猫と兎
02 想起
僕が波流のことをすぐに思い出せなかったのは、高校時代のことをなるべく忘れるようにして生きていたせいかもしれない。
二年生のとき、恋人ができた。
彼女の名前は、宇崎陽奈。
その名の通り、ウサギみたいに愛らしくて暖かい、僕には勿体ないほど素敵な恋人だった。
高校を卒業してから、大学に入るまでの間に、陽奈のことは忘れようと決意した。何人か他の女の子とも付き合い、彼女の思い出は着実に薄れていった。今は独り身だが、仕事も友人付き合いもそれなりに忙しいし、彼女のことを思い出す暇は無いはずだった。
波流との再会、それ自体は単純に嬉しかった。彼女は何も悪くない。けれども。
次の週の金曜日。僕はまた、バーに居た。今度は先客が何人かおり、波流も彼らの相手で忙しそうだった。こういう店は、何曜日だから、シーズンだからといった理由で客の入りが変化することは余りないらしい。
「私たち、同級生なんですよ」
波流が他の客に、僕をそう紹介する。
「へえ、波流ちゃんの方が年上に見えるけどなあ」
「私、そんなに老けて見えます?」
「いや、このお兄さんが若く見えるんだよ」
「はは、そうですか……」
若く見られるのは人によっては嬉しいのだろうが、僕はそうではない。仕事でなめられることがあるからだ。威勢を張るように、強めのウイスキーをロックで頼む。そうだ、酒を買う時に、もれなく年齢確認をされるのも悲しいことだ。
マスターが出勤してきて、波流は僕の目の前に移動する。改めて見ると、本当に顔立ちが整っていて綺麗な子だ。ただ、男性よりも女性にモテそうな部類であるが。高校時代、僕の知る限りでは、彼女に恋人はいなかったし、噂も無かった。今はどうなのか聞いてみたいが、僕が彼女を狙っていると誤解されたくないので、黙っておく。
やはり僕は、綺麗系より可愛い系が好きだ。今までの恋人も全員そうだった。それはやはり、最初の恋人である陽奈の影響が大きいのだろうか。僕はずっと、彼女のことを忘れた振りをしながら、引きずり続けていたのだろうか。
「立野くん、何か飲む?」
「あ、じゃあ、同じので」
波流がウイスキーをステアする様子をぼんやりと眺める。あの頃は、自分がこんな酒を飲むようになるなんて思いもよらなかった。そんな感想を、口に出す。
「高校のときはさ、バーに行くようになるだなんて思ってなかったよ」
「私も。しかもカウンターに立って、こうして同級生に作ってあげるだなんてね」
「波流ちゃんはお酒強いの?」
「まあ、それなりに」
陽奈はきっと、酒は弱いだろう、と思う。コーヒーすら受け付けなかった子だ。こういうバーに来たら、散々迷いながら果実系のカクテルを頼むのだろう。
「立野くんはけっこう強い方だよね」
「そうなのか?」
「うん。しかも、無茶な飲み方はしないし、引き際を解っているタイプ」
「おお、さすがバーテンダー」
「波流、それ俺のセリフそのまんまじゃねえか」
グラスを洗いながら、マスターが笑う。
「最近は若い子が酒飲まなくなったからなあ。バーに来るのもオッサンばっかりだ。立野くんは、その歳にしては珍しい方だと思うよ」
「そうなんだよね。同窓会のとき、名刺配ってこの店宣伝しておいたんだけどさ、まだ誰も来てくれないんだ。バーってどうも入り辛いイメージが強いみたいだね」
「同窓会って……高校の?」
「うん」
僕は同窓会に一度も行っていない。実家にハガキが届くたび、親から連絡がくるのだが、それを疎ましく思っている。ついに欠席の返事さえ出さなくなってしまったくらいだ。
理由は一つ。陽奈に、会いたくないから。
「ちょっとアレなこと聞くけどさ。立野くんが参加しないのって、やっぱり陽奈ちゃんとのことがあったから?」
僕は思わず目を見開く。
「まさか、そんなにストレートに聞かれるとは思わなかったよ……」
「ごめんごめん。でも、変にオブラートに包む方が失礼かと思って」
波流の声色には、悪意が感じられない。大体、高校時代の失恋を、未だ根に持っている僕がカッコ悪いだけなのだ。
「その、陽奈は、同窓会来てるのか?」
「来てるよ。今どうしてるかも知ってる。まあ、立野くんが聞きたかったら話すよ」
「あー、ちょっと考えさせて」
陽奈の、現在。僕と別れてからの、彼女の人生。
僕だって、他の女の子と付き合った。あの陽奈が独りでいるとは考えにくい。もしかしたら結婚して、子供もいるのかもしれない。あの白い手で、誰かとの間にできた子をあやしている姿まで想像して、息苦しくなる。僕は酸素の代わりに、アルコールを補給する。
「同じので」
「はいはい」
波流は苦笑いしながら空いたグラスを片付ける。マスターは、他の客とラーメン屋の話題で盛り上がっている。
「なあ、波流ちゃん」
「何?」
「うちのクラスの奴らって、けっこう参加してるのか?」
「そうだね、参加率高めだね。あ、でも、あの子は来てなかった」
「あの子?」
「えっと、名前何だっけな。陽奈ちゃんと一番仲良かった……」
「金子夕美?」
「そうそう、その子」
僕は、高校時代のことをなるべく忘れるようにして生きてきた。
