猫と兎
08 告げられた事実
「ああ、立野くん!この前、夕美ちゃんがうちに来たよ!」
何の前置きもなく、波流がいきなりそう言った。
夕美が波流のバーを訪れたのは、僕と同じく、本当に偶然だったのだという。夕美の方がすぐ波流のことに気付き、二人はそこまで親しくなかったのにも関わらず、その日は大いに盛り上がったとのこと。
「あの子、かなりの酒好きでさ。ガンガン飲んで、上機嫌で帰っていったよ」
「想像通りだな。あいつはいかにも、そういう女になりそうだった」
「教師に何言われても平気って感じでさ、ある意味憧れてたな。でね、頑なにジャージ着てたよねって言ったら、黒歴史だからやめてくれって」
「あれ、黒歴史なのか……」
「今は真面目に、スーツ着てるって言ってたよ。そのときも、グレーのパンツスーツだった」
波流はよっぽど嬉しかったのか、普段より早いペースで喋る喋る。僕は相槌を打つだけの機械と化している。そして柄にもなく、カシスオレンジを頼むことにする。
「けっこう美人さんになってたけど、残念ながら男連れでした」
「ふうん。彼氏?」
「多分、そうじゃないかな。その人がうちの店知ってて、夕美ちゃんを連れてきたみたい」
僕の知っている夕美の動向は、志望校だった国公立に無事進学したこと。それより先を、波流が聞いたのかと思いきや、そこを卒業したことまでしか話していないらしい。今の仕事については、あまり聞いてほしくないような雰囲気があったそうだ。
「それにしても、妙な話だよね。私がここにいるっていうのを知らない同級生に限って、別ルートで来るなんてさ」
「僕も元は、職場の先輩に連れられてきた人だしね」
「夕美ちゃんに、立野くんがうちに来てることは話しておいたから、また会えるかもよ?陽奈ちゃん繋がりでけっこう仲良かったんでしょ?」
「まあ、それなりにね」
ドアが開き、四人組の客が入ってくる。僕は半分ほど残ったカシスオレンジを持ち、奥の席に詰める。そして波流が彼らの応対をしている間、夕美のことを一つ一つ整理していく。
夕美は僕と同じ生活圏にいて、酒飲みになっていた。そして、僕と同じように、偶然この店に来た。今はどういう仕事をしているのか?一緒にいた男というのは本当に恋人なのか?彼女は僕がこの店に来ていることを知っているのか?そんな疑問を押し殺すため、唇を噛む。そして、情けなくなる。
再会できるかもしれない、という期待を持っていることに。
「何か要る?」
四人分の酒を作り終えた波流が、僕のところに戻ってくる。
「じゃあ、ウイスキーで」
「はいよ。ロックでいいよね」
これを飲んだら今日は帰ろう、と心の中で呟く。銘柄を言わなかったのにも関わらず、波流は真っ直ぐ一つの瓶を取る。そして彼女に、本来聞くつもりではなかったことを尋ねる。
「なあ、夕美はまだ、陽奈と仲いいのか?」
氷を割りながら、波流は静かに首を振る。
「立野くんと同じ。高校のときのメンバーとは、連絡取ってないって言ってたよ」
「そっか……」
「でね、夕美ちゃんにも聞かれたんだ。陽奈ちゃんが今どうしてるかって」
波流の鋭い視線が僕を貫く。君も陽奈の現在を聞きたいか?そう言われている気がする。
「……なあ、陽奈は元気なのか?」
ウイスキー・グラスをカウンターに置き、波流は話し始める。
「あくまで今年の一月に聞いた話だけど。仕事は派遣で事務やってる。それで、そこの社員と婚約してる。式は冬だ、って言ってた」
「冬、か」
「うん。もうすぐだね」
たった数秒の、簡潔な説明。波流はあえて、そうしたのだろう、と思う。昔の恋人が結婚すると聞いて、心穏やかでいられる年齢に、僕はまだ達していない。まして、あんな別れ方をしたのだから。
