猫と兎
24 フレンチ・ディナー
高畑さんと飲みに行った翌日、陽奈にメールできた自分の行動力にはびっくりしたが、さらに驚いたのが、すんなりと彼女が誘いを受けてくれたことだ。日にちが決まってしまってから、僕は大いに焦りだした。一体どういう店を予約すればいいのだろう。
情けないことに、僕は飲食店といえば、居酒屋とバーとラーメン屋しか知らなかった。通常、女の子が喜びそうな洒落た場所が、一向に思いつかない。
結局、ホテルの最上階にある、そう高くないフレンチにした。社会人になったというのに、この辺の知識や想像力は高校生のときと変わっていない。
金曜の夜、僕は仕事を適当に切り上げて、駅の改札へと向かう。
「お疲れ様!久しぶり……じゃない、ね」
「おう、そうだな」
「スーツ姿の志貴くん、初めて見たよ。なんだか新鮮だね」
そう言う陽奈は、ベージュのロングコートに、チェック柄のワンピースという格好だ。道行く男性たちが、ちらちらと彼女を見ているような感覚に陥る。それは錯覚なのかもしれないが、確かにそのくらい、彼女は可愛かった。よく、こんな女の子と付き合えたものだ。
「なんか、食べるとこ思いつかなくてさ。あそこのホテルの上のとこ、とりあえず予約しといた」
「えっ、本当に!?金曜なのによく予約取れたね!っていうか、デニムとか履いてこなくてよかったぁ」
その言葉を聞いて、早速僕は失敗したことを痛感する。ネットで見た限り、そこまで形式ばった所ではないはずなのだが、女の子の方が服装を気にするのなら、事前に店を言ってあげるべきだったのだ。
恥を忍んで、同期にでも相談しておくんだったか、と考えるが、どうせ見返りや事後報告を求められただろうと思い直す。そう、今夜陽奈と二人で会うことは、誰にも告げていなかった。
「陽奈、お酒大丈夫なのか?」
「シャンパンくらいは飲めるよ。志貴くんったら、また子ども扱いする」
わざとらしく唇を突き出す、懐かしいその仕草で、陽奈が実際にはむくれていないことがわかる。僕は学校帰りのコーヒー・チェーンの風景を頭に巡らせる。そこでは、スピーカーから流れる無難なジャズが漂っていたが、今、このレストランには、ピアノの生演奏が響き渡っている。
……ちょっと、無理をしすぎたような気がする。
僕は気を取り直して、少しでも陽奈をリードするため、メニューを見せる。
「メインはここから選べるけど、どれがいい?」
「えっと、どうしよう……志貴くんは?」
「魚かな」
「じゃあ、同じのにする」
グラスを交わし、運ばれてくる料理にいちいち感嘆しながら、僕たちは高校を卒業してからの話を始める。
陽奈は栄北大学で、聖歌隊に入っていたらしい。そういえば、あの大学はキリスト教系だった。高校の合唱部ほど練習があるわけでもなく、いくつかのアルバイトも経験した。ファミレス、本屋、百貨店の洋菓子店、コンビニ……。どこへ行っても彼女はモテたのだろうと思いつつ、その点には触れない。
ちなみに僕は、サークルには入らず、四年間ずっと同じ居酒屋でアルバイトをしていた。それを言うと、志貴くんって頑張り屋だったんだね、という評価を頂く。個人経営の小さな店だったから、ある程度自由が効いて気楽だっただけなのだが、せっかく褒められたので言わないことにする。
そして、大学を卒業してからのこと。陽奈はデザイン系の企業の契約社員になり、そこの社員と婚約し、破談となる。
僕が想像していた通り、陽奈は寿退社するつもりでいて、破談になった翌日に退職したそうだ。それからしばらくは、実家で静養。現在、就職活動をしているものの、中々上手くいかないらしい。
「親には、まずはアルバイトからでいいんじゃないか、って言われてる。無理して仕事しなくても、実家に居ればなんとかなるから、ってね」
「僕もそう思うよ。もっとゆっくりしてもいいんじゃないかな?」
「だけど、わたしだってもう25歳だし。いつまでも、こうしているわけにはいかないよ」
「……何だか僕たち、すっかり大人になったんだな」
「うん、そうだね」
陽奈が、心の底から満足そうな笑顔で頷く。デザートのケーキプレートが運ばれてきて、ウェイターが僕にコーヒーを、陽奈にミルクティーを注ぐ。
今回、陽奈に連絡したのは、ほとんど勢いだったと言ってもいい。僕は彼女と、もっと話をしたかった。高校を卒業してから、今までの話を。その願いは、食事をするこのわずかな時間で、すっかり叶ってしまった。
「ふぅ、けっこう量、多かったね」
「ああ。僕ももう、満腹だよ」
僕は、陽奈の瞳を見つめる。陽奈も、僕を見て笑う。
傍から見れば、こんな二人は通常一般のカップルに見えるのだろうか。
「誘ってくれてありがとう。わたしね、今日みたいに、ちゃんと志貴くんと話したかったの。どんな大学生になって、そんな社会人になったのか、ずっと知りたかったんだよ」
「僕は……陽奈のことを忘れるようにして、生きてきた。なんか、ゴメンな」
「今回のディナーで許してあげます」
「ん、ありがと」
その後の予定は、全く何も考えていなかった。
陽奈と落ち着いて話してから、自分が一体どうしたくなるのか、その場の感情に任せることにしていた。
