猫と兎
27 また会えたから
年度末が近付き、仕事は徐々に忙しくなる。
昼食も満足に採れないことがあるが、夜はせいぜい九時までで終わる。何のことはない、社内のシステムが止まってしまうのだ。管理職の人たちは、そこからさらに残っているようだが、僕は有り難く先に帰らせて頂く。
その日、カバンの中には、女性陣一同から貰ったチョコレートが入っていた。義理とはいえ、やはり嬉しいものである。
牛丼屋で適当に胃を膨らませ、繁華街へと向かう。
陽奈との約束通り、僕は夕美を探している。しかし、毎日やみくもにそうしているわけではない。彼女はきっと、ずっと同じ場所で、僕を待っていると思ったのだ。あの冬の空き教室のように。
「今晩は。お好きな席へどうぞ」
「じゃあ、カウンターで」
駅から坂道を上がること十五分。初老のマスターが迎えてくれたそのバーには、扉に開店年月日が書いてあり、僕の年齢よりかなり上だった。
客は僕の他に中年の男性が一人だけ。何ともない風を装いながら、ゆっくり席につくが、内心僕は緊張していた。ここまで静かなバーには来たことが無かったからだ。
ひとまずビールを注文し、恥ずかしくない程度に店内を見回す。奥にはソファ席が四つあり、この店が案外広いことがわかる。映画俳優が、お忍びで女性を誘う時にぴったりだ、等と思っていると、マスターに話しかけられる。
「以前にも、来て頂きました?」
「いえ、初めてです。メッシュさんの紹介で」
メッシュというのは、僕と夕美が再会したバーの名前だ。あれから僕は、何度かその店に訪れていた。そして、ここを教えてもらったのだ。
「そうですか、わざわざうちみたいな辺鄙な場所を」
「正直、遠かったです」
僕が悪びれずにそう言うと、マスターは糸のような目をさらに細くして微笑む。
「甘いものは、大丈夫ですか?今日は特別に、生チョコレートをご用意しております」
「大丈夫です。お願いします」
何の装飾もない真っ白なプレートに、四角い生チョコレートとミントの葉が盛り付けられる。恐らく、値段で言えばそう大したことはない代物なのだろうけど、店内の静けさと照明の暗さが相まって、とんでもなく高級そうに感じてしまう。実際、もの凄く美味しい。
「ウイスキー、頂いても?」
僕の注文を予想していたのだろう、マスターはゆっくりと頷き、ビールグラスを下げる。
もし、夕美を探そうとしなかったら、この店に来ることは無かっただろう。駅から遠すぎるし、僕には大人すぎる。
そして、ここに夕美が現れるという保証なんて一つもない。
ただ、僕は信じていたのだ。
「本当に会う必要性があるときは、ちゃんと会える」という彼女の言葉を。
「あたしも彼と同じものを」
いつかと同じセリフ、同じ声のトーン。
僕は平静を装うため、ウイスキーを多めに含む。
「久しぶり、夕美」
「今日はバレンタインデーだろ?他に行くとこなかったのか、お前は」
軽口を叩くのは、きっと驚いているせいだと僕は思う。とはいえ、僕もびっくりしているから、気の利いた返しなんてできないわけだけど。まさか本当に、この店に彼女が来るとは。
夕美の前にも、僕と同じウイスキーと生チョコレートが並べられる。マスターは、中年男性と話し込んでいる。彼女にどう話を切り出すべきか、と迷う。僕はいつもそうだ、行動は起こせるが戦略は練っていない。そうこうしていると、先手を打たれる。
「あれから、何かあったんだろ?」
「えっと……そうだね、陽奈と会ったよ」
夕美は、陽奈の結婚が破談になったことを知らない。そこから話す必要があったので、必然的に僕の方が多く言葉を紡ぐ。店内の照明は暗く、彼女の表情は把握できない。僕はなるべく、自分自身の感想を交えないように、事務的に喋る。
夕美のタバコが四本目になったくらいで、ようやく説明が終わり、一息つく。
「まったく、何やってんだか、あの子は」
一言、夕美はそう言って、追加のウイスキーを注文する。僕はそのまま、次の言葉を待つ。いつの間にか、客は僕たちだけになっていて、マスターがグラスを拭く音だけが響いている。長い、長い静寂。
「それで、大丈夫なの?いつもいつも、陽奈は強がりすぎるから」
「うん、そのことなんだけどさ。陽奈は夕美に会いたがってるんだ。連絡先だけでも、教えてくれないかな?」
よし、と僕は内心ガッツポーズを取る。口が滑らかに動いた。そして、夕美がそれを渋るだろうということは想定済みだ。
「いや、あたしなんかが会ったところでどうするんだよ。人を慰めるのは、風呂掃除の次に苦手なんだ」
「ん、その苦手具合の比喩はよく分からないけど、慰めて欲しいわけじゃないんだ、陽奈はさ。昔みたいに、会って話をしてやったらいいんじゃないかな?」
