春待月の一夜のこと
「ごめんお待たせー!」
明るい声を響かせる女性。彼女が真帆を追い越した瞬間から、もう男性の視線は真帆の方など向いてはいない。
合流して楽しそうに笑い合う二人の姿をしばし呆然と見つめていた真帆は、ややあって唇をきゅっと引き結ぶと、くるりと背を向けて駆け出した。
「え、あっ、ちょっと田中さん!どこ行くの」
驚いたような田辺の声が聞こえるが、真帆は立ち止まらずに駆ける。
次第に多くなって来た人の波を縫うように走った真帆は、青信号が点滅する横断歩道に足を踏み出す直前で、後ろから強く腕を引っ張られた。
その勢いで後退した真帆の前を、車が走り抜けていく。
「何してるの!ちゃんと前見ないと危ないでしょ」
振り返れば、そこには見たこともない険しい顔をしたマスターが立っていた。
その周りには、クーラーボックスが二つ転がっている。
マスターを見て、クーラーボックスを見て、先ほど自分が渡ろうした横断歩道を見て、歩行者信号が既に赤に変わっているのも視界に収めて、真帆は視線を戻す。
マスターの背後、まだ距離があるので顔は判然としないけれど、全速力で駆けてくるのはおそらく田辺だろう。
「田中ちゃん」
呼びかけられてマスターを見た真帆は、笑顔を作ろうとして失敗した。
ならばせめて、“すみません”と謝ろうと思ったのに、開いた口から漏れたのは謝罪ではなく嗚咽だった。
明るい声を響かせる女性。彼女が真帆を追い越した瞬間から、もう男性の視線は真帆の方など向いてはいない。
合流して楽しそうに笑い合う二人の姿をしばし呆然と見つめていた真帆は、ややあって唇をきゅっと引き結ぶと、くるりと背を向けて駆け出した。
「え、あっ、ちょっと田中さん!どこ行くの」
驚いたような田辺の声が聞こえるが、真帆は立ち止まらずに駆ける。
次第に多くなって来た人の波を縫うように走った真帆は、青信号が点滅する横断歩道に足を踏み出す直前で、後ろから強く腕を引っ張られた。
その勢いで後退した真帆の前を、車が走り抜けていく。
「何してるの!ちゃんと前見ないと危ないでしょ」
振り返れば、そこには見たこともない険しい顔をしたマスターが立っていた。
その周りには、クーラーボックスが二つ転がっている。
マスターを見て、クーラーボックスを見て、先ほど自分が渡ろうした横断歩道を見て、歩行者信号が既に赤に変わっているのも視界に収めて、真帆は視線を戻す。
マスターの背後、まだ距離があるので顔は判然としないけれど、全速力で駆けてくるのはおそらく田辺だろう。
「田中ちゃん」
呼びかけられてマスターを見た真帆は、笑顔を作ろうとして失敗した。
ならばせめて、“すみません”と謝ろうと思ったのに、開いた口から漏れたのは謝罪ではなく嗚咽だった。