いて分かったよ。立野くんに手を出されなかったことが、トラウマになってる」
「いや、それは、だってさ」
「ん、わかってる。立野くんだけを責めるつもりはないよ」
しばらくの間、沈黙が訪れる。波流は居心地悪そうに、辺りを見回している。時刻は深夜の二時になっていて、始発を待つ人たちが思い思いの過ごし方をしている。
「あの、さ。あくまでも、さっきのは私の意見だから。陽奈ちゃんが本当はどう思ってるかは、知らないよ」
「いや……それで合ってるよ。僕は二度も、陽奈を傷つけたんだと思う」
そう、僕はまた、間違えたんだ。
「波流は僕を、最低な男だと思う?」
「ううん。もっと酷い色恋沙汰なんて、いくらでも耳にしてるからね。むしろ立野くんは、真面目すぎる方。絶対に一人の女の子を愛するタイプでしょ?陽奈ちゃんと付き合ってたときだって、一途で偉いなーって思ってたよ」
「そんなこと、ない」
僕は奥歯を噛む。
「僕は、一途じゃない。あのとき、僕は……夕美に、手を出したから」
その日は、会社のお偉いさん三人と僕というメンバーで、面談を兼ねた飲み会があった。この四月で、入社して四年目になるのだが、僕は確実に転勤するようなことを言われた。業種によっては、毎年引っ越しさせられるところもあるし、こうして示唆してくれるだけうちの会社は優良なのだろう。
二軒連れまわされたお陰で、ずいぶん遅くなってしまったが、明日は休みということもあり、また波流のいるバーへ足を向ける。
「いらっしゃい。珍しいね、こんな時間に」
マスターは、いつも通りの笑顔で僕を迎える。前回、僕が女の子を連れて帰ったことは、ネタにしない方針らしい。波流は奥の方で、他の客の相手をしている。僕は入り口に近い席に座り、ビールを注文する。
「立野くん、飲み会帰りかい?」
「ええ。お偉いさんたちにビール注ぎまくってました」
「勤め人は大変だねえ。はい、お疲れさん」
「いただきます」
僕はマスターに、転勤のことを話す。もしかしたら、この店にもあまり行けなくなるかもしれない、と。隣に座っていた初老の男性が、僕の話に入ってきて、それからしばらく仕事の話になる。彼は三十代で脱サラして、飲食店を始めた人だった。
こういうことがあるから、バーは面白い。
「じゃ、俺帰るわ。お兄さん、頑張ってな」
「はい。ありがとうございます」
客は僕一人になる。波流の方に目を向けると、溜まった洗い物に苦戦しているようだ。
「波流、あとは俺がやっとく。もうあがっていいぞ」
「え、いいんですか?」
「立野くんと喋りたそうだからな」
マスターはふんぞり返ってニヤリと笑う。波流は少し口をとがらせる。心境を見透かされたのが悔しいのだろう。
「じゃ、お言葉に甘えさせてもらいます。立野くん、お腹すいてる?」
「多少なら食べれるよ」
「焼き鳥が美味しい店があるんだけどさ、そこ行かない?」
波流と店の外で飲むのは、初めてだった。カッチリとしたジャケットを羽織った彼女は、こう言っちゃ悪いがホストのようだな、と思う。すれ違う人からは、男の二人連れのように見られていることだろう。
連れて行かれたのは、ワインと炭火焼きの店で、外観は至って普通のバーである。僕たちは安めのボトルを注文し、朝まで飲み明かすことにした。
「で、陽奈ちゃんとは、どうなったわけ?」
「波流はいつも直球だな……」
「そういう性格なもので」
僕は長い時間をかけて、一週間前の出来事を話す。あの夜、陽奈とは何もなかったこと。駅まで送る途中、手を掴んで、拒絶されたこと。そもそも、彼女とは付き合っていたときから、最後までちゃんとできたことが無かったということ。
そこまで話したとき、波流はワインボトルを追加する。飲んでいるのはほとんど、僕だ。
「ていうか、なんで僕、女の子に対してこんなことまで喋ってるんだろ……」
「あー、酒のせい酒のせい。それに、わたしは半分男みたいなもんだし、気にすんな」
「お前さあ、自分のことそういう風に言うの、やめろよー」
駄目だ、口が悪くなってきている。僕は自分が酔っていることを自覚する。今日は何杯飲んでいる?上司に付き合って、二軒行って、さっきは三杯くらい、今は……もうわからない。
「はい、今日はもう酒に飲まれちゃえ!」
「おい待て!」
波流がグラスになみなみとワインを注ぐ。観念した僕は、甘んじてそれを受け入れる。
「立野くんは、陽奈ちゃんのことまだ好きなわけ?」
「どうなんだろうな。そりゃ、最初の彼女だし?久しぶりに会ったら、すっげー可愛くなってたし?僕だって男だし?正直、襲いたかったさ」
でも僕は、そうしなかった。陽奈をこれ以上、傷つけたくなかったから。ゲスい男だと思われたくなかったから。
「襲った方が、良かったと思うよ」
波流がぽつりと、そう言う。冗談でないことは、酔っていてもわかる。僕は言葉に詰まる。
「立野くんは、真面目すぎるんだよ。陽奈ちゃんを傷つけたくなかったんでしょ?でも多分、逆だった」
「……どういうことだよ?」
「あの子は、自分に性的な魅力がないと思い込んでる節がある。婚約者を寝取られたから、一時的にそうなっているんだって思ったんだけど、今回の話を聞いて分かったよ。立野くんに手を出されなかったことが、トラウマになってる」
「いや、それは、だってさ」
「ん、わかってる。立野くんだけを責めるつもりはないよ」
しばらくの間、沈黙が訪れる。波流は居心地悪そうに、辺りを見回している。時刻は深夜の二時になっていて、始発を待つ人たちが思い思いの過ごし方をしている。
「あの、さ。あくまでも、さっきのは私の意見だから。陽奈ちゃんが本当はどう思ってるかは、知らないよ」
「いや……それで合ってるよ。僕は二度も、陽奈を傷つけたんだと思う」
そう、僕はまた、間違えたんだ。
「波流は僕を、最低な男だと思う?」
「ううん。もっと酷い色恋沙汰なんて、いくらでも耳にしてるからね。むしろ立野くんは、真面目すぎる方。絶対に一人の女の子を愛するタイプでしょ?陽奈ちゃんと付き合ってたときだって、一途で偉いなーって思ってたよ」
「そんなこと、ない」
僕は奥歯を噛む。
「僕は、一途じゃない。あのとき、僕は……夕美に、手を出したから」