春待月の一夜のこと
「ああ……絶対これはいい香りがしてる」


動作が大げさだなと思いながら、真帆はしばらくじっとカップの中を見つめる。
コーヒーを飲むのは久しぶりだ。前はよく飲んでいたけれど、地元に戻って来てからは口にしていなかった。
無意識のうちに、避けていたのかもしれない。


「ああ、美味しい……いつもより深い味がしている気がする」


田辺の声にハッとして、真帆は我に返る。「気のせいじゃない?」と返しながら、真帆もカップに口をつけた。
なぜかお互いに立ったまま、田辺はキッチンで、真帆はそこからカウンターを隔てた向かい側でコーヒーを飲む。

これは、前によく飲んでいたものよりも酸味が強い気がするな、程度の感想を抱く真帆の向かい側では、田辺が満足そうに頷いている。
一見穏やかなコーヒータイムは、真帆の中にいらぬ記憶を呼び起こしそうになったが


「なんかさ、あれだね、俺達もう夫婦みたいだね」

「ぐふっ!?」


田辺がさらりと放った言葉によってコーヒーが気管に入り、記憶は呼び起こされる前に霧散した。


「なっ、な、なに言って……!!!」


咳き込みながら慌てる真帆。それを見つめる田辺の顔には楽しそうな笑み。


「田中さんは、ウエディングドレスと白無垢、どっちが着たい?」


あやふやにしてはおけない問題、それを笑顔で突き付けられ、真帆は食後のコーヒーを楽しむどころではなくなった。
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