猫と兎
22 気の良い先輩
一月が終わろうとしていた。
通常業務の合間、異動することを見据え、引き継ぎのための準備を始めた。僕は社会人四年目を迎えようとしているわけで、まだ若手とは言われているが、ゆくゆくは後輩たちを抱える立場になる。大学の同級生の中には、既に退職している奴も何人かいるが、僕は当分この会社で生きていくつもりでいた。
この会社の居心地がいいのは、いい先輩に恵まれたからだろう、と僕は思っている。もうすぐ定年を迎える高畑さんは、入社一年目のときの指導担当で、仕事のノウハウはもちろん酒の飲み方も教えてくれた人だ。去年の異動で彼の部署が変わり、直接話す機会が減ってしまったのだが、その日は立ち飲み屋にでも行こうか、と久しぶりに誘ってくれた。
「立野、最近よくメテオライトに顔を出しているんだって?」
「えっと……どこっすか、それ」
「おいおい、俺が紹介した、よく喋る男マスターのとこだよ。あの、わかりにくいところにある」
「ああ!あそこ、そんな名前なんですか」
僕の返答に、高畑さんは盛大に噴き出す。そう、僕は波流の働くバーの正式名称を、ちゃんと覚えようともしていなかったのだ。それから僕は、従業員の女の子が同級生であることを話し、あのバーの良さについてひとしきり語り合う。今から行くか、と言われたが、それよりも新しい店を教えてほしい、と言って逃げる。波流には悪いけれど、陽奈とのことがあったせいで、今はあまり行く気が起きないのだ。
僕は再び、二人の女の子のことを、忘れようとしている。波流のアドバイスに従うことが、誰にとっても懸命だと思うから。またもや同期から合コンの計画を持ち出されたが、それに乗る気もしない。当分、そういったことからは、離れたいのだ。
高畑さんは、女マスターのバーへと僕を連れていく。例の店——メテオライトとは違い、ずいぶん賑やかな場所だ。カラオケがあり、僕たちが入ったときには、四十代くらいの男性グループが調子よくアイドルの曲を歌っていた。バーというより、スナックのようだ。
僕も流れに乗せられて、少し前に流行ったバラードを歌う。どうせ周りは酔っ払いばかり、下手でも恥ずかしいことはない。
「お前、意外といい声してるんだな」
「そんなことないです。高畑さんこそ、何か歌わないんですか?」
「俺はいいよ。下手くそだから」
「何言ってるのよ。そこらの歌手よりよっぽど上手いくせに」
マスターがそう言うと、高畑さんはそっぽを向く。夜の女性は皆そうだが、彼女の年齢はまったく読み取れない。三十代くらいにも見えるのだが、高畑さんとの会話の内容を聞く限り、五十代のような気もする。
「じゃあ、ぜひ聴かせて下さいよ!その低音ボイスで!」
「嫌だね。立野がもう一曲歌えよ!」
「後輩いじめはよくないぞー」
「いじめてねぇよ。むしろ、俺はこいつを大事にしてるぞ」
「はい、大事にされてます」
素直にそう返すと、高畑さんは苦笑いをして、タバコを取り出す。マスターが、すっかり照れちゃって、と茶々を入れる。実際、僕は本当に大事にされているのだろう。仕事ではきちんと叱ってくれるし、こうして馴染みの店にも連れて行ってくれる。僕もいつか、後輩を連れていくようになるのだろうか。
「ところで、立野くんはいくつなの?」
「今年で25歳になります」
「若いねー!今が一番楽しいときじゃない!?」
「そうなんですかねえ」
年上の方々は、揃って同じことを言うな、と思う。まあ、僕ももっとオッサンになれば、似たようなセリフを吐くのだろう。高畑さんは、三十路を過ぎるとあっという間に老人になるぞ、と僕に説きはじめる。この話を聞くのは五回目くらいになるが、若輩者は黙って相槌を打つばかりである。
「結婚はちゃんと考えてるのか?お前、長男だろ?」
「あー、弟と妹の方が先にするかもしれませんね。僕と違って、ちゃんと恋人がいるみたいですし」
「えっ、立野くん彼女いないの?」
