猫と兎
31 勇気
土曜日の夕方。夕美からわざわざ「メッシュ」という一文が送られてきたのは、彼女なりのハッキリした意思表示だ、と思った。
バーの名前を送ってこられなくても、僕はそこへ行くつもりだったし、夕美もそれを知っていただろう。
今回、夕美があえてそうしなかったのは、今までとは違う、と言いたいのだろう。
「待った?」
「ん、30分ほど」
夕美は先に来ており、既に一杯か二杯飲んでいたようだったが、どこか違和感があった。
「あれ、タバコは?」
「今日は吸わない。っていうか、やめようかなって」
僕はウイスキーを注文した。店はそこそこ混んでいて、若いカップルの姿もあった。
夕美はシンプルなカットソーに細身のデニムを履いていて、飾り気の無い姿がむしろ女性らしく見えた。
珍しく夕美は自分の仕事の話を始めた。転勤はないが、部署の異動はあるらしく、年度末で彼女も配置換えになりそうだとのことだった。
「後輩も増えていくし、いつまでも新入社員気分でいられないよね」
「僕もそうだよ。あ、そういえばさ……」
僕は門木の話をする。夕美は手が早すぎる、と笑う。
ゆったりとした時間が流れる。夕美もきっと、こういう時間を望んでいたのだと信じて、僕は会話を進めていく。
高校生の時、コーヒー・チェーンでも。今日と似た日があった。問題集を解きながら、他愛もない話を、二人で。
「陽奈のことだけどさ」
唐突に夕美が陽奈の名前を出すので、僕は身構える。
「久しぶりに二人で会ったとき、思ったんだ。あたしはずっと陽奈を頼ってたんだなって」
「陽奈は、夕美に頼ってばっかりだったって言ってたけど?」
「まあ、あの子はそう思ってるかもしれないけどさ。あたしだって、陽奈の存在に助けられた事は何度もあった」
ふぅ、っと夕美が息をつく。
「あたしって、どうも女の子ってやつが苦手でさ。陽奈みたいなタイプも、まさに天敵の筈だった」
「というと?」
「ああいう可愛くて品行方正で、女友達が多いような子。なんだか、眩しかったんだよ。あたしは絶対にああなれないって、妬んでた」
そういえば、この二人が仲良くなったきっかけを知らない、と僕は思った。
「何で一緒にいるようになったの?」
「一番初めの体育の時。背の順でペア組まされて、柔軟体操やったんだけど、陽奈がバカみたいに固くてね」
「ああ……ひどい運動音痴だからな」
「こんなに可愛い子でも欠点くらいあるよな、なんて妙に安心して。あたしが笑ったら、陽奈がむくれて」
僕はその時の陽奈の顔を容易に想像できた。
「そこからじゃれあってたら、陽奈がやたらあたしに話しかけてくれるようになって。そんな、些細なことだよ」
夕美はウイスキーを注文する。僕と同じ、モーレンジィのロックだ。
「陽奈があたしの何に惹かれたのかはわからない。ただ言えるのは、あたしたちは対照的だった。だから喧嘩もした。言いたいことも言った」
口の渇きを癒そうと、僕もグラスに唇をつける。甘い香りが鼻孔をくすぐる。夕美の話を最後まで聞くのは、少しこわい。それでも僕は、聞かなければならない。
「だけど、志貴のことだけは、ハッキリ言わなかった。お互いに。それが、ダメだったんだろう」
本当に悪いのは僕だ、と言いかけて、やめる。夕美はそんな言葉を望んではいないだろうから。
「志貴と波流のお陰で、陽奈と再会できたことは、感謝してる。ありがとう」
「……なんで、泣きそうな顔で言うんだよ」
夕美は、やっぱりダメだ、と呟いてタバコを取り出す。
「なあ、志貴」
「ん?」
「陽奈を連れて行ってやれ。あいつなら、いい嫁になるよ。高校時代の約束を、ちゃんと叶えてやれよ」
陽奈との、高校時代の約束。沢山の約束があった。そのいくつかを、陽奈は夕美にも話していたのだろう。
レンタカーで沖縄に行く。スーパーにジャージで買い物に行く。それからもっと先、結婚、子供……。高校生の思いつく限りの、可愛らしい約束の数々。
夕美の言う通り、今からでも叶えてやれる。今の僕なら、そうすることができる。
「もう、出ようか。一人で考えたいんだ」
明日は日曜日。
