春待月の一夜のこと
ひどいなー、ほんとのことなのになー、といじけた子供みたいに言いながらも、田辺の口元は笑っている。
なぜそこまでご機嫌なのか、きっとそれは、いつもならすぐに振り払われるはずの重なった手が、そのままになっているから。
無理に繋ごうとはしない、ただ重なっているだけの手。触れている部分が、じんわりと温かい。


「田中さん、好きだよ」

「……それさっきも聞いた」

「だってさっきは聞き流したから。もう一回言っとかないとと思って。大事なことだしね」

「あんまり言い過ぎると真剣味が感じられなくなるよ」


ええー、それは困るなー。なんて田辺はおどけたように笑う。そこからしばし考えるような間を空けてから、真帆は口を開いた。


「……私は、わからない」


ぽそりと呟くような真帆の声に、田辺が「ん?」と返す。


「田辺くんのこと、好きかどうかわからない」


本気で恋をして、深く傷ついた。その傷は今もまだ癒えなくて、辛い思い出と楽しい思い出が一緒になって押し寄せてきて、真帆の心をかき回す。
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