猫と兎
19 別れ
進路を別にすることを、陽奈に告げることができたのは、卒業式の一週間前だった。
高校の近くの、いつものコーヒー・チェーン。陽奈は、僕がそう言うのを分かっていたのだろう。顔を合わせた瞬間は、久しぶり、と言って明るく笑ったが、席に着いた頃には、様子が一変していた。ホットのカフェラテを一口だけ飲み、きゅっと指を組み合わせ、ただじっと黙り込んでいた。飲み物が冷め切ってしまう前に、僕は彼女に残酷な宣言をしなければならなかった。
「緑南に、行くことにしたよ」
「そっか、そうだよね」
陽奈は僕と視線を合わせず、トレイに敷かれた紙の広告を見つめているようだった。
「親も、せっかく受かったんだから緑南にするべきだって。担任にも、反対された」
「栄北と比べて、就職率もいいもんね……当然だよ」
それから陽奈は、堰を切ったように語りだした。別々の道を歩んだ方が、お互いのためになるということ。彼女に合わせて栄北に行ったとしたら、僕が絶対に後悔すること。
情けない話だと思う。僕はそのとき、陽奈に理解してもらえた、と思ったのだ。彼女と交わした甘い約束、そのいくつかは果たされないけれども、まだ、大丈夫だと。完全に、自分の都合のいい方に、思い込んでいた。
「ごめんな、陽奈。一緒に大学生活を送ろうって、約束したのに」
「謝らないで。志貴くんの人生だもん。わたしが、どうこうできる話じゃない」
そう言って陽奈は、カフェラテを一気に飲み干した。
「志貴くんが、そう決断できたのは、夕美のお陰だよね、きっと」
夕美の名前が出てきたことで、僕は緩んでいた頬を引き締めた。
「夕美と勉強するようになってから、志貴くん、変わったもん。もちろん、良い方にだよ?成績が伸びて、緑南に合格したんだから」
「そう、だな……」
陽奈は、知っていたのだろうか?
僕があの日、夕美にキスをされたこと。抱きしめたこと。
そして、罪を犯したこと。
「わたしじゃ、ダメだった。わたしが応援しているだけじゃ、志貴くんは合格しなかった。空き教室で勉強してみたら、って言って、本当に、良かったよ……」
良かった、だなんて、陽奈は思っていなかった。その声は震え、頬に一筋の涙が零れ、そのまま、机に落ちていった。
「夕美のことが、羨ましかった。わたしじゃできないことを、夕美はできたから」
昼過ぎのカフェ・タイムにも関わらず、左右の席には他の客がいなかった。曲名も知らない、こういう場にはよく流れているジャズ音楽が、耳障りなフレーズを奏でていた。
「でもさ、陽奈。大学が別々っていっても、会えなくなるわけじゃないよ?今までみたいに、放課後会うことだってできるし!」
自分でも、声が上ずっているのが分かった。虚しい言い訳をしていることを、僕は自覚していた。夕美のことから、話題を逸らしたかったのだ。
「無理だよ……わたし、無理だよ……。この一年間でもう、限界。志貴くんが忙しいのわかってたから、何も言えなかった。寂しいって、言えなかった。それで、志貴くんの重荷になるのが、嫌だった」
弱々しくて、掻き消えそうになる程の声。それなのに、僕の鼓動は早まり、その場にに縫い付けられたかのように、指一本動かすことができなかった。
陽奈の本心は、容易に想像できていた。分かっていたはずだった。けれど、ついに言葉にされたことで、僕は彼女から逃げ出したくなっていた。
そして、ようやく僕は気づいた。僕との約束が、陽奈を支えていたということ。僕との未来が、彼女の生きる希望になっていたということ。寂しがり屋で弱気な彼女が、独りの時間をどう過ごしていたのか、僕は、見ようともしていなかった。
サインはあった。合唱部のコンクールが終わったとき。髪型の変化に気付かなくて、ケンカしたとき。その時なら、まだ修復できた。
最後のチャンスは、クリスマス・イブ。陽奈が僕を誘い、二人きりの夜を過ごしたとき。あの失敗はむしろ、僕たちの仲を深めるためのきっかけとなり得るはずだった。男としての自信を折られた僕を、彼女はそのまま包み込んでくれたじゃないか?
「陽奈……」
「鬱陶しい女で、ごめん」
違う。違うんだ。僕は陽奈に、謝ろうとした。悪いのは僕だと。全て、僕のせいなのだと。
けれど、この期に及んで僕は、夕美とのことがバレたのかどうかを気にしていた。あの夕美が、自分から陽奈に明かすことはないはずだ。でも、何かのきっかけでそれが陽奈に伝わっていたら?完全にあり得ない、とは言えなかった。
そう思うと、僕は一気に怖くなった。陽奈が全てを知っていて、僕を責めているとするのならば。
陽奈は俯き、小さく震えていた。雨に震えるウサギのように。
「僕たち、さ」
別れた方がいいのかな?
