猫と兎
23 決意
多少端折ったり濁したりしつつ、陽奈と夕美についての話をする。口を滑らせすぎないように、追加注文はカシスオレンジで。さすがに初対面の女性マスターに対して、自分の情けなさを赤裸々に語れる勇気はない。
話しながら僕は、結局自分がどうしたいのか、まるで決めかねていることに気付く。
二人のことを、忘れること。関わらずに生きていくという方針。
それは単なる逃避ではないだろうか?
しかし、波流も二人には会わない方がいいと言っていたのだ。それで皆が幸せになれるのなら、建設的逃避……なのか?
「で、お前これからどうするんだよ」
第三者、しかも尊敬している先輩からの言葉は、僕の胸に重苦しく響く。マスターは、他の客を見送るためカウンターから出ていく。カラオケの機械からは、今週入った新曲の案内が延々と流れている。
「どうも、しないですよ。四月には異動しますし……」
異動先がどこかまでは聞かされていないが、支店の位置から考えると、転居を伴うのは確実。陽奈はともかく、連絡先を知らない夕美とは、もう会うことはないだろう。
「まあ、立野が考えて、決めることだ。でもな、後悔だけはするなよ」
「後悔……ですか」
「しそうだったら、早めに手を打つことだな」
マスターが戻ってきて、空いたグラスを片づけながら、僕に微笑みかける。
「若いんだから、そんな顔しなさんな」
「僕、一体どんな顔してるんですか」
「んー、諦めちゃった顔?」
高畑さんは紫煙を吐き出しながら、ゆっくりと頷き、僕に言う。
「本当は、その女の子たちと、もう一度しっかり話をしたいって思ってるんだろう?」
僕は、それに、答えることができない。
さらにマスターが、追撃をかける。
「私は夕美ちゃんがいいと思うな。なんとなくだけど、立野くんには彼女みたいなタイプが合う気がする」
「そ、そうですか?」
波流からはきっぱりと、夕美はやめた方がいいと言われただけに、僕は驚く。
「仕事もしてるし、お酒も飲めるんでしょ?そういう子の方が、一緒にいて話してて楽しいんじゃないかなって」
「どうでしょうねえ」
「立野くんも、本当は夕美ちゃんの方が気になってる感じよ?まあ、飲み屋のオバサンの当てにならない勘だけどさ」
マスターはからからと笑い、つられて僕も馬鹿笑いをする。それから、高畑さんと締めにラーメンを食べようということになり、バーを出る。
「マスターの手前、あまり言えなかったけど」
ドロドロの豚骨スープをすすりながら、高畑さんが話し出す。
「俺は陽奈ちゃん派だな。一人でバーに行くような女はどこか危ない。家庭の他に世界を持ちすぎていたら、そっちに引き込まれて、帰ってこなくなるような気がする」
「それってご自分のことですか?」
「うるせえ馬鹿野郎!俺は本当に嫁さん一筋だ。……今でも、な」
しょうもない冗談を言ってしまったことを恥じながら、僕は高畑さんが過去にしてくれた話を思い返す。
高畑さんの奥さんは、子供ができても、育てることができない体質で、三回の流産を経験したそうだ。二人だけの人生を送る決意を固め、夫婦で毎年のように海外旅行に行ったという。このまま幸せに老いていくだろうと思っていた矢先、奥さんは交通事故で帰らぬ人となった。僕が入社する以前のことだ。
「立野には、幸せな結婚をしてほしいんだ。別に、陽奈ちゃんにしろって言ってるわけじゃない。暖かい家庭を一緒に築いていける、そんな女性に出会って欲しい」
「高畑さん……」
親子と称すには、歳が近すぎるけれど。高畑さんにとって僕は、そのような存在なのだろうか。社会人の付き合いは、正直煩わしいことがほとんどだ。でもこうして、本当に自分のことを真剣に思ってくれる人と、めぐり合うこともできる。僕はけっこう、運がいいのかもしれない。
結局、高畑さんに全てのお代を奢られ、帰路に着く。部屋の前で、鍵ではなくIC定期券を取り出してしまった辺り、僕は疲れているのだろう。
電気を点けると、朝出勤したままの光景が広がっており、それはとても当たり前のことなのだけど、なぜか今夜は侘しく思える。
適当にシャワーを浴び、ベッドに潜り込む。そのまま寝付ければいいのに、妙に目が冴えている。酒の量が中途半端だったか。
高畑さんの言った、後悔、の意味について考える。それで、今までした後悔には何があっただろう、と思い返す。
陽奈と違う大学に入ったことに対して、そんなに後悔はしていない。実際、僕の出身校はそこそこ知名度があり、それで助けられたことが何度かあるからだ。そう、実益には変えられない。
陽奈を裏切って、夕美と関わりを持ったことについては、どうだろう。正直、今まで考えることを拒否していた。考える代わりに、忘れようとした。ほぼ完璧に、忘れることができたはずだった。
なのに僕は、彼女たちと再会した。
「このままじゃ、後悔するな……」
僕以外誰もいない部屋で、呟いてみる。
勇気を揺り起こすために。後悔、しないために。
話しながら僕は、結局自分がどうしたいのか、まるで決めかねていることに気付く。
二人のことを、忘れること。関わらずに生きていくという方針。
それは単なる逃避ではないだろうか?
