春待月の一夜のこと
「触ったところでわからないでしょ。ちょっと温度を下げてるの」


プロっぽいことを言ってはみても、真帆だって知識として知っているだけで、触っても温度はわからない。物凄く熱いということはわかるだろうが。


「田中さん、詳しいね。製菓の学校ってそういうのも習うの?それともそういうお店で働いてる?」

「まあそんな感じ」

「そんな感じとはどんな感じ?」

「ほら、早く蓋閉めて。温度が下がり過ぎちゃう」


強引に田辺の話をぶった切り、早く注げと指示を出す。
考えてみれば、淹れているのはドリップでもなくただのインスタントコーヒーなのだから、そんなに気張る必要などなかった。
たった数年とはいえ、身についた習慣とは中々抜けないものだ。


「なんか心なしか、いつもよりいい香りがしている気がする」

「気のせいじゃない?」

「いやいや、これはいつもと違うって。ほら」

「……いや、私は田辺くんのいつものコーヒーを知らないから」


それでも、差し出されたマグカップは受け取る。
そのあとで田辺はすぐさま自分のカップを持ち上げると、深呼吸するように深く香りを吸い込んだ。
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