「やっぱりショック?」
「それなりにね」
「立野くんたち、本当に仲よかったもんね」
僕はそれなりどころか、相当ひどい表情をしているらしい。波流が悲しそうに笑う。僕は自ら追い打ちをかけるかのように、質問を続ける。
「陽奈は僕のこと、何か言ってた?」
「会いたい、とは言ってた。あまりいい別れ方をしてないから、もう一度話したいって。立野くんのことは、本当に素敵な思い出だってさ」
波流はお世辞を言いすぎるところがあるから、実際のセリフからマイナス要素を削ぎ落としているのだろう。僕はそれを真に受けないことにする。陽奈の相手は、きっと僕の何倍もしっかりした男性で、社会的にも、人格的にも、申し分ない人物なのだろう。そんな自虐を口に出して余計虚しくなる前に、僕はごくごく当たり前の感想を述べる。
「みんな、変わっていくんだな。就職して、結婚して、子供を持って」
「そうだね。立野くんももう少ししたら、男友達の結婚フィーバーで祝儀貧乏になる時期がくるよ」
「はは。貯金しておかなくちゃな」
「まあ、それを取り戻したいと思うなら、自分もちゃっちゃと式挙げちゃうことだね」
「その前に、相手がいない」
「うん。私も多分、結婚できない」
僕は波流にもウイスキーを薦める。最後の一杯のはずが、結局三杯になり、終電ギリギリの時間にようやく席を立つ。
陽奈も夕美も、僕のいない、別な未来を歩んでいる。僕だって、彼女らのいない日々を平然と生きている。だから、知っていた。解っていた。それなのに、事実をきっちり突きつけられると、目を逸らしていれば良かったのにと思う。
なぜ僕は、波流のいるバーに引き寄せられた?過去の失恋を蒸し返すためにか?
自棄になりきれない性格と、酔いきれない身体を呪う。
せっかく、忘れていたのに。
何の前置きもなく、波流がいきなりそう言った。
夕美が波流のバーを訪れたのは、僕と同じく、本当に偶然だったのだという。夕美の方がすぐ波流のことに気付き、二人はそこまで親しくなかったのにも関わらず、その日は大いに盛り上がったとのこと。
「あの子、かなりの酒好きでさ。ガンガン飲んで、上機嫌で帰っていったよ」
「想像通りだな。あいつはいかにも、そういう女になりそうだった」
「教師に何言われても平気って感じでさ、ある意味憧れてたな。でね、頑なにジャージ着てたよねって言ったら、黒歴史だからやめてくれって」
「あれ、黒歴史なのか……」
「今は真面目に、スーツ着てるって言ってたよ。そのときも、グレーのパンツスーツだった」
波流はよっぽど嬉しかったのか、普段より早いペースで喋る喋る。僕は相槌を打つだけの機械と化している。そして柄にもなく、カシスオレンジを頼むことにする。
「けっこう美人さんになってたけど、残念ながら男連れでした」
「ふうん。彼氏?」
「多分、そうじゃないかな。その人がうちの店知ってて、夕美ちゃんを連れてきたみたい」
僕の知っている夕美の動向は、志望校だった国公立に無事進学したこと。それより先を、波流が聞いたのかと思いきや、そこを卒業したことまでしか話していないらしい。今の仕事については、あまり聞いてほしくないような雰囲気があったそうだ。
「それにしても、妙な話だよね。私がここにいるっていうのを知らない同級生に限って、別ルートで来るなんてさ」
「僕も元は、職場の先輩に連れられてきた人だしね」
「夕美ちゃんに、立野くんがうちに来てることは話しておいたから、また会えるかもよ?陽奈ちゃん繋がりでけっこう仲良かったんでしょ?」
「まあ、それなりにね」
