猫と兎
28 告白
陽奈から電話がきたのは、三月に入ったばかりの日曜の夜だった。
レトルトカレーを食べながら、つまらないバラエティ番組を見ていた僕は、慌ててテレビを消し水を一口飲み込む。
「志貴くん、今大丈夫?」
「うん、どうした?」
陽奈から連絡がきた理由なんて、一つしかないと思いつつ、聞く。
「今日、夕美と会ってきたよ」
陽奈の声は、タンポポの綿毛のように軽く弾んでいた。
二人は昼間、ショッピングモールで待ち合わせ、そこで半日過ごしたのだという。そのショッピングモールというのは、僕たちの地元にある田舎くさいところで、決して二十代の女性が好き好んでいく場所ではない。しかし、そこには僕の知らない二人の思い出が沢山詰まっているのだろう。
「好きだった雑貨屋さんが無くなっててショックだったなぁ……。服屋さんも違う名前になってたし」
「そっか。卒業してから、もう随分経つもんな」
長電話になりそうだと思い、充電プラグを差し込み、そのままベッドに横たわる。陽奈は夕美とのデート内容を、食事のメニューに至るまで詳細に報告してくる。僕と付き合っていたときも、こんな風に夕美に告げていたのかもしれないと思うと、気恥ずかしくなってくる。まあ、陽奈はそんなところが可愛いから仕方がない。
「そんな感じでお店見てたら、久しぶりっていう気がしなくなっちゃって。なんだか不思議だよね。卒業以来、一度も会ってなかったのに」
「うん。楽しそうで、良かったよ」
「えへへ。ありがとう、志貴くん」
こうしていると、付き合っていた頃を思い出す。電話でいくつもの未来を語り、約束を交わした。そのほとんどは、果たされることが無く、終わってしまった。幼い恋愛。そう言い切ることは簡単だけれど、あのときの僕たちは、それでも必死に恋をしていたのだと思う。
「それで、さ」
「ん?」
陽奈の声のトーンが急に切り替わり、過去の情景に囚われていた僕は少し反応が遅れる。
「夕美に、謝られたの。でもわたし、なんとなく気づいてたんだ。認めてなかっただけで。だから、許してるよ。もちろん、志貴くんのことも」
その言葉で、夕美が陽奈と向き合ったのだということが、ハッキリと分かった。
婚約者に裏切られたばかりの陽奈に、高校時代の話を蒸し返すのは、それはそれで酷だっただろう。けれど、陽奈と夕美が真の意味で「再会」するために、それは避けて通れない。
僕は、心の奥底で、この展開を予想していた。願ってもいた。そう、僕は狡猾だった。自分の口から、陽奈に真実を告げ、許しを乞うことをしなかったのだ。
「わたし、婚約までいってダメになったでしょ?だから、変に図太くなっちゃったのかな。今さらそんな昔の話聞いても、別に平気だなあって」
僕は相槌すら打っていないのに、陽奈は喋るのを止めない。止めろよ、止めてくれ。そう思うのに、声が出ない。
ふいに、過去の台詞がよみがえる。コーヒー・チェーンでの、あの会話が。
今の僕は。何が悪かったのか、しっかり解っている。だから、今ここで言わないと、もう取り返しがつかなくなる。
「陽奈!」
「あ、うん?」
僕はゆっくり息を吐き、整える。
「僕からも、謝らせて。陽奈を裏切って、ごめん。そして、それを今まで言わなくて、本当にごめん」
陽奈は何も答えない。
「一番謝らなくちゃいけないのは、自分がやったことに向き合うのが恐くて、陽奈を忘れようとしてきたこと。陽奈との思い出まで、消してしまおうとしていたこと。僕は何度、陽奈を傷つけてるんだろうな?情けないよ、あんなに好きだった、僕の初めての彼女なのにさ」
僕が今、どれだけ言葉を尽くしても。どれだけ想いを打ち明けても。過去は変わらない。罪は消せない。どうすることもできない。けれど僕は、伝えなくちゃいけない。
「陽奈との約束を果たせる未来だって、絶対にあった筈なんだ。波流と再会してから、陽奈との今までのこと、思い出した。僕が陽奈のことをもっと考えて、思いやって、歩み寄って行けば、良かっただけなんだ。でも、あの時の僕には、できなかった。いや、しなかったんだ」
「……志貴くん、ねえ志貴くん、大丈夫?」
陽奈の声色で、僕はようやく、自分が泣いているのだということに気付く。
「わたしは、今のわたしは。本当に、大丈夫だよ。それに、悪いのは志貴くんだけじゃない。わたしだって、ワガママ言いすぎたし」
「そんなこと、ない」
「あとね、わたしもちょっと、ズルいとこあるんだよ?夕美が志貴くんのこと好きなの気づいてて、付き合ったし」
「……はい?」
ダメだ。もう感情がグチャグチャで、まともな受け答えも何もあったもんじゃない。陽奈の言葉も、今一つ理解できない。
「今日もね、夕美に意地悪しちゃった。今も志貴くんのこと好きなの、って聞いたの。口では別に、って言ってたけどね」
「う、うん」
さっきから陽奈は、何を言っているんだ?
