陰キャな凄腕プログラマーくんの視線が気になって仕事になりません!
 ピコンと新着メールを知らせる通知が表示された。海堂くんからだった。

『仕事が終わった後、一緒に会社に残ってくれませんか?』

『いいですよ。仕事ですか?』

『少し違います。まだはっきりとはわかりませんが、一石二鳥で撃退できるかもしれないと思っただけです』

 私の頭の中はハテナマークだった。

 詳しく聞こうと思ったが、帰り支度を始めた人が後ろを行き来し始め、メッセージでのやり取りを読まれるのではないかと危惧し、咄嗟にメッセージアプリを最小化した。

「お疲れ様です」と帰っていく人間と挨拶を交わして、何とか怪しを緩和したつもりだった。

 オフィスがほぼ空っぽになったのを確認すると、私はある異変に気づいた。

 加藤さんが珍しくもまだ帰っていなかったのだ。

 スマホをぼんやりと眺め、無目的にSNSを見ているように見えて、なぜさっさと帰らないのだろうと純粋に疑問を抱く。

『広瀬さん、詳しいことは後で説明しますので、とりあえずパソコンの電源を入れたまま、貴重品だけ持って外の廊下で待ってもらえますか?僕は設定に時間を少し要しますので、後から合流します』

『わかりました』

『それと、メッセージアプリから一度ログアウトしてアプリを終了してください』

『わかりました』と打つと、彼の指示通りにログアウトしてアプリを終了した。

 そして何食わぬ顔でバッグを肩に掛け、残った海堂くんと加藤さんに「お疲れ様です」と声を掛け、廊下を目掛けた。

 私は事情を知らされないまま、30分近く廊下でぶらぶら待っていると、少し小腹が空いてきて、カバンの中のチョコを取り出して口に含みながらひたすら待った。

 しばらくして、いきなり男性ものの靴が走ってくる音がして、私は驚いてその方向に振り返る。

「海堂くん!一体何をしているんですか?」

 よっぽど急いできたのだろう。海堂くんは紺色のトレーナーの下の胸を上下させていた。

「すみません。証拠を掴むのに時間がかかってしまって、この場で説明する時間はないかもしれません」

 彼は息を切らせながら、廊下に繋ながるオフィスの出口をチラッと見た。

「ごめんなさい。これだけは確認させてください。僕のことは嫌いではありませんよね?」

 いきなりの質問に私は戸惑う。もちろん、答えは決まっているのだが。

「嫌いではないです」

 彼は少し安堵したように、今度は私の両肩を掴みながら、切羽詰まったように私の顔を覗き込む。

「それでは、僕がここでキスをしても不快な気持ちにならない程度に好きですか?」

「へっ!」

 唐突な質問に口がパクパクし、とてもではないけれど、言葉が発せる状況ではない。

 どうしようどうしよう、と脳内パニックを起こしていると、コツンコツンと、オフィスの出口付近でヒールが床を叩きつける音がした。

「広瀬さん、お願いします。加藤さんが来る前に答えてください。広瀬さんの嫌がることはしたくありませんから」

 肌に息を感じるほど近い彼からは、爽快なミント臭が漂っていて、頭がくらくらし始めていた。

「それではこうしましょう。キスをしてもいいなら、頷いてください。やめてほしければそのまま何もしないでください。お願いです」

 眼鏡で二倍になった目力で懇願され、私は自分の理性とは別の何かに動かされるように、小さく頷いてしまった。

 すると、いきなりスイッチが入ったかのように海堂は私を近くの柱に押し付け、一瞬得体のしれない恐怖のようなものが胸を込み上げた。

 それは、スイッチの入った男を前にして、女性としてDNAに深く刻み込まれた本能による恐怖なのかもしれない。

 激しく鼓動を打つ心臓に思わず手をあて、突然押し寄せてきた不安の緩和を試みる。だけれど……

「佳奈さん……」

 加藤さんがまだ近くにいるわけではないのに、下の名前で優しく呼ばれ、胸が甘く締め付けられる。

 切なげに細められた彼の瞳は、この人なら大丈夫だと、私を安心させる。

 柱に両手をついて私を挟み込むような格好を取っていた彼は、耳元に顔を埋め、私にしか聞こえないような甘い声で囁く。

「僕がこれからすることに対して、嫌がるふりをしてくれますか」

 何となく彼の意図がわかってきた気がした。

 私は再びこくりと頷くことしかできなかった。

 「僕は佳奈さんのことが、ずっと前から好きでした。あの日、勇気を振り絞って佳奈さんに告白してOKがもらえた日から、僕はこの上ない幸せを感じています。もうどこにも行かせませんよ」

 いきなり告白されたと思いかけたが、その後に続く言葉でこれは加藤さんを騙すための演技にすぎないという現実を突きつけられる。

 彼が今からすることも全て演技で、私のことが好きだからというわけではない。自分に言い聞かせるように、浮かれすぎた痛い子にならないように、その言葉を繰り返し繰り返し心の中で唱える。

 コツンコツン。彼女はもうすぐ近くまで来ている。

 海堂は片手で私の頬を包むようにし、顔と顔の距離が一気に縮まる。

 至近距離で見る彼の顔にはうっすらとひげが生えかかっていて、普段はあまり感じられない雄っ気に再び動揺するが、それも束の間。

 温かく柔らかい感触が唇を掠めた。

 海堂は私の反応を確かめるように一度頭を離してから今度は両手で私の顔を包み込み、先ほどとは比べ物にならないほど、私の心と体を貪るような深い口付けを飽くなく繰り返した。

 口に残留していたチョコと海堂くんのミントガムのミントが絶妙に絡まり、どこかミントチョコのアイスを食べているようなドルチェな錯覚に堕ちいてしまう。

「か、海堂、くん」

 酸素が行き届かない脳の意識は朦朧とし始め、唯一脳内を占拠する人の名前が口から溢れた。

「それでは嫌がっているようには聞こえませんよ」

 耳元で囁かれ、私の意思とは関係なく耳が勝手に赤く染まっていく。

「や、やめてください、海堂くん」

 胸板を叩きつけて彼に訴えてみた。

「僕には佳奈さんしかいません。これ以上僕を突き離さないでください」

 すっぽりと海堂の腕の中に収まった私は、彼の本心ではないとわかっていても心の中で答えてしまった。あなたが望む限り、どこにも行きませんよ、と。

 静かな廊下に、急に走り去るヒール音がうるさく鳴り響いた夜であった。


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