猫と兎

20 長いキス

 僕と陽奈は、最後の約束をした。
 卒業式が終わるまでは、恋人でいよう、というものだ。

 ブレザーの第二ボタンを渡し、二人で写真を撮った。男友達に寄せ書きを書かせたら、ウサちゃんとお幸せに、等の文言が並べられ、何ともいたたまれない気分になった。
 陽奈は合唱部のメンバーと打ち上げに行くのだと言い、クラス教室の前で僕たちは別れた。これが永遠の別離になるのだと、周囲に悟られないよう、僕たちは精一杯の笑顔を浮かべた。
 陽奈。僕の彼女。高校生活の半分を共に過ごした、掛け替えのない存在。
 最後のキスは、あのクリスマス・イブの夜になってしまった、と僕は思った。今までの幸せな思い出たちが、全てあの日の失敗のせいで色を無くしていた。

 忘れよう。

 その時僕は、決意した。
 これからは、陽奈のことを、思い出さないように生きていこう。彼女に関するもの。彼女に繋がるもの。それらを断って、新しい日々だけを見つめて、歩いて行こう。

 陽奈を見送ると、サッカー部の連中が絡んできて、私服に着替えて飲みに行こう、と誘ってきた。こいつらには、何の罪も無いな、とは思いつつ。僕は彼らとも、連絡を取らないようにしようと決めた。幸い、緑南に行く三年生は僕だけだったから、それは容易いことだった。
 僕は、彼らの誘いを面倒だと言って断り、彼らからブーイングを受けながら、クラス教室の中を見回した。それから、何か適当な言葉を吐き捨てて、帰るフリをした。



 僕は、わけもなく、確信していた。
 何の約束もしていないのに。
 夕美はここで、僕を待っているはずだと。

 静まり返った空き教室。窓辺に寄りかかる、一人の女子生徒。さすがに卒業式の日くらいは、自発的に服装を改めたようだ。ブレザーとローファーを着ている夕美の姿は、少し新鮮だった。

「よお」

 僕が来たことに、何の驚きもないような顔をして、夕美は右手を挙げた。僕は彼女の右隣へ歩き、同じように窓に背中をつけた。特に会話を用意していなかった僕は、卒業に対して月並みな感想を述べた。
 あまり、時間はなかった。今日は早めに施錠するから、卒業生は早く下校するようにと再三言われていた。この空き教室にも、もうじき管理人が来る。それを考えながらも、僕の口はつまらないことばかりを吐き出していた。
 夕美が、それを止めた。

「あたしと初めて会話した時のこと、覚えてる?」
「えっ?いや……いつだったっけ?」
「志貴が、入部届を職員室に出しに行く前。廊下でぶつかって、志貴がその紙を落とした。あたしがそれを拾って、へえ、サッカー部か、とか何とか言った。そしたら志貴が、金子さんは?って聞くから、帰宅部って自信満々に言った」
「そんなことあった、ような気もするような……」
「あったんだよ」

 夕美は窓にもたれかかるのをやめ、両手を天井に伸ばした。僕は、彼女がそんな話を始めた意味を考えた。彼女のことだから、意味なんてないかもしれない、とは思いながら。

 その時の僕が、もっと色んなことに気付いていれば、結末は変わっていただろう。夕美の行動を思い返し、愕然としたのは、次の彼女ができた後だった。新しい女の子と付き合ったことで、夕美の気持ちをようやく量ることができたのだ。
 僕の解釈は、希望混じりのもので、間違っているかもしれないが。
 夕美はいつも、同じ時間に、同じ場所——つまりは、この空き教室に居た。それは僕が、彼女を見つけやすいよう、そうしていたんじゃないだろうか。
 冬休み、コーヒー・チェーンで勉強していたときも。夕美の最寄駅の店が混んでいる、というのは、嘘だということがわかった。わざわざ、彼女は電車に乗って、こちらの店まで来ていたのだ。
 そんな行動から、導かれるのは。

「志貴、ありがとう。あんたのことは、嫌いじゃなかったよ」

 僕は、急に礼を言われた理由を掴みきれなかった。もちろん、夕美の本音も。
 なぜ、あの日、あんなことをした?
 とうとう、それを、聞くことができなかった。強がってはいたが、夕美が初めてだったということくらい、貧弱な僕でもしっかり分かっていた。

「うん、僕もだ」

 僕の声は、乾いていた。

「せいぜい元気にやれよ」
「夕美こそ」

 僕は焦り始めた。夕美はもう、別れを告げようとしていた。この空き教室をはじめ、彼女の高校生活を彩った、全ての物に。僕と、陽奈に。
 夕美の連絡先を、僕は知らなかった。聞くならその日が最後のチャンスだった。けれど、僕には言いだす勇気がなかった。その代りに出てきたのは、情けなく縋るような言葉だった。

「もう、会えないのか?」
「さあ?少なくとも、ここで会うことは、もうないよ」
「そうだけど……」
「泣きそうな顔すんなよ、バカ」

 そして僕たちは、長いキスをした。

 夕美はそのまま少し残ると言い、僕は独りで空き教室を出た。もう校舎に人影はほとんど無く、涙が流れるのを誰にも見られないで済んだ。

 こうして僕は、二人の女の子との別れを、経験した。
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