春待月の一夜のこと
「あっぶな……危うく吹き零れるところだった。あっ、そういえば、砂糖はあるけどミルクはないんだよね。ちょうど牛乳も切らしちゃってるし。田中さん、ミルクなしでもいけ――っ!?」


言いながら顔を上げた田辺は、思いがけず目の前に立っていた真帆に驚いて目を見開く。
真帆はそんな田辺など眼中になく、ただ田辺の手元にあるヤカンを見つめていた。


「田辺くん、コーヒーはそんなにぐらぐら沸かしたお湯で淹れるものじゃないよ」

「え?あっ、なに?コーヒー?」


真帆からヤカンへ、そしてまた真帆へ、驚きが収まらない田辺の視線が忙しなく動く。


「コーヒーの適温は、八十八度。まあ八十五から九十二の間でもいいんだけど」

「なにそれ細かっ。温度計なんて家にはないよ。体温計ならあるけど」


体温計があったところで一体どうしようというのかこの男は。


「プロは指で温度が計れるって聞いたことある」

「いや俺プロじゃないし。田中さんの方がよっぽど言ってることがプロっぽ――」

「とりあえず蓋開けて」


ひとまず言われた通りに、田辺はヤカンの蓋を開ける。そして、それから何も言わない真帆を見て


「え……まさかと思うけど、本当に俺に触れって言ってる?この熱湯に?」


先ほどまで驚きでいっぱいだった田辺の目が、今度は恐怖に見開かれる。
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