「わたしは今でも、志貴くんのことが好きだよ。えっと……ちょっと違うかな?今の志貴くんも、好き、ってこと」
驚きすぎると人間、言葉を無くすらしい。これが対面だと、僕の腑抜けた表情で展開が進むのだろうけど。陽奈が小さく、今言うつもりじゃなかったのに、やら、何か勢いで言っちゃった、やら、そんなことを呟いている。布団を被って顔を真っ赤にしているのを想像したところで、僕の意識も戻ってくる。
「僕は、陽奈を何度も傷つけた男だよ?」
「でも、嫌いにはなれないの。この前、食事に連れて行ってくれたでしょ?一緒に美味しい物食べて、傍を歩いて、隣に座って。志貴くんと居ると、やっぱり、落ち着くなあって思ったの」
コホン、と陽奈が咳払いをする。
「けど、志貴くん転勤しちゃうんだよね?」
「えっ!?」
それを誰から聞いた、と口に出す前に、夕美に箝口令を出していなかったことに気付く。ああ、そうだよな、話の流れで僕の転勤のことくらい、言ってもおかしくはない。
「志貴くんさえ良かったら、だけどさ。彼女として、わたしを連れて行ってくれませんか?」
レトルトカレーを食べながら、つまらないバラエティ番組を見ていた僕は、慌ててテレビを消し水を一口飲み込む。
「志貴くん、今大丈夫?」
「うん、どうした?」
陽奈から連絡がきた理由なんて、一つしかないと思いつつ、聞く。
「今日、夕美と会ってきたよ」
陽奈の声は、タンポポの綿毛のように軽く弾んでいた。
二人は昼間、ショッピングモールで待ち合わせ、そこで半日過ごしたのだという。そのショッピングモールというのは、僕たちの地元にある田舎くさいところで、決して二十代の女性が好き好んでいく場所ではない。しかし、そこには僕の知らない二人の思い出が沢山詰まっているのだろう。
「好きだった雑貨屋さんが無くなっててショックだったなぁ……。服屋さんも違う名前になってたし」
「そっか。卒業してから、もう随分経つもんな」
長電話になりそうだと思い、充電プラグを差し込み、そのままベッドに横たわる。陽奈は夕美とのデート内容を、食事のメニューに至るまで詳細に報告してくる。僕と付き合っていたときも、こんな風に夕美に告げていたのかもしれないと思うと、気恥ずかしくなってくる。まあ、陽奈はそんなところが可愛いから仕方がない。
「そんな感じでお店見てたら、久しぶりっていう気がしなくなっちゃって。なんだか不思議だよね。卒業以来、一度も会ってなかったのに」
「うん。楽しそうで、良かったよ」
「えへへ。ありがとう、志貴くん」
こうしていると、付き合っていた頃を思い出す。電話でいくつもの未来を語り、約束を交わした。そのほとんどは、果たされることが無く、終わってしまった。幼い恋愛。そう言い切ることは簡単だけれど、あのときの僕たちは、それでも必死に恋をしていたのだと思う。
「それで、さ」
「ん?」
陽奈の声のトーンが急に切り替わり、過去の情景に囚われていた僕は少し反応が遅れる。
「夕美に、謝られたの。でもわたし、なんとなく気づいてたんだ。認めてなかっただけで。だから、許してるよ。もちろん、志貴くんのことも」
その言葉で、夕美が陽奈と向き合ったのだということが、ハッキリと分かった。
婚約者に裏切られたばかりの陽奈に、高校時代の話を蒸し返すのは、それはそれで酷だっただろう。けれど、陽奈と夕美が真の意味で「再会」するために、それは避けて通れない。
