春待月の一夜のこと
「でもそうだよね、違うよね。だってさっきの人、指輪してたし」


田辺の何気ないその発言に、真帆は驚いて顔を上げる。


「え……マスター、指輪なんてしてた?」

「へー、“マスター”」


田辺の口角が上がるのが見えて、やられた……と真帆は思った。


「ということはバーか、喫茶店か。お酒に詳しそうだったからバーかな。妙に田中さんと親しそうだったのは……」


そこで言葉を途切れさせ、田辺はじっと真帆を見つめる。
恐ろしいほどの推理っぷりに、追い詰められた犯人の気持ちを味わっていた真帆は、その視線に耐えられなくなって口を開いた。


「あの人は、私の雇い主!あの人の店で今働かせてもらってるの!これで満足か!!」


噛み付かんばかりの勢いで言い切ってから、真帆は突然進行方向を変え、田辺に背を向けて歩き出す。
その動きに反応出来ず真っすぐ進みかけた田辺は、慌てて方向を変えて真帆に並んだ。


「そのお店ってどこにあるの?」

「絶対に来ないって言うなら教えてもいいけど」

「聞いたら行くでしょ」

「じゃあ教えない」


ええー!と不満げな声をあげた田辺だが、その直後閃いたように「あっ」と呟く。


「そっか、田中さんが教えてくれなくても、あの人に直接訊けばいいんだ」


そうだ、そうだ。と言いながら踵を返そうとする田辺に、真帆はぎょっとして慌ててその腕を掴む。
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