春待月の一夜のこと
彼に教えてもらった店、彼が好きな味のコーヒー。あの車体を見るだけで彼との思い出が込み上げてしまうのに、ついさっきその店の前で真帆が目にしたのは、彼によく似た人だった。
ここにいるはずがない、他人の空似だ、そんなのはわかっている。わかっているけれど、彼だと思ってしまった。

笑顔で手を挙げるその姿を見ていたら、「真帆」と名前を呼ぶ声が聞こえるような気さえした。
その瞬間、ほんの少しでも嬉しい気持ちになってしまった自分がいて、それがどうしようもなく胸を苦しくさせた。
忘れたいのに、忘れられない。もう好きじゃないはずなのに、彼に名前を呼ばれた気がして、また笑顔を向けてもらえた気がして、嬉しくなってしまった。その嬉しい気持ちに気付いたら、泣きたいほど苦しくなった。


「……だから、なんか色々思い出しちゃった」


そんな説明では満足しないだろう、田辺のことだからきっと突っ込んでくるに違いない。そう思っていたのに、真帆の予想に反して田辺はしばらく口を開かなかった。
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