猫と兎
21 許しなど乞わない
長い独白の間、波流は一切口を挟まなかった。時刻は四時。始発はまだ、動かない。
酔いは醒め、身体は疲れているはずなのに、不思議と眠気はない。しかし僕は、相当具合の悪い顔色をしているのだろう。波流が店員に、何か温かいソフトドリンクは無いか、と聞く。ほどなくして、柚子茶が出され、僕は有り難くそれを頂く。
「ごめんな、こんな話して」
「いや、いいんだよ。それに……今日話してくれたお陰で、いくつか納得のいったこともあるし」
波流は本当に男前だな、と言おうとして、やめる。褒め言葉にならないと思ったのだ。
「卒業式の時、さ。立野くんと陽奈ちゃんがもう別れてるんじゃないかって、女子はほとんど気づいてたんだよ。後で聞いたときも、やっぱりな、って感じだった」
「そ、そうか」
二人して、全力で演技していたつもりだったのだが、女の子の目は欺けなかったらしい。
「で、陽奈ちゃんと一番仲よかったのが夕美ちゃんだったでしょ?それとなく、聞いてみた子もいるんだよ。でも彼女は、ふざけたフリをして、何も言わなかったんだって。それで一層、別れたっていう確信は強くなったわけだけど」
「なるほどね……」
「それでもまさか、立野くんが夕美ちゃんとそういう関係になってたとは、知らなかった」
夕美のことを打ち明けたのは、波流が最初だ。今までの彼女にも、男友達にも、言ったことがなかった。
「陽奈ちゃんはそのこと、知ってるの?」
「いや、わからない」
「知らない方が良いだろうね」
波流はふう、と息を吐く。何を言われるのか、正直、恐い。
「立野くんはもう、陽奈ちゃんに会わない方がいいと思う。彼女のために、ね」
「ああ。僕も、そう思うよ」
陽奈が、知っていたにしろ、知らないにしろ。これ以上、僕が関わると、彼女はもっと不幸になるだろう。一度過ちを犯した僕が、彼女を幸せにできるはずは無い。一応、彼女の申し出で、連絡先は交換した。でも、それだけだ。もう一度会ったところで、何を償うのだというのだろう。
高校生の陽奈は、もういないのだ。
「立野くんは、夕美ちゃんのこと、好きだったの?」
波流が、そんなことを聞く。それに対する答えを、僕は持ち合わせていない。黙ったままでいると、彼女は質問を変える。
「じゃあ、今は?この前、偶然会ったんだよね?」
「今は……今、か。どうなんだろう。分からないよ」
僕は、夕美と再会した時の印象を話す。昔と同じように、好きなものが同じで、そこは嬉しかったこと。不特定多数の男性と付き合っていることを匂わされ、悲しくなったこと。
「もう一度会いたい、とは思うんだ。夕美とはちゃんと、話をできていないから」
「そっか。気になっては、いるんだね」
「否定はしない」
僕がそう言うと、波流は薄く微笑む。
「でも、夕美ちゃんにも、会わない方がいいんじゃないかな?立野くんのために」
「僕の?」
「うん。言っちゃ悪いけど、夕美ちゃんみたいな女の子は、友達になれても恋人には無理だね。常に男の影があるような子と付き合って、立野くんは耐えられる?傷つかずにいれる?」
「それは……」
大丈夫だ、と言い切れる自信も強さも、今の僕には無い。
「私は、立野くんに幸せになってほしいんだよ。バーテンダーと常連客として。高校の同級生として。飲み友達として」
淡々と語る波流。僕は、彼女に愛されているのだと実感する。それは、男女間の感情というわけではなくて、彼女が語った通りの。
「ありがとう。そう言ってくれるだけで、僕は充分幸せ者だ」
「うん、それでいい」
僕たちは、どうにも気恥ずかしくなって、笑いだす。社会人になってから、こういう関係が築けるとは思っていなかった。立ち上がる他の客を見て、時計を確認する。始発がそろそろ、動き出す頃だ。
「外で缶コーヒーでも飲んでから、帰ろうか」
僕はそう提案して、手を挙げる。今回は、奢らせてもらうことにする。
白く照らされた繁華街は、昼間よりも眩しく見える。波流はカフェオレを買い、僕はブラックにする。この場にいたのが夕美なら、彼女もきっとブラックだ、等と思う。
電車のシートに身体を預けた瞬間、一気に眠気が襲ってくる。カバンのファスナーを閉じているか、指先の感覚で確かめ、意識を手放す準備をする。
過去を語り終えたことで、僕は何かを許されたような感覚に陥っている。それは自己満足、都合のいい解釈だということも、気付いている。
このまま、波流の忠告通り、陽奈にも夕美にも関わらない方がいいのだろう。
陽奈を傷つけないために。僕が傷つかないために。
四月になれば、僕は転勤して、この街を離れる。
