春待月の一夜のこと
何がそんなに楽しいのか、田辺は鼻歌交じりにキッチンへ向かう。
ヤカンに水を入れる音、それをコンロに乗せて火を点ける音、それからカチャカチャとカップを取り出す音。
田辺がキッチンで立てる色んな音を、真帆は出汁が残った丼を見つめながら聞いた。ちらっと向かい側を見ると、田辺の丼は汁も残さず空っぽだった。

どこが食べ終わってないんだよ……と心の中で呟きながら、キッチンから聞こえる田辺の鼻歌を聞いていた。
確かに聞いたことがあるのに、題名も歌手も思い出せない、でも絶対に聞いたことがある歌。なんだったっけかな……と軽い現実逃避をしていると


「やっぱり電気ポット買おうかな……どう思う?前に使ってたやつが壊れちゃってからずっとヤカンなんだけどさ、なんかいちいち沸かすのが面倒くさくて」


そう言いながら戻ってきた田辺が、二人分の丼を回収して再びキッチンへ戻る。


「田中さんは、ヤカン?それともポット?」

「ヤカン。一人暮らしならヤカンで充分でしょ。そんなにたくさん水を入れなきゃいいんだよ」

「なんかこう……沸かすという作業が面倒くさい。文明の利器に頼りたい」

「じゃあ頼ったらいいじゃない」


正直に言って、どちらでもいいというか、もっと言うとどうでもいい。
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