「その……」
疑問文にしてどうするんだよ。陽奈に答えを委ねるのか?散々彼女を痛めつけておいて、それはないだろう。
「やっぱり、もう」
言え。ちゃんと、言え。
「別れよう」
ほんの僅かな静寂の後、陽奈が応えた。
「うん。分かった」
高校の近くの、いつものコーヒー・チェーン。陽奈は、僕がそう言うのを分かっていたのだろう。顔を合わせた瞬間は、久しぶり、と言って明るく笑ったが、席に着いた頃には、様子が一変していた。ホットのカフェラテを一口だけ飲み、きゅっと指を組み合わせ、ただじっと黙り込んでいた。飲み物が冷め切ってしまう前に、僕は彼女に残酷な宣言をしなければならなかった。
「緑南に、行くことにしたよ」
「そっか、そうだよね」
陽奈は僕と視線を合わせず、トレイに敷かれた紙の広告を見つめているようだった。
「親も、せっかく受かったんだから緑南にするべきだって。担任にも、反対された」
「栄北と比べて、就職率もいいもんね……当然だよ」
それから陽奈は、堰を切ったように語りだした。別々の道を歩んだ方が、お互いのためになるということ。彼女に合わせて栄北に行ったとしたら、僕が絶対に後悔すること。
情けない話だと思う。僕はそのとき、陽奈に理解してもらえた、と思ったのだ。彼女と交わした甘い約束、そのいくつかは果たされないけれども、まだ、大丈夫だと。完全に、自分の都合のいい方に、思い込んでいた。
「ごめんな、陽奈。一緒に大学生活を送ろうって、約束したのに」
「謝らないで。志貴くんの人生だもん。わたしが、どうこうできる話じゃない」
そう言って陽奈は、カフェラテを一気に飲み干した。
「志貴くんが、そう決断できたのは、夕美のお陰だよね、きっと」
夕美の名前が出てきたことで、僕は緩んでいた頬を引き締めた。
「夕美と勉強するようになってから、志貴くん、変わったもん。もちろん、良い方にだよ?成績が伸びて、緑南に合格したんだから」
「そう、だな……」
陽奈は、知っていたのだろうか?
僕があの日、夕美にキスをされたこと。抱きしめたこと。
そして、罪を犯したこと。
「わたしじゃ、ダメだった。わたしが応援しているだけじゃ、志貴くんは合格しなかった。空き教室で勉強してみたら、って言って、本当に、良かったよ……」
良かった、だなんて、陽奈は思っていなかった。その声は震え、頬に一筋の涙が零れ、そのまま、机に落ちていった。
「夕美のことが、羨ましかった。わたしじゃできないことを、夕美はできたから」
昼過ぎのカフェ・タイムにも関わらず、左右の席には他の客がいなかった。曲名も知らない、こういう場にはよく流れているジャズ音楽が、耳障りなフレーズを奏でていた。
「でもさ、陽奈。大学が別々っていっても、会えなくなるわけじゃないよ?今までみたいに、放課後会うことだってできるし!」
自分でも、声が上ずっているのが分かった。虚しい言い訳をしていることを、僕は自覚していた。夕美のことから、話題を逸らしたかったのだ。
「無理だよ……わたし、無理だよ……。この一年間でもう、限界。志貴くんが忙しいのわかってたから、何も言えなかった。寂しいって、言えなかった。それで、志貴くんの重荷になるのが、嫌だった」
弱々しくて、掻き消えそうになる程の声。それなのに、僕の鼓動は早まり、その場にに縫い付けられたかのように、指一本動かすことができなかった。
陽奈の本心は、容易に想像できていた。分かっていたはずだった。けれど、ついに言葉にされたことで、僕は彼女から逃げ出したくなっていた。
そして、ようやく僕は気づいた。僕との約束が、陽奈を支えていたということ。僕との未来が、彼女の生きる希望になっていたということ。寂しがり屋で弱気な彼女が、独りの時間をどう過ごしていたのか、僕は、見ようともしていなかった。
サインはあった。合唱部のコンクールが終わったとき。髪型の変化に気付かなくて、ケンカしたとき。その時なら、まだ修復できた。
最後のチャンスは、クリスマス・イブ。陽奈が僕を誘い、二人きりの夜を過ごしたとき。あの失敗はむしろ、僕たちの仲を深めるためのきっかけとなり得るはずだった。男としての自信を折られた僕を、彼女はそのまま包み込んでくれたじゃないか?
「陽奈……」
「鬱陶しい女で、ごめん」
違う。違うんだ。僕は陽奈に、謝ろうとした。悪いのは僕だと。全て、僕のせいなのだと。
けれど、この期に及んで僕は、夕美とのことがバレたのかどうかを気にしていた。あの夕美が、自分から陽奈に明かすことはないはずだ。でも、何かのきっかけでそれが陽奈に伝わっていたら?完全にあり得ない、とは言えなかった。
そう思うと、僕は一気に怖くなった。陽奈が全てを知っていて、僕を責めているとするのならば。
陽奈は俯き、小さく震えていた。雨に震えるウサギのように。
「僕たち、さ」
別れた方がいいのかな?
「その……」
疑問文にしてどうするんだよ。陽奈に答えを委ねるのか?散々彼女を痛めつけておいて、それはないだろう。
「やっぱり、もう」
言え。ちゃんと、言え。
「別れよう」
ほんの僅かな静寂の後、陽奈が応えた。
「うん。分かった」