ドアが開き、四人組の客が入ってくる。僕は半分ほど残ったカシスオレンジを持ち、奥の席に詰める。そして波流が彼らの応対をしている間、夕美のことを一つ一つ整理していく。
夕美は僕と同じ生活圏にいて、酒飲みになっていた。そして、僕と同じように、偶然この店に来た。今はどういう仕事をしているのか?一緒にいた男というのは本当に恋人なのか?彼女は僕がこの店に来ていることを知っているのか?そんな疑問を押し殺すため、唇を噛む。そして、情けなくなる。
再会できるかもしれない、という期待を持っていることに。
「何か要る?」
四人分の酒を作り終えた波流が、僕のところに戻ってくる。
「じゃあ、ウイスキーで」
「はいよ。ロックでいいよね」
これを飲んだら今日は帰ろう、と心の中で呟く。銘柄を言わなかったのにも関わらず、波流は真っ直ぐ一つの瓶を取る。そして彼女に、本来聞くつもりではなかったことを尋ねる。
「なあ、夕美はまだ、陽奈と仲いいのか?」
氷を割りながら、波流は静かに首を振る。
「立野くんと同じ。高校のときのメンバーとは、連絡取ってないって言ってたよ」
「そっか……」
「でね、夕美ちゃんにも聞かれたんだ。陽奈ちゃんが今どうしてるかって」
波流の鋭い視線が僕を貫く。君も陽奈の現在を聞きたいか?そう言われている気がする。
「……なあ、陽奈は元気なのか?」
ウイスキー・グラスをカウンターに置き、波流は話し始める。
「あくまで今年の一月に聞いた話だけど。仕事は派遣で事務やってる。それで、そこの社員と婚約してる。式は冬だ、って言ってた」
「冬、か」
「うん。もうすぐだね」
たった数秒の、簡潔な説明。波流はあえて、そうしたのだろう、と思う。昔の恋人が結婚すると聞いて、心穏やかでいられる年齢に、僕はまだ達していない。まして、あんな別れ方をしたのだから。
「やっぱりショック?」
「それなりにね」
「立野くんたち、本当に仲よかったもんね」
僕はそれなりどころか、相当ひどい表情をしているらしい。波流が悲しそうに笑う。僕は自ら追い打ちをかけるかのように、質問を続ける。
「陽奈は僕のこと、何か言ってた?」
「会いたい、とは言ってた。あまりいい別れ方をしてないから、もう一度話したいって。立野くんのことは、本当に素敵な思い出だってさ」
波流はお世辞を言いすぎるところがあるから、実際のセリフからマイナス要素を削ぎ落としているのだろう。僕はそれを真に受けないことにする。陽奈の相手は、きっと僕の何倍もしっかりした男性で、社会的にも、人格的にも、申し分ない人物なのだろう。そんな自虐を口に出して余計虚しくなる前に、僕はごくごく当たり前の感想を述べる。
「みんな、変わっていくんだな。就職して、結婚して、子供を持って」
「そうだね。立野くんももう少ししたら、男友達の結婚フィーバーで祝儀貧乏になる時期がくるよ」
「はは。貯金しておかなくちゃな」
「まあ、それを取り戻したいと思うなら、自分もちゃっちゃと式挙げちゃうことだね」
「その前に、相手がいない」
「うん。私も多分、結婚できない」
僕は波流にもウイスキーを薦める。最後の一杯のはずが、結局三杯になり、終電ギリギリの時間にようやく席を立つ。
陽奈も夕美も、僕のいない、別な未来を歩んでいる。僕だって、彼女らのいない日々を平然と生きている。だから、知っていた。解っていた。それなのに、事実をきっちり突きつけられると、目を逸らしていれば良かったのにと思う。
なぜ僕は、波流のいるバーに引き寄せられた?過去の失恋を蒸し返すためにか?
自棄になりきれない性格と、酔いきれない身体を呪う。
せっかく、忘れていたのに。