春待月の一夜のこと
ここで“なんでもない”とすぐに言えたらよかったのに、頭の中は別のことで埋め尽くされていて、心の中もぐちゃぐちゃのごちゃごちゃで、言葉が何も出てこない。
しばし固まる真帆を見つめていた田辺は、やがて腰を浮かせて手を伸ばすと、真帆の口の端にそっと触れた。
突然触れた指先に、真帆はびっくりして我に返る。


「な……に」

「あっ、戻ってきた」


戻ってきた?と首を傾げる真帆に特に説明もなく、田辺はチョコレートまんの最後の一口を口に放り込む。


「田中さん、口にチョコついてたから取ってあげたよ。なんて優しいんだろうね、俺って」

「……恩着せがましいうえに自画自賛ですか」


ぼそっと言い返す真帆に、なぜだか田辺は満足そうに笑う。


「さて、田中さんが戻ってきたところで、何についてお喋りしようかなー。あっ、そういえばさっき製菓の学校に通ってたって言ってたけど、コーヒーはそこで勉強したの?」

「……そんなんじゃない。ちょっと興味があったから、個人的に調べただけ。ていうか、話題がないなら無理して喋り続ける必要ないんじゃない?」

「別に、無理してないよ。久しぶりに会ったんだもん、むしろ話題は尽きないでしょ。話題があり過ぎるから、何から話そうか迷ってただけ」


物は言いようだなと思う。
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