陽奈に、僕の考え、いや、僕の気持ちを、しっかりと伝えなくてはならない。
バーの名前を送ってこられなくても、僕はそこへ行くつもりだったし、夕美もそれを知っていただろう。
今回、夕美があえてそうしなかったのは、今までとは違う、と言いたいのだろう。
「待った?」
「ん、30分ほど」
夕美は先に来ており、既に一杯か二杯飲んでいたようだったが、どこか違和感があった。
「あれ、タバコは?」
「今日は吸わない。っていうか、やめようかなって」
僕はウイスキーを注文した。店はそこそこ混んでいて、若いカップルの姿もあった。
夕美はシンプルなカットソーに細身のデニムを履いていて、飾り気の無い姿がむしろ女性らしく見えた。
珍しく夕美は自分の仕事の話を始めた。転勤はないが、部署の異動はあるらしく、年度末で彼女も配置換えになりそうだとのことだった。
「後輩も増えていくし、いつまでも新入社員気分でいられないよね」
「僕もそうだよ。あ、そういえばさ……」
僕は門木の話をする。夕美は手が早すぎる、と笑う。
ゆったりとした時間が流れる。夕美もきっと、こういう時間を望んでいたのだと信じて、僕は会話を進めていく。
高校生の時、コーヒー・チェーンでも。今日と似た日があった。問題集を解きながら、他愛もない話を、二人で。
「陽奈のことだけどさ」
唐突に夕美が陽奈の名前を出すので、僕は身構える。
「久しぶりに二人で会ったとき、思ったんだ。あたしはずっと陽奈を頼ってたんだなって」
「陽奈は、夕美に頼ってばっかりだったって言ってたけど?」
「まあ、あの子はそう思ってるかもしれないけどさ。あたしだって、陽奈の存在に助けられた事は何度もあった」
ふぅ、っと夕美が息をつく。
「あたしって、どうも女の子ってやつが苦手でさ。陽奈みたいなタイプも、まさに天敵の筈だった」
「というと?」
「ああいう可愛くて品行方正で、女友達が多いような子。なんだか、眩しかったんだよ。あたしは絶対にああなれないって、妬んでた」
そういえば、この二人が仲良くなったきっかけを知らない、と僕は思った。
「何で一緒にいるようになったの?」
「一番初めの体育の時。背の順でペア組まされて、柔軟体操やったんだけど、陽奈がバカみたいに固くてね」
「ああ……ひどい運動音痴だからな」
「こんなに可愛い子でも欠点くらいあるよな、なんて妙に安心して。あたしが笑ったら、陽奈がむくれて」
僕はその時の陽奈の顔を容易に想像できた。
「そこからじゃれあってたら、陽奈がやたらあたしに話しかけてくれるようになって。そんな、些細なことだよ」
夕美はウイスキーを注文する。僕と同じ、モーレンジィのロックだ。
「陽奈があたしの何に惹かれたのかはわからない。ただ言えるのは、あたしたちは対照的だった。だから喧嘩もした。言いたいことも言った」
口の渇きを癒そうと、僕もグラスに唇をつける。甘い香りが鼻孔をくすぐる。夕美の話を最後まで聞くのは、少しこわい。それでも僕は、聞かなければならない。
「だけど、志貴のことだけは、ハッキリ言わなかった。お互いに。それが、ダメだったんだろう」
本当に悪いのは僕だ、と言いかけて、やめる。夕美はそんな言葉を望んではいないだろうから。
「志貴と波流のお陰で、陽奈と再会できたことは、感謝してる。ありがとう」
「……なんで、泣きそうな顔で言うんだよ」
夕美は、やっぱりダメだ、と呟いてタバコを取り出す。
「なあ、志貴」
「ん?」
「陽奈を連れて行ってやれ。あいつなら、いい嫁になるよ。高校時代の約束を、ちゃんと叶えてやれよ」
陽奈との、高校時代の約束。沢山の約束があった。そのいくつかを、陽奈は夕美にも話していたのだろう。
レンタカーで沖縄に行く。スーパーにジャージで買い物に行く。それからもっと先、結婚、子供……。高校生の思いつく限りの、可愛らしい約束の数々。
夕美の言う通り、今からでも叶えてやれる。今の僕なら、そうすることができる。
「もう、出ようか。一人で考えたいんだ」
明日は日曜日。
陽奈に、僕の考え、いや、僕の気持ちを、しっかりと伝えなくてはならない。