そして僕は。
「少し散歩してから、帰ろう」
そう言って、陽奈の顔色を伺う。すると、彼女も同じ気持ちだったのか、こくりと頷いた。
情けないことに、僕は飲食店といえば、居酒屋とバーとラーメン屋しか知らなかった。通常、女の子が喜びそうな洒落た場所が、一向に思いつかない。
結局、ホテルの最上階にある、そう高くないフレンチにした。社会人になったというのに、この辺の知識や想像力は高校生のときと変わっていない。
金曜の夜、僕は仕事を適当に切り上げて、駅の改札へと向かう。
「お疲れ様!久しぶり……じゃない、ね」
「おう、そうだな」
「スーツ姿の志貴くん、初めて見たよ。なんだか新鮮だね」
そう言う陽奈は、ベージュのロングコートに、チェック柄のワンピースという格好だ。道行く男性たちが、ちらちらと彼女を見ているような感覚に陥る。それは錯覚なのかもしれないが、確かにそのくらい、彼女は可愛かった。よく、こんな女の子と付き合えたものだ。
「なんか、食べるとこ思いつかなくてさ。あそこのホテルの上のとこ、とりあえず予約しといた」
「えっ、本当に!?金曜なのによく予約取れたね!っていうか、デニムとか履いてこなくてよかったぁ」
その言葉を聞いて、早速僕は失敗したことを痛感する。ネットで見た限り、そこまで形式ばった所ではないはずなのだが、女の子の方が服装を気にするのなら、事前に店を言ってあげるべきだったのだ。
恥を忍んで、同期にでも相談しておくんだったか、と考えるが、どうせ見返りや事後報告を求められただろうと思い直す。そう、今夜陽奈と二人で会うことは、誰にも告げていなかった。
「陽奈、お酒大丈夫なのか?」
「シャンパンくらいは飲めるよ。志貴くんったら、また子ども扱いする」
わざとらしく唇を突き出す、懐かしいその仕草で、陽奈が実際にはむくれていないことがわかる。僕は学校帰りのコーヒー・チェーンの風景を頭に巡らせる。そこでは、スピーカーから流れる無難なジャズが漂っていたが、今、このレストランには、ピアノの生演奏が響き渡っている。
……ちょっと、無理をしすぎたような気がする。
僕は気を取り直して、少しでも陽奈をリードするため、メニューを見せる。
「メインはここから選べるけど、どれがいい?」
「えっと、どうしよう……志貴くんは?」
「魚かな」
「じゃあ、同じのにする」
グラスを交わし、運ばれてくる料理にいちいち感嘆しながら、僕たちは高校を卒業してからの話を始める。
陽奈は栄北大学で、聖歌隊に入っていたらしい。そういえば、あの大学はキリスト教系だった。高校の合唱部ほど練習があるわけでもなく、いくつかのアルバイトも経験した。ファミレス、本屋、百貨店の洋菓子店、コンビニ……。どこへ行っても彼女はモテたのだろうと思いつつ、その点には触れない。
ちなみに僕は、サークルには入らず、四年間ずっと同じ居酒屋でアルバイトをしていた。それを言うと、志貴くんって頑張り屋だったんだね、という評価を頂く。個人経営の小さな店だったから、ある程度自由が効いて気楽だっただけなのだが、せっかく褒められたので言わないことにする。
そして、大学を卒業してからのこと。陽奈はデザイン系の企業の契約社員になり、そこの社員と婚約し、破談となる。
僕が想像していた通り、陽奈は寿退社するつもりでいて、破談になった翌日に退職したそうだ。それからしばらくは、実家で静養。現在、就職活動をしているものの、中々上手くいかないらしい。
「親には、まずはアルバイトからでいいんじゃないか、って言われてる。無理して仕事しなくても、実家に居ればなんとかなるから、ってね」
「僕もそう思うよ。もっとゆっくりしてもいいんじゃないかな?」
「だけど、わたしだってもう25歳だし。いつまでも、こうしているわけにはいかないよ」
「……何だか僕たち、すっかり大人になったんだな」
「うん、そうだね」
陽奈が、心の底から満足そうな笑顔で頷く。デザートのケーキプレートが運ばれてきて、ウェイターが僕にコーヒーを、陽奈にミルクティーを注ぐ。
今回、陽奈に連絡したのは、ほとんど勢いだったと言ってもいい。僕は彼女と、もっと話をしたかった。高校を卒業してから、今までの話を。その願いは、食事をするこのわずかな時間で、すっかり叶ってしまった。
「ふぅ、けっこう量、多かったね」
「ああ。僕ももう、満腹だよ」
僕は、陽奈の瞳を見つめる。陽奈も、僕を見て笑う。
傍から見れば、こんな二人は通常一般のカップルに見えるのだろうか。
「誘ってくれてありがとう。わたしね、今日みたいに、ちゃんと志貴くんと話したかったの。どんな大学生になって、そんな社会人になったのか、ずっと知りたかったんだよ」
「僕は……陽奈のことを忘れるようにして、生きてきた。なんか、ゴメンな」
「今回のディナーで許してあげます」
「ん、ありがと」
その後の予定は、全く何も考えていなかった。
陽奈と落ち着いて話してから、自分が一体どうしたくなるのか、その場の感情に任せることにしていた。
そして僕は。
「少し散歩してから、帰ろう」
そう言って、陽奈の顔色を伺う。すると、彼女も同じ気持ちだったのか、こくりと頷いた。