陽奈、そして夕美のことを、思い出さないために。
二年生のとき、恋人ができた。
彼女の名前は、宇崎陽奈。
その名の通り、ウサギみたいに愛らしくて暖かい、僕には勿体ないほど素敵な恋人だった。
高校を卒業してから、大学に入るまでの間に、陽奈のことは忘れようと決意した。何人か他の女の子とも付き合い、彼女の思い出は着実に薄れていった。今は独り身だが、仕事も友人付き合いもそれなりに忙しいし、彼女のことを思い出す暇は無いはずだった。
波流との再会、それ自体は単純に嬉しかった。彼女は何も悪くない。けれども。
次の週の金曜日。僕はまた、バーに居た。今度は先客が何人かおり、波流も彼らの相手で忙しそうだった。こういう店は、何曜日だから、シーズンだからといった理由で客の入りが変化することは余りないらしい。
「私たち、同級生なんですよ」
波流が他の客に、僕をそう紹介する。
「へえ、波流ちゃんの方が年上に見えるけどなあ」
「私、そんなに老けて見えます?」
「いや、このお兄さんが若く見えるんだよ」
「はは、そうですか……」
若く見られるのは人によっては嬉しいのだろうが、僕はそうではない。仕事でなめられることがあるからだ。威勢を張るように、強めのウイスキーをロックで頼む。そうだ、酒を買う時に、もれなく年齢確認をされるのも悲しいことだ。
マスターが出勤してきて、波流は僕の目の前に移動する。改めて見ると、本当に顔立ちが整っていて綺麗な子だ。ただ、男性よりも女性にモテそうな部類であるが。高校時代、僕の知る限りでは、彼女に恋人はいなかったし、噂も無かった。今はどうなのか聞いてみたいが、僕が彼女を狙っていると誤解されたくないので、黙っておく。
やはり僕は、綺麗系より可愛い系が好きだ。今までの恋人も全員そうだった。それはやはり、最初の恋人である陽奈の影響が大きいのだろうか。僕はずっと、彼女のことを忘れた振りをしながら、引きずり続けていたのだろうか。
「立野くん、何か飲む?」
「あ、じゃあ、同じので」
波流がウイスキーをステアする様子をぼんやりと眺める。あの頃は、自分がこんな酒を飲むようになるなんて思いもよらなかった。そんな感想を、口に出す。
「高校のときはさ、バーに行くようになるだなんて思ってなかったよ」
「私も。しかもカウンターに立って、こうして同級生に作ってあげるだなんてね」
「波流ちゃんはお酒強いの?」
「まあ、それなりに」
陽奈はきっと、酒は弱いだろう、と思う。コーヒーすら受け付けなかった子だ。こういうバーに来たら、散々迷いながら果実系のカクテルを頼むのだろう。
「立野くんはけっこう強い方だよね」
「そうなのか?」
「うん。しかも、無茶な飲み方はしないし、引き際を解っているタイプ」
「おお、さすがバーテンダー」
「波流、それ俺のセリフそのまんまじゃねえか」
グラスを洗いながら、マスターが笑う。
「最近は若い子が酒飲まなくなったからなあ。バーに来るのもオッサンばっかりだ。立野くんは、その歳にしては珍しい方だと思うよ」
「そうなんだよね。同窓会のとき、名刺配ってこの店宣伝しておいたんだけどさ、まだ誰も来てくれないんだ。バーってどうも入り辛いイメージが強いみたいだね」
「同窓会って……高校の?」
「うん」
僕は同窓会に一度も行っていない。実家にハガキが届くたび、親から連絡がくるのだが、それを疎ましく思っている。ついに欠席の返事さえ出さなくなってしまったくらいだ。
理由は一つ。陽奈に、会いたくないから。
「ちょっとアレなこと聞くけどさ。立野くんが参加しないのって、やっぱり陽奈ちゃんとのことがあったから?」
僕は思わず目を見開く。
「まさか、そんなにストレートに聞かれるとは思わなかったよ……」
「ごめんごめん。でも、変にオブラートに包む方が失礼かと思って」
波流の声色には、悪意が感じられない。大体、高校時代の失恋を、未だ根に持っている僕がカッコ悪いだけなのだ。
「その、陽奈は、同窓会来てるのか?」
「来てるよ。今どうしてるかも知ってる。まあ、立野くんが聞きたかったら話すよ」
「あー、ちょっと考えさせて」
陽奈の、現在。僕と別れてからの、彼女の人生。
僕だって、他の女の子と付き合った。あの陽奈が独りでいるとは考えにくい。もしかしたら結婚して、子供もいるのかもしれない。あの白い手で、誰かとの間にできた子をあやしている姿まで想像して、息苦しくなる。僕は酸素の代わりに、アルコールを補給する。
「同じので」
「はいはい」
波流は苦笑いしながら空いたグラスを片付ける。マスターは、他の客とラーメン屋の話題で盛り上がっている。
「なあ、波流ちゃん」
「何?」
「うちのクラスの奴らって、けっこう参加してるのか?」
「そうだね、参加率高めだね。あ、でも、あの子は来てなかった」
「あの子?」
「えっと、名前何だっけな。陽奈ちゃんと一番仲良かった……」
「金子夕美?」
「そうそう、その子」
僕は、高校時代のことをなるべく忘れるようにして生きてきた。
陽奈、そして夕美のことを、思い出さないために。