春待月の一夜のこと
感心したように何度も「へー」とか「そうか」とか呟いて頷いていた田辺は、ややあって思い出したように


「まさかとは思うけど、覚えてるのはそれだけってことはないよね?」


若干恐々と、そんなことを訊いてきた。


「もうちょっと覚えてると言えば覚えてるけど、まあその……ローストビーフの美味しさにテンションが上がってしまって。……進んじゃったよね、お酒が」


だからそのあとから、徐々に記憶が曖昧になっていく。そのため完璧に覚えていると言えるのは、ローストビーフの登場までだ。


「なるほどね。つまり店を出る辺りとか、それ以降のことなんてもう全然、まったく、これっぽっちも覚えていないわけか」

「……いや、そんなに力強く言われるほどでは。ちょっとこう……記憶が怪しいだけで」


せめて、全然か全くかこれっぽっちか、どれか一つにして欲しい。似た意味の言葉をこれでもかと使って力強く言い切られるほどではないはずだ。…………たぶん。


「いいよ、そこで変な見栄張らなくても。どうせもう醜態は晒しまくってるんだから」

「しゅ、しゅうたい!!?」


とんでもない言葉をさらりと言い放って、田辺は真帆に背を向けてまた歩き出す。
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