猫と兎
03 陽奈
陽奈と一番最初にどんな会話をしたのか、僕はすっかり忘れてしまっていた。
しかし、陽奈の方がそれをよく覚えていて、付き合ってから三ヶ月ほど経った頃、そんな話をされたことがあった。
告白したのは僕からだったけれど、陽奈の方も僕を意識してくれていたのだと、内心嬉しくて嬉しくて叫びそうになっていた。
「入部届を出しに職員室に行ったんだけど、なんとなくこわくて入れなかったの。そしたらたまたま立野くんが来て、僕もサッカー部の出すから宇崎さんのも一緒に、って」
「そんなことあった、ような気もするような……」
「あったんだよー?そうじゃなきゃ、わたし合唱部に入れなかったもん」
「おいおい」
僕たちはよく、学校帰りに駅前のコーヒー・チェーンに寄った。乗る電車が真逆なので、すぐに帰りたくないときはそこで過ごしていた。
陽奈と付き合っていることは、僕の男友達が大々的に宣伝してくれやがったので、学年全員が知っていた。なので、二人でいるとことを見られても、特に問題なかったのだ。
陽奈はコーヒーが飲めなかった。砂糖をどっさり入れたカフェラテが限界で、大体いつもミルクティーだった。両手でマグカップを持ち、こくこくと飲みこむその姿は、さながらウサギのようであった。
「可愛いな、陽奈は」
「そんなこと言ってくれるの、立野くんだけだよ」
本人はそう謙遜していたが、陽奈の可愛さは万人に通ずるものであった。肩に落ちるストレートの黒髪。丸く大きな瞳。スカートは膝丈で、冬はブレザーの下に白いセーター。清純な日本の女子高生像をそのまま写し取ったのが、彼女だった。
品行方正で、成績は中の上。布カバー付きの文庫本が似合いそうな容姿だが、文系というよりは理系で、化学が一番好きなのだと言っていた。その代わり、運動はかなりダメ。持久走ではすぐにヘタるし、前屈をすればすぐに悲鳴を上げた。球技に至っては、そもそも興味が持てないと漏らしており、ルールすらきちんとわかっていない状態だった。サッカーだけは、僕に気を遣ってか、勉強してくれた。
あの当時、大半の男子は陽奈のことが気になっていたのだと思う。クラスの女子のランク付けでは文句なしの一番だったし、それだけに本気で告白しようとする猛者は中々現れなかった。
二年生になって、修学旅行の話題が出た頃。それまでに、彼氏彼女を作りたいという雰囲気が立ち込めてきた。僕だって、健康な男子だったから、それにまんまと飲まれてしまったわけで。誰かに取られる前に、とアプローチを開始した。とてもわかりやすく、稚拙なものだったけど、真剣さは伝わったのだと思う。
陽奈は、僕の彼女になってくれた。
「そうだ、次の日曜、部活午前中だけなんだ。陽奈は?」
「わたしも、午前中だけど……」
「じゃあ、そっから遊びに行こう!」
「ごめん、夕美と買い物行く約束してるの」
「そっかー」
いじける僕の頭を、陽奈は小さな手でぽんぽんと撫でてくれた。
「修学旅行の服、買いに行くの。その、水着、とかも……」
「おおっ!水着!」
修学旅行は沖縄だった。もちろん、海に入る。水着にもなる。僕も男友達も、少年誌のグラビアでいちいち騒いでいた程度の純粋さだったから、クラスの女子の水着というのは充分に刺激が強かった。
「だから、楽しみにしててね?」
「するする!」
下心全開の僕のはしゃぎ様に、陽奈はとても寛容だった。この時僕たちは、手を繋ぐくらいで、キスまではたどり着いていなかった。それを男連中に言うと、さっさと押し倒せと囃し立てられたものだが。
陽奈にだって、そういう期待があると確信していた。けれど、僕は彼女を大事にしたかった。付き合って三ヶ月で手を出すなんて、とんだ早漏野郎のすることだと考えていたのである。僕の中では、修学旅行が終わってから、という計画があった。イベント時に彼女がいないのが寂しいから付き合ったのではない、ということの証明になると思っていたのである。
それに、陽奈はまだ、僕のことを下の名前で呼んでくれていなかった。僕はそのことに、若干のよそよそしさを感じていた。
「そろそろ終電じゃない?」
波流がそう言うので、慌てて腕時計を見る。明日は溜まった家事の消化や消耗品の買い出しをしたいので、ちゃんと帰ると言ってあった。
「ほんとだ。これ飲んだら、出るよ」
「了解」
グラスに半分ほど残っていたウイスキーを一気に飲み干す。そこまでギリギリの時間ではないので、流し込む必要は無かったかと少し後悔する。今日は波流に奢っていないので、勘定は前よりも安い。
波流は後ろを向き、引き出しの中からお釣りと一緒に小さなケースを取り出す。
「私の名刺、まだ渡してないよね?」
「うん」
「えー、香取波流です」
名刺は濃い緑色で、アルファベットで店の名前も書いてあるのだが、読み方がよくわからない。僕は名刺を持っていないので、畏まった挨拶だけを返す。