「はい。全然モテませんし。そもそも、作る気すらないです」
「あら、意外!こんなにいい男なのに!」
マスターの言い方が真に迫っていたので、僕はぶんぶんと首を横に振る。褒められたときに謙遜しすぎるのは失礼だと心得ているが、いい男、というのはいくら何でも過剰評価である。
「こいつ、草食系男子ってやつだからな」
「否定はしないですね」
「まったく、若い奴がそんなんだから、少子高齢化が進むんだよ。俺の介護はどうしてくれるんだ?」
高畑さんの物言いに、僕はプッと吹き出し、頭を小突かれる。彼は数年前に、奥さんに先立たれている。子供はいない。
陽奈の顔が脳裏に浮かぶ。高校生のときではなく、大人になった彼女の顔が。あれだけの容姿と気立ての良さなら、今度こそきちんとした男性に見初められるだろう。というか、そうなって欲しい。彼女が独り身でいるのは、あまりにも勿体ない。
夕美は、どうなんだろう、と思う。再会したとき、彼女は家庭なんかに縛られたくない、と語っていた。女性でそんな言い方をする人は、よく考えると珍しい。うちの同期の男共で、そう言う奴がいる。なるほど、彼女は少し、考え方が男性的なのかもしれない。
「立野くんは、結婚願望無いの?」
ふいにマスターにそう言われ、僕は慌てて返事を探す。
「まだ、そういうことは考えられないですね」
「でもいつかはしたいと思う?」
「えっと……どうなんでしょう」
我ながら、頼りない答えだと思う。しかし、結婚や夫婦といったものについて、特にマイナスのイメージはない。自分の育ってきた家族が、良いものだから。よって、したくないわけでは無いのだろう。ただ、具体的な理想が思い浮かばないだけで。
「いつかは、したいです。でも、今の僕じゃ、とても家庭なんて作れそうにないですね」
「立野、今日は後ろ向きな発言が多いな。最近何かあったか?」
「ふふ、あったんでしょー」
右と正面から一斉攻撃を受けた僕は、少しばかり酔い始めていたこともあり、二人の女性について白状することになった。
通常業務の合間、異動することを見据え、引き継ぎのための準備を始めた。僕は社会人四年目を迎えようとしているわけで、まだ若手とは言われているが、ゆくゆくは後輩たちを抱える立場になる。大学の同級生の中には、既に退職している奴も何人かいるが、僕は当分この会社で生きていくつもりでいた。
この会社の居心地がいいのは、いい先輩に恵まれたからだろう、と僕は思っている。もうすぐ定年を迎える高畑さんは、入社一年目のときの指導担当で、仕事のノウハウはもちろん酒の飲み方も教えてくれた人だ。去年の異動で彼の部署が変わり、直接話す機会が減ってしまったのだが、その日は立ち飲み屋にでも行こうか、と久しぶりに誘ってくれた。
「立野、最近よくメテオライトに顔を出しているんだって?」
「えっと……どこっすか、それ」
「おいおい、俺が紹介した、よく喋る男マスターのとこだよ。あの、わかりにくいところにある」
「ああ!あそこ、そんな名前なんですか」
僕の返答に、高畑さんは盛大に噴き出す。そう、僕は波流の働くバーの正式名称を、ちゃんと覚えようともしていなかったのだ。それから僕は、従業員の女の子が同級生であることを話し、あのバーの良さについてひとしきり語り合う。今から行くか、と言われたが、それよりも新しい店を教えてほしい、と言って逃げる。波流には悪いけれど、陽奈とのことがあったせいで、今はあまり行く気が起きないのだ。
僕は再び、二人の女の子のことを、忘れようとしている。波流のアドバイスに従うことが、誰にとっても懸命だと思うから。またもや同期から合コンの計画を持ち出されたが、それに乗る気もしない。当分、そういったことからは、離れたいのだ。
高畑さんは、女マスターのバーへと僕を連れていく。例の店——メテオライトとは違い、ずいぶん賑やかな場所だ。カラオケがあり、僕たちが入ったときには、四十代くらいの男性グループが調子よくアイドルの曲を歌っていた。バーというより、スナックのようだ。