もう、余計なことなど、考えるべきじゃない。
酔いは醒め、身体は疲れているはずなのに、不思議と眠気はない。しかし僕は、相当具合の悪い顔色をしているのだろう。波流が店員に、何か温かいソフトドリンクは無いか、と聞く。ほどなくして、柚子茶が出され、僕は有り難くそれを頂く。
「ごめんな、こんな話して」
「いや、いいんだよ。それに……今日話してくれたお陰で、いくつか納得のいったこともあるし」
波流は本当に男前だな、と言おうとして、やめる。褒め言葉にならないと思ったのだ。
「卒業式の時、さ。立野くんと陽奈ちゃんがもう別れてるんじゃないかって、女子はほとんど気づいてたんだよ。後で聞いたときも、やっぱりな、って感じだった」
「そ、そうか」
二人して、全力で演技していたつもりだったのだが、女の子の目は欺けなかったらしい。
「で、陽奈ちゃんと一番仲よかったのが夕美ちゃんだったでしょ?それとなく、聞いてみた子もいるんだよ。でも彼女は、ふざけたフリをして、何も言わなかったんだって。それで一層、別れたっていう確信は強くなったわけだけど」
「なるほどね……」
「それでもまさか、立野くんが夕美ちゃんとそういう関係になってたとは、知らなかった」
夕美のことを打ち明けたのは、波流が最初だ。今までの彼女にも、男友達にも、言ったことがなかった。
「陽奈ちゃんはそのこと、知ってるの?」
「いや、わからない」
「知らない方が良いだろうね」
波流はふう、と息を吐く。何を言われるのか、正直、恐い。
「立野くんはもう、陽奈ちゃんに会わない方がいいと思う。彼女のために、ね」
「ああ。僕も、そう思うよ」
陽奈が、知っていたにしろ、知らないにしろ。これ以上、僕が関わると、彼女はもっと不幸になるだろう。一度過ちを犯した僕が、彼女を幸せにできるはずは無い。一応、彼女の申し出で、連絡先は交換した。でも、それだけだ。もう一度会ったところで、何を償うのだというのだろう。
高校生の陽奈は、もういないのだ。
「立野くんは、夕美ちゃんのこと、好きだったの?」
波流が、そんなことを聞く。それに対する答えを、僕は持ち合わせていない。黙ったままでいると、彼女は質問を変える。
「じゃあ、今は?この前、偶然会ったんだよね?」
「今は……今、か。どうなんだろう。分からないよ」
僕は、夕美と再会した時の印象を話す。昔と同じように、好きなものが同じで、そこは嬉しかったこと。不特定多数の男性と付き合っていることを匂わされ、悲しくなったこと。
「もう一度会いたい、とは思うんだ。夕美とはちゃんと、話をできていないから」
「そっか。気になっては、いるんだね」
「否定はしない」
僕がそう言うと、波流は薄く微笑む。
「でも、夕美ちゃんにも、会わない方がいいんじゃないかな?立野くんのために」
「僕の?」
「うん。言っちゃ悪いけど、夕美ちゃんみたいな女の子は、友達になれても恋人には無理だね。常に男の影があるような子と付き合って、立野くんは耐えられる?傷つかずにいれる?」
「それは……」
大丈夫だ、と言い切れる自信も強さも、今の僕には無い。
「私は、立野くんに幸せになってほしいんだよ。バーテンダーと常連客として。高校の同級生として。飲み友達として」
淡々と語る波流。僕は、彼女に愛されているのだと実感する。それは、男女間の感情というわけではなくて、彼女が語った通りの。
「ありがとう。そう言ってくれるだけで、僕は充分幸せ者だ」
「うん、それでいい」
僕たちは、どうにも気恥ずかしくなって、笑いだす。社会人になってから、こういう関係が築けるとは思っていなかった。立ち上がる他の客を見て、時計を確認する。始発がそろそろ、動き出す頃だ。
「外で缶コーヒーでも飲んでから、帰ろうか」
僕はそう提案して、手を挙げる。今回は、奢らせてもらうことにする。
白く照らされた繁華街は、昼間よりも眩しく見える。波流はカフェオレを買い、僕はブラックにする。この場にいたのが夕美なら、彼女もきっとブラックだ、等と思う。
電車のシートに身体を預けた瞬間、一気に眠気が襲ってくる。カバンのファスナーを閉じているか、指先の感覚で確かめ、意識を手放す準備をする。
過去を語り終えたことで、僕は何かを許されたような感覚に陥っている。それは自己満足、都合のいい解釈だということも、気付いている。
このまま、波流の忠告通り、陽奈にも夕美にも関わらない方がいいのだろう。
陽奈を傷つけないために。僕が傷つかないために。
四月になれば、僕は転勤して、この街を離れる。
もう、余計なことなど、考えるべきじゃない。