しかし、波流も二人には会わない方がいいと言っていたのだ。それで皆が幸せになれるのなら、建設的逃避……なのか?
「で、お前これからどうするんだよ」
第三者、しかも尊敬している先輩からの言葉は、僕の胸に重苦しく響く。マスターは、他の客を見送るためカウンターから出ていく。カラオケの機械からは、今週入った新曲の案内が延々と流れている。
「どうも、しないですよ。四月には異動しますし……」
異動先がどこかまでは聞かされていないが、支店の位置から考えると、転居を伴うのは確実。陽奈はともかく、連絡先を知らない夕美とは、もう会うことはないだろう。
「まあ、立野が考えて、決めることだ。でもな、後悔だけはするなよ」
「後悔……ですか」
「しそうだったら、早めに手を打つことだな」
マスターが戻ってきて、空いたグラスを片づけながら、僕に微笑みかける。
「若いんだから、そんな顔しなさんな」
「僕、一体どんな顔してるんですか」
「んー、諦めちゃった顔?」
高畑さんは紫煙を吐き出しながら、ゆっくりと頷き、僕に言う。
「本当は、その女の子たちと、もう一度しっかり話をしたいって思ってるんだろう?」
僕は、それに、答えることができない。
さらにマスターが、追撃をかける。
「私は夕美ちゃんがいいと思うな。なんとなくだけど、立野くんには彼女みたいなタイプが合う気がする」
「そ、そうですか?」
波流からはきっぱりと、夕美はやめた方がいいと言われただけに、僕は驚く。
「仕事もしてるし、お酒も飲めるんでしょ?そういう子の方が、一緒にいて話してて楽しいんじゃないかなって」
「どうでしょうねえ」
「立野くんも、本当は夕美ちゃんの方が気になってる感じよ?まあ、飲み屋のオバサンの当てにならない勘だけどさ」
マスターはからからと笑い、つられて僕も馬鹿笑いをする。それから、高畑さんと締めにラーメンを食べようということになり、バーを出る。
「マスターの手前、あまり言えなかったけど」
ドロドロの豚骨スープをすすりながら、高畑さんが話し出す。
「俺は陽奈ちゃん派だな。一人でバーに行くような女はどこか危ない。家庭の他に世界を持ちすぎていたら、そっちに引き込まれて、帰ってこなくなるような気がする」
「それってご自分のことですか?」
「うるせえ馬鹿野郎!俺は本当に嫁さん一筋だ。……今でも、な」
しょうもない冗談を言ってしまったことを恥じながら、僕は高畑さんが過去にしてくれた話を思い返す。
高畑さんの奥さんは、子供ができても、育てることができない体質で、三回の流産を経験したそうだ。二人だけの人生を送る決意を固め、夫婦で毎年のように海外旅行に行ったという。このまま幸せに老いていくだろうと思っていた矢先、奥さんは交通事故で帰らぬ人となった。僕が入社する以前のことだ。
「立野には、幸せな結婚をしてほしいんだ。別に、陽奈ちゃんにしろって言ってるわけじゃない。暖かい家庭を一緒に築いていける、そんな女性に出会って欲しい」
「高畑さん……」
親子と称すには、歳が近すぎるけれど。高畑さんにとって僕は、そのような存在なのだろうか。社会人の付き合いは、正直煩わしいことがほとんどだ。でもこうして、本当に自分のことを真剣に思ってくれる人と、めぐり合うこともできる。僕はけっこう、運がいいのかもしれない。
結局、高畑さんに全てのお代を奢られ、帰路に着く。部屋の前で、鍵ではなくIC定期券を取り出してしまった辺り、僕は疲れているのだろう。
電気を点けると、朝出勤したままの光景が広がっており、それはとても当たり前のことなのだけど、なぜか今夜は侘しく思える。
適当にシャワーを浴び、ベッドに潜り込む。そのまま寝付ければいいのに、妙に目が冴えている。酒の量が中途半端だったか。
高畑さんの言った、後悔、の意味について考える。それで、今までした後悔には何があっただろう、と思い返す。
陽奈と違う大学に入ったことに対して、そんなに後悔はしていない。実際、僕の出身校はそこそこ知名度があり、それで助けられたことが何度かあるからだ。そう、実益には変えられない。
陽奈を裏切って、夕美と関わりを持ったことについては、どうだろう。正直、今まで考えることを拒否していた。考える代わりに、忘れようとした。ほぼ完璧に、忘れることができたはずだった。
なのに僕は、彼女たちと再会した。
「このままじゃ、後悔するな……」
僕以外誰もいない部屋で、呟いてみる。
勇気を揺り起こすために。後悔、しないために。