春待月の一夜のこと
インスタントとはいえコーヒーを淹れて飲むようになったのだって、最近の話だ。地元に戻って来てすぐの頃は、コーヒーの香りを嗅ぐだけでも辛かった。
今でも、お砂糖やバターの甘い香りがキッチンに充満すると胸が苦しくなるから、お菓子はまだ作れない。甘い物が食べたくなったら、コンビニかスーパーに買いに行く。

そんな風にして、少しずつ少しずつ、呆れるくらいにゆっくりと立ち直っている最中に、手放してきたはずの物が手元に戻ってこられるのは困る。
けれどもちろん、田辺はそんな真帆の事情など知る由もない。


「ええー、でももう話が進んじゃってるよ?貰う感じになっちゃってるよ?どうするのこれ」

「どうするって……ひとの話をちゃんと聞かずに連絡する田辺くんが悪いんだから、責任取ってどうにかしてよ」

「わかった。じゃあ責任取って田中さんと結婚するね」

「っ!!?違う!!そういうことじゃない!」

「ていうかさ、ここに見切れてるのって、女の人だと思わない?」


ほらここ、と画面を操作して、田辺がずいっとスマートフォンを突き出す。
その直前のやり取りに若干のイラつきを隠せない真帆は、険しい顔のままにスマートフォンの画面を睨み付けた。
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