僕は、心の奥底で、この展開を予想していた。願ってもいた。そう、僕は狡猾だった。自分の口から、陽奈に真実を告げ、許しを乞うことをしなかったのだ。
「わたし、婚約までいってダメになったでしょ?だから、変に図太くなっちゃったのかな。今さらそんな昔の話聞いても、別に平気だなあって」
僕は相槌すら打っていないのに、陽奈は喋るのを止めない。止めろよ、止めてくれ。そう思うのに、声が出ない。
ふいに、過去の台詞がよみがえる。コーヒー・チェーンでの、あの会話が。
今の僕は。何が悪かったのか、しっかり解っている。だから、今ここで言わないと、もう取り返しがつかなくなる。
「陽奈!」
「あ、うん?」
僕はゆっくり息を吐き、整える。
「僕からも、謝らせて。陽奈を裏切って、ごめん。そして、それを今まで言わなくて、本当にごめん」
陽奈は何も答えない。
「一番謝らなくちゃいけないのは、自分がやったことに向き合うのが恐くて、陽奈を忘れようとしてきたこと。陽奈との思い出まで、消してしまおうとしていたこと。僕は何度、陽奈を傷つけてるんだろうな?情けないよ、あんなに好きだった、僕の初めての彼女なのにさ」
僕が今、どれだけ言葉を尽くしても。どれだけ想いを打ち明けても。過去は変わらない。罪は消せない。どうすることもできない。けれど僕は、伝えなくちゃいけない。
「陽奈との約束を果たせる未来だって、絶対にあった筈なんだ。波流と再会してから、陽奈との今までのこと、思い出した。僕が陽奈のことをもっと考えて、思いやって、歩み寄って行けば、良かっただけなんだ。でも、あの時の僕には、できなかった。いや、しなかったんだ」
「……志貴くん、ねえ志貴くん、大丈夫?」
陽奈の声色で、僕はようやく、自分が泣いているのだということに気付く。
「わたしは、今のわたしは。本当に、大丈夫だよ。それに、悪いのは志貴くんだけじゃない。わたしだって、ワガママ言いすぎたし」
「そんなこと、ない」
「あとね、わたしもちょっと、ズルいとこあるんだよ?夕美が志貴くんのこと好きなの気づいてて、付き合ったし」
「……はい?」
ダメだ。もう感情がグチャグチャで、まともな受け答えも何もあったもんじゃない。陽奈の言葉も、今一つ理解できない。
「今日もね、夕美に意地悪しちゃった。今も志貴くんのこと好きなの、って聞いたの。口では別に、って言ってたけどね」
「う、うん」
さっきから陽奈は、何を言っているんだ?
「わたしは今でも、志貴くんのことが好きだよ。えっと……ちょっと違うかな?今の志貴くんも、好き、ってこと」
驚きすぎると人間、言葉を無くすらしい。これが対面だと、僕の腑抜けた表情で展開が進むのだろうけど。陽奈が小さく、今言うつもりじゃなかったのに、やら、何か勢いで言っちゃった、やら、そんなことを呟いている。布団を被って顔を真っ赤にしているのを想像したところで、僕の意識も戻ってくる。
「僕は、陽奈を何度も傷つけた男だよ?」
「でも、嫌いにはなれないの。この前、食事に連れて行ってくれたでしょ?一緒に美味しい物食べて、傍を歩いて、隣に座って。志貴くんと居ると、やっぱり、落ち着くなあって思ったの」
コホン、と陽奈が咳払いをする。
「けど、志貴くん転勤しちゃうんだよね?」
「えっ!?」
それを誰から聞いた、と口に出す前に、夕美に箝口令を出していなかったことに気付く。ああ、そうだよな、話の流れで僕の転勤のことくらい、言ってもおかしくはない。
「志貴くんさえ良かったら、だけどさ。彼女として、わたしを連れて行ってくれませんか?」