僕も流れに乗せられて、少し前に流行ったバラードを歌う。どうせ周りは酔っ払いばかり、下手でも恥ずかしいことはない。
「お前、意外といい声してるんだな」
「そんなことないです。高畑さんこそ、何か歌わないんですか?」
「俺はいいよ。下手くそだから」
「何言ってるのよ。そこらの歌手よりよっぽど上手いくせに」
マスターがそう言うと、高畑さんはそっぽを向く。夜の女性は皆そうだが、彼女の年齢はまったく読み取れない。三十代くらいにも見えるのだが、高畑さんとの会話の内容を聞く限り、五十代のような気もする。
「じゃあ、ぜひ聴かせて下さいよ!その低音ボイスで!」
「嫌だね。立野がもう一曲歌えよ!」
「後輩いじめはよくないぞー」
「いじめてねぇよ。むしろ、俺はこいつを大事にしてるぞ」
「はい、大事にされてます」
素直にそう返すと、高畑さんは苦笑いをして、タバコを取り出す。マスターが、すっかり照れちゃって、と茶々を入れる。実際、僕は本当に大事にされているのだろう。仕事ではきちんと叱ってくれるし、こうして馴染みの店にも連れて行ってくれる。僕もいつか、後輩を連れていくようになるのだろうか。
「ところで、立野くんはいくつなの?」
「今年で25歳になります」
「若いねー!今が一番楽しいときじゃない!?」
「そうなんですかねえ」
年上の方々は、揃って同じことを言うな、と思う。まあ、僕ももっとオッサンになれば、似たようなセリフを吐くのだろう。高畑さんは、三十路を過ぎるとあっという間に老人になるぞ、と僕に説きはじめる。この話を聞くのは五回目くらいになるが、若輩者は黙って相槌を打つばかりである。
「結婚はちゃんと考えてるのか?お前、長男だろ?」
「あー、弟と妹の方が先にするかもしれませんね。僕と違って、ちゃんと恋人がいるみたいですし」
「えっ、立野くん彼女いないの?」
「はい。全然モテませんし。そもそも、作る気すらないです」
「あら、意外!こんなにいい男なのに!」
マスターの言い方が真に迫っていたので、僕はぶんぶんと首を横に振る。褒められたときに謙遜しすぎるのは失礼だと心得ているが、いい男、というのはいくら何でも過剰評価である。
「こいつ、草食系男子ってやつだからな」
「否定はしないですね」
「まったく、若い奴がそんなんだから、少子高齢化が進むんだよ。俺の介護はどうしてくれるんだ?」
高畑さんの物言いに、僕はプッと吹き出し、頭を小突かれる。彼は数年前に、奥さんに先立たれている。子供はいない。
陽奈の顔が脳裏に浮かぶ。高校生のときではなく、大人になった彼女の顔が。あれだけの容姿と気立ての良さなら、今度こそきちんとした男性に見初められるだろう。というか、そうなって欲しい。彼女が独り身でいるのは、あまりにも勿体ない。
夕美は、どうなんだろう、と思う。再会したとき、彼女は家庭なんかに縛られたくない、と語っていた。女性でそんな言い方をする人は、よく考えると珍しい。うちの同期の男共で、そう言う奴がいる。なるほど、彼女は少し、考え方が男性的なのかもしれない。
「立野くんは、結婚願望無いの?」
ふいにマスターにそう言われ、僕は慌てて返事を探す。
「まだ、そういうことは考えられないですね」
「でもいつかはしたいと思う?」
「えっと……どうなんでしょう」
我ながら、頼りない答えだと思う。しかし、結婚や夫婦といったものについて、特にマイナスのイメージはない。自分の育ってきた家族が、良いものだから。よって、したくないわけでは無いのだろう。ただ、具体的な理想が思い浮かばないだけで。
「いつかは、したいです。でも、今の僕じゃ、とても家庭なんて作れそうにないですね」
「立野、今日は後ろ向きな発言が多いな。最近何かあったか?」
「ふふ、あったんでしょー」
右と正面から一斉攻撃を受けた僕は、少しばかり酔い始めていたこともあり、二人の女性について白状することになった。