夕美はさらに一本、タバコに火をつける。マスターが灰皿を取り換える。畳み掛けるように、僕は口を開く。
「僕も、陽奈と会うのは怖かった。波流に無理やり引き合わせられなかったら、再会できていないと思う。けど、会ってしまえば色々と話ができるもんだよ。僕と夕美だって……そうじゃないか?」
夕美はグラスを見つめている。そこに、何を映しているのだろう。高校生の僕たち、そして、大人になった僕たち。変わらない仕草や声、変わってしまった表情や匂い。
「だけどな、志貴。あたしには陽奈に負い目がある。あたしはあの子に、本当のことを言ってない。志貴だって、ちゃんと話してないだろ?」
僕は言葉を無くして、俯く。夕美は、あのことを言っている。僕と夕美が、陽奈を裏切ったことを。
「ひとつ聞きたいんだけどさ」
「何?」
「志貴は今でも、陽奈のことが好き?」
夕美は、僕の顔を見ていない。僕からも、彼女の表情が見えない。
「まだ、よくわからない。自分の気持ちが」
そんな、頼りなさげな返答を絞り出すので精いっぱいで。夕美を説得したいのに、逆に痛いところを突かれてしまった。
しばらく、僕たちは黙り込む。夕美もきっと、陽奈の顔を思い浮かべている。僕は、大人になった陽奈の表情を思い出す。そして、自分の気持ちすら把握できていないのに、陽奈が今の僕を好いてくれているのか気にしてしまう。
夕美がそっと、口を開く。
「……ちょっと、考えてみる。あたしもそろそろ、陽奈と向き合う時ってことかもな。会うかどうか、自分で決めるよ」
そして、互いの連絡先を交換した後、夕美に陽奈の連絡先を送る。僕から陽奈には、何も言わない。夕美の決心がついたら、彼女の方から連絡する形になる。
これで一応、僕の役目は終わった。
「もしかしたら、また会えなくなるかもしれない」
僕は無意識に、そんなことを口走っていた。
「なぜ?」
「四月に、転勤することになったんだ。場所はまだわからないけど」
「ふうん、そう」
僕がもう少し明るい性格なら、ここで冗談でも言えるのだろうけど。生憎、面白いことは何一つ言えやしない。
それから、僕たちは一緒にバーを出て、駅まで歩いた。夕美は最近起きた殺人事件の話題を出し、僕もそれに乗って物騒なニュースについて喋りはじめた。
こんな適当な会話で別れを告げたのは、安心していたからだろう。
夕美の、連絡先を知ることができた。
だから大丈夫だ。僕たちはきっと、また会うことができる。
昼食も満足に採れないことがあるが、夜はせいぜい九時までで終わる。何のことはない、社内のシステムが止まってしまうのだ。管理職の人たちは、そこからさらに残っているようだが、僕は有り難く先に帰らせて頂く。
その日、カバンの中には、女性陣一同から貰ったチョコレートが入っていた。義理とはいえ、やはり嬉しいものである。
牛丼屋で適当に胃を膨らませ、繁華街へと向かう。
陽奈との約束通り、僕は夕美を探している。しかし、毎日やみくもにそうしているわけではない。彼女はきっと、ずっと同じ場所で、僕を待っていると思ったのだ。あの冬の空き教室のように。
「今晩は。お好きな席へどうぞ」
「じゃあ、カウンターで」
駅から坂道を上がること十五分。初老のマスターが迎えてくれたそのバーには、扉に開店年月日が書いてあり、僕の年齢よりかなり上だった。
客は僕の他に中年の男性が一人だけ。何ともない風を装いながら、ゆっくり席につくが、内心僕は緊張していた。ここまで静かなバーには来たことが無かったからだ。
ひとまずビールを注文し、恥ずかしくない程度に店内を見回す。奥にはソファ席が四つあり、この店が案外広いことがわかる。映画俳優が、お忍びで女性を誘う時にぴったりだ、等と思っていると、マスターに話しかけられる。
「以前にも、来て頂きました?」
「いえ、初めてです。メッシュさんの紹介で」
メッシュというのは、僕と夕美が再会したバーの名前だ。あれから僕は、何度かその店に訪れていた。そして、ここを教えてもらったのだ。
「そうですか、わざわざうちみたいな辺鄙な場所を」
「正直、遠かったです」
僕が悪びれずにそう言うと、マスターは糸のような目をさらに細くして微笑む。
「甘いものは、大丈夫ですか?今日は特別に、生チョコレートをご用意しております」
「大丈夫です。お願いします」
何の装飾もない真っ白なプレートに、四角い生チョコレートとミントの葉が盛り付けられる。恐らく、値段で言えばそう大したことはない代物なのだろうけど、店内の静けさと照明の暗さが相まって、とんでもなく高級そうに感じてしまう。実際、もの凄く美味しい。
「ウイスキー、頂いても?」
僕の注文を予想していたのだろう、マスターはゆっくりと頷き、ビールグラスを下げる。
