春待月の一夜のこと
「だって、来た時に言っておかないと忘れるじゃん。んで、全部でいいの?それともどれか持ってるのある?」


よく見て、とスマートフォンを差し出されるが、真帆は受け取るのを躊躇した。
別に道具が欲しいわけではないというのもあるし、最大の理由は、彼を、彼と過ごした時間を、思い出して苦しくなりそうだったから。


「ひょっとして田中さんって潔癖症?他人のスマホとか触れないタイプ?」

「……違いますけど」


だとしたら、そもそも他人の家で手作りのご飯など食べられないだろう。他人のベッドで目覚めた瞬間だって、別の意味で悲鳴を上げたかもしれない。


「ていうか、私欲しいって言ったっけ?」

「言ってなかったっけ?でも欲しくないとも言ってないからいいよね」

「……全然よくない」


なんだその、ノーと言ってないならイエスと一緒だみたいな暴論は。


「私、家でコーヒーとか淹れないし。貰っても使わないからいい」


買い集めた道具は教材も含めて全て手放し、地元に戻って来てからは、もっぱら紅茶かお茶ばかりを飲んでいる。たまに飲む時も、インスタントかスティックのカフェオレばかり。
だって、一人の部屋であの頃のように、彼が隣にいた頃のようにちゃんとコーヒーを淹れて飲んだりしたら、絶対に思い出して辛くなるから。
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