「どうも。|立野志貴《たつのしきです」
しかし、陽奈の方がそれをよく覚えていて、付き合ってから三ヶ月ほど経った頃、そんな話をされたことがあった。
告白したのは僕からだったけれど、陽奈の方も僕を意識してくれていたのだと、内心嬉しくて嬉しくて叫びそうになっていた。
「入部届を出しに職員室に行ったんだけど、なんとなくこわくて入れなかったの。そしたらたまたま立野くんが来て、僕もサッカー部の出すから宇崎さんのも一緒に、って」
「そんなことあった、ような気もするような……」
「あったんだよー?そうじゃなきゃ、わたし合唱部に入れなかったもん」
「おいおい」
僕たちはよく、学校帰りに駅前のコーヒー・チェーンに寄った。乗る電車が真逆なので、すぐに帰りたくないときはそこで過ごしていた。
陽奈と付き合っていることは、僕の男友達が大々的に宣伝してくれやがったので、学年全員が知っていた。なので、二人でいるとことを見られても、特に問題なかったのだ。
陽奈はコーヒーが飲めなかった。砂糖をどっさり入れたカフェラテが限界で、大体いつもミルクティーだった。両手でマグカップを持ち、こくこくと飲みこむその姿は、さながらウサギのようであった。
「可愛いな、陽奈は」
「そんなこと言ってくれるの、立野くんだけだよ」
本人はそう謙遜していたが、陽奈の可愛さは万人に通ずるものであった。肩に落ちるストレートの黒髪。丸く大きな瞳。スカートは膝丈で、冬はブレザーの下に白いセーター。清純な日本の女子高生像をそのまま写し取ったのが、彼女だった。
品行方正で、成績は中の上。布カバー付きの文庫本が似合いそうな容姿だが、文系というよりは理系で、化学が一番好きなのだと言っていた。その代わり、運動はかなりダメ。持久走ではすぐにヘタるし、前屈をすればすぐに悲鳴を上げた。球技に至っては、そもそも興味が持てないと漏らしており、ルールすらきちんとわかっていない状態だった。サッカーだけは、僕に気を遣ってか、勉強してくれた。
あの当時、大半の男子は陽奈のことが気になっていたのだと思う。クラスの女子のランク付けでは文句なしの一番だったし、それだけに本気で告白しようとする猛者は中々現れなかった。
二年生になって、修学旅行の話題が出た頃。それまでに、彼氏彼女を作りたいという雰囲気が立ち込めてきた。僕だって、健康な男子だったから、それにまんまと飲まれてしまったわけで。誰かに取られる前に、とアプローチを開始した。とてもわかりやすく、稚拙なものだったけど、真剣さは伝わったのだと思う。
陽奈は、僕の彼女になってくれた。
「そうだ、次の日曜、部活午前中だけなんだ。陽奈は?」
「わたしも、午前中だけど……」
「じゃあ、そっから遊びに行こう!」
「ごめん、夕美と買い物行く約束してるの」
「そっかー」
いじける僕の頭を、陽奈は小さな手でぽんぽんと撫でてくれた。
「修学旅行の服、買いに行くの。その、水着、とかも……」
「おおっ!水着!」
修学旅行は沖縄だった。もちろん、海に入る。水着にもなる。僕も男友達も、少年誌のグラビアでいちいち騒いでいた程度の純粋さだったから、クラスの女子の水着というのは充分に刺激が強かった。
「だから、楽しみにしててね?」
「するする!」
下心全開の僕のはしゃぎ様に、陽奈はとても寛容だった。この時僕たちは、手を繋ぐくらいで、キスまではたどり着いていなかった。それを男連中に言うと、さっさと押し倒せと囃し立てられたものだが。
陽奈にだって、そういう期待があると確信していた。けれど、僕は彼女を大事にしたかった。付き合って三ヶ月で手を出すなんて、とんだ早漏野郎のすることだと考えていたのである。僕の中では、修学旅行が終わってから、という計画があった。イベント時に彼女がいないのが寂しいから付き合ったのではない、ということの証明になると思っていたのである。
それに、陽奈はまだ、僕のことを下の名前で呼んでくれていなかった。僕はそのことに、若干のよそよそしさを感じていた。
「そろそろ終電じゃない?」
波流がそう言うので、慌てて腕時計を見る。明日は溜まった家事の消化や消耗品の買い出しをしたいので、ちゃんと帰ると言ってあった。
「ほんとだ。これ飲んだら、出るよ」
「了解」
グラスに半分ほど残っていたウイスキーを一気に飲み干す。そこまでギリギリの時間ではないので、流し込む必要は無かったかと少し後悔する。今日は波流に奢っていないので、勘定は前よりも安い。
波流は後ろを向き、引き出しの中からお釣りと一緒に小さなケースを取り出す。
「私の名刺、まだ渡してないよね?」
「うん」
「えー、香取波流です」
名刺は濃い緑色で、アルファベットで店の名前も書いてあるのだが、読み方がよくわからない。僕は名刺を持っていないので、畏まった挨拶だけを返す。
「どうも。|立野志貴《たつのしきです」