もし、夕美を探そうとしなかったら、この店に来ることは無かっただろう。駅から遠すぎるし、僕には大人すぎる。
そして、ここに夕美が現れるという保証なんて一つもない。
ただ、僕は信じていたのだ。
「本当に会う必要性があるときは、ちゃんと会える」という彼女の言葉を。
「あたしも彼と同じものを」
いつかと同じセリフ、同じ声のトーン。
僕は平静を装うため、ウイスキーを多めに含む。
「久しぶり、夕美」
「今日はバレンタインデーだろ?他に行くとこなかったのか、お前は」
軽口を叩くのは、きっと驚いているせいだと僕は思う。とはいえ、僕もびっくりしているから、気の利いた返しなんてできないわけだけど。まさか本当に、この店に彼女が来るとは。
夕美の前にも、僕と同じウイスキーと生チョコレートが並べられる。マスターは、中年男性と話し込んでいる。彼女にどう話を切り出すべきか、と迷う。僕はいつもそうだ、行動は起こせるが戦略は練っていない。そうこうしていると、先手を打たれる。
「あれから、何かあったんだろ?」
「えっと……そうだね、陽奈と会ったよ」
夕美は、陽奈の結婚が破談になったことを知らない。そこから話す必要があったので、必然的に僕の方が多く言葉を紡ぐ。店内の照明は暗く、彼女の表情は把握できない。僕はなるべく、自分自身の感想を交えないように、事務的に喋る。
夕美のタバコが四本目になったくらいで、ようやく説明が終わり、一息つく。
「まったく、何やってんだか、あの子は」
一言、夕美はそう言って、追加のウイスキーを注文する。僕はそのまま、次の言葉を待つ。いつの間にか、客は僕たちだけになっていて、マスターがグラスを拭く音だけが響いている。長い、長い静寂。
「それで、大丈夫なの?いつもいつも、陽奈は強がりすぎるから」
「うん、そのことなんだけどさ。陽奈は夕美に会いたがってるんだ。連絡先だけでも、教えてくれないかな?」
よし、と僕は内心ガッツポーズを取る。口が滑らかに動いた。そして、夕美がそれを渋るだろうということは想定済みだ。
「いや、あたしなんかが会ったところでどうするんだよ。人を慰めるのは、風呂掃除の次に苦手なんだ」
「ん、その苦手具合の比喩はよく分からないけど、慰めて欲しいわけじゃないんだ、陽奈はさ。昔みたいに、会って話をしてやったらいいんじゃないかな?」
夕美はさらに一本、タバコに火をつける。マスターが灰皿を取り換える。畳み掛けるように、僕は口を開く。
「僕も、陽奈と会うのは怖かった。波流に無理やり引き合わせられなかったら、再会できていないと思う。けど、会ってしまえば色々と話ができるもんだよ。僕と夕美だって……そうじゃないか?」
夕美はグラスを見つめている。そこに、何を映しているのだろう。高校生の僕たち、そして、大人になった僕たち。変わらない仕草や声、変わってしまった表情や匂い。
「だけどな、志貴。あたしには陽奈に負い目がある。あたしはあの子に、本当のことを言ってない。志貴だって、ちゃんと話してないだろ?」
僕は言葉を無くして、俯く。夕美は、あのことを言っている。僕と夕美が、陽奈を裏切ったことを。
「ひとつ聞きたいんだけどさ」
「何?」
「志貴は今でも、陽奈のことが好き?」
夕美は、僕の顔を見ていない。僕からも、彼女の表情が見えない。
「まだ、よくわからない。自分の気持ちが」
そんな、頼りなさげな返答を絞り出すので精いっぱいで。夕美を説得したいのに、逆に痛いところを突かれてしまった。
しばらく、僕たちは黙り込む。夕美もきっと、陽奈の顔を思い浮かべている。僕は、大人になった陽奈の表情を思い出す。そして、自分の気持ちすら把握できていないのに、陽奈が今の僕を好いてくれているのか気にしてしまう。
夕美がそっと、口を開く。
「……ちょっと、考えてみる。あたしもそろそろ、陽奈と向き合う時ってことかもな。会うかどうか、自分で決めるよ」
そして、互いの連絡先を交換した後、夕美に陽奈の連絡先を送る。僕から陽奈には、何も言わない。夕美の決心がついたら、彼女の方から連絡する形になる。
これで一応、僕の役目は終わった。
「もしかしたら、また会えなくなるかもしれない」
僕は無意識に、そんなことを口走っていた。
「なぜ?」
「四月に、転勤することになったんだ。場所はまだわからないけど」
「ふうん、そう」
僕がもう少し明るい性格なら、ここで冗談でも言えるのだろうけど。生憎、面白いことは何一つ言えやしない。
それから、僕たちは一緒にバーを出て、駅まで歩いた。夕美は最近起きた殺人事件の話題を出し、僕もそれに乗って物騒なニュースについて喋りはじめた。
こんな適当な会話で別れを告げたのは、安心していたからだろう。
夕美の、連絡先を知ることができた。
だから大丈夫だ。僕たちはきっと、また会うことができる。