シュガーレスホリック【全年齢版】

1


 職場が、生まれ故郷のカ=ステイラ地方から遠く離れた地方へと移り、サワ・崇司(たかつかさ)アマツカサは鬱々としていた。彼女は元々はフリアンフィナンシェ学園の教師である。本校ではなかった。地元で就職したために、彼女の職場は分校の錦玉館キャンパスであった。
 だがそれも数日前までの話である。
 分校にはないカリキュラムがある。魔術唱業鉱業科の錬金術詳論は、ジェノワーズ本校と、さらに遠方の分校でなければ開講していなかった。

 サワが引率者として、学業成績優秀である程度の条件を呑んだ生徒2人を連れてジェノワーズ本校に到着したのはつい先程であった。錦玉館から共に来た2人の生徒と構内の案内が終わったところだった。
「疲れましたね」
 引率してきたうちの1人が言った。垢抜けた人懐こい茶髪の少年で、錦玉館キャンパスでは学級委員を務めていた。端正な顔面には厳つい刺青が入り、これがいくらか彼―アズキ・叶哭(かなき)ガナッシュという人物を誤解させる。
「そうね。今日は早く寝て、ゆっくり休むこと」
 サワは引率してきたもう1人を振り返る。青い双眸と視線が()ち合うが、すぐに逸らされてしまった。亜麻色とも青金ともいえない髪色が不思議な印象を抱かせる。
「ノワゼットくんも……」
 人嫌いな猫みたいな生徒は不機嫌そうに、そして無防備に横面を晒す。カオル・嘴咬(はしばみ)ノワゼットは長い睫毛の下で遠くを見詰めていた。通った鼻梁が緊張感のある美男子だった。この態度はいつものことである。話を聞いていないようで彼はいつも聞いている。だからサワも気にしなかった。
 彼等とは職員室の前で別れた。2人はこれから住む場所を決めねばならない。フリアンフィナンシェ学園には学生寮もあるが、学園のほうで一軒家を貸与したり売ったりしているらしい。 
 ジェノワーズ本校の西に位置する区域は錦玉館分校のあるカ=ステイラ地方と雰囲気がよく似ていたため、あまり変化を好まないサワは職員用物件も西側で借りた。借りたのだ。借りたはずだった。いいや、確かに借りたのだった。間違いはない。


 白い校舎は(さなが)ら宮殿のようで、よく手入れされた庭園が魅力的だった。日の光を浴びて、葉の一つひとつが艶やかに白く照っている。点綴(てんてい)と開いた花も瑞々しい。鳥籠を思わせる白塗りの四阿(あずまや)には机と椅子が置かれて生徒たちの学習の場にもなっている。小鳥の囀りと、流水装置による(せせらぎ)もまた憩いの場によく合っていた。
 サワは変化を好まない。しかし生徒2人に対して、錦玉館分校にはないカリキュラムを薦めてしまった手前、この転勤は仕方がなかった。早く馴染まなければならないが、錦玉館とは趣きの異なる校舎に彼女はまだ緊張感を解けずにいた。

 ぐぉり……ごり………ぼり、ぼり、ぐぉりりり……

 渡り廊下から庭園を眺めていたサワの耳に、低い音が届く。小骨を噛み砕くような、ごつごつとした鈍い音だった。

 ぐぉりり……ぼりぼり……ごりっ、ごりっ……ごご……

 音が近付いてきている。地面を伝い、骨に響くような振動と共に、鈍い音は大きくなっている。

 ごごり……ごりり……ぐぉり……ごっ、ごっ……

 不気味な音であった。目の前には快晴の光景がありながら、濃い青陰を落とすこの渡り廊下はいくらか肌寒い。いいや、先程まではそう寒くなかった。心地良かったはずだ。

 ごりり……っ

 硬直し、外を凝らしていた彼女の隣に何かがやってきた。気配がある。


 ごり………ごりりっ……ぐぉり、ぐぉり………

 苦い匂いが鼻腔をくすぐる。コーヒーの匂いだ。
「あの」
「ひっ」
 サワは後ろへ跳んだ。そして静寂。
 彼女の傍には制服姿の少年が立っていた。彼は顔色ひとつ変えない。アズキ・叶哭ガナッシュやカオル・嘴咬ノワゼットと比べると目線が低くなる。蝋人形を思わせる質感と、人の手が入ったような造形の妙による美貌がそこにある。巨大な硝子玉を眼窩に捩じ込んだのかと思わざるを得ない虚ろな双眸が彼女に据えられている。
「錦玉館校からお見えになった、アマツカサ先生でいらっしゃいますね」
 毛氈苔(もうせんごけ)然とした睫毛はまばたきのたびに音でもしそうなものだった。だが無音である。ぐぉり……ごりりっとコーヒーミルの中で豆たちの拉げて軋み、潰れて砕ける叫喚ばかりが底に響く。
「はい……」
 小柄で繊細げな美少年だが対峙すると圧がある。
「ジェノワーズ校の案内はすでにお済みですか」
「ある程度は……」
 愛想笑いもせず、まばたきと口唇以外、顔に動きがない。愛想や愛嬌が無いのではない。接待慣れしていないのではない。表情そのものがないのだ。
「生徒会への案内はいかがですか」
「校舎の説明だけだったから、詳しくは……まだ……」
「お時間さえよろしければ、これからご案内いたします。いかがですか」
「じゃ、じゃあお願いしようかな。時間は平気よ」
 言葉遣いは恭しい。しかしコーヒーミルを回す手は止めない。ごり、ごりり……と骨まで振動が伝わる。
「では私がご案内いたしますので、ついてきてくださいませ」
 彼はやっとコーヒーミルを止めた。
「君のお名前は?」
「アヤト・トゥールトと申します」
 振り返りもしない。水面を叩くような鋭さで応答がくる。
「トゥールトくんも生徒会なの?」
「いいえ」
 水飛沫みたいな口振りだった。
「そうなんだ」
「私は用務員です」
 しかし彼の着ているのはアズキ・叶哭(かなき)ガナッシュやカオル・嘴咬(はしばみ)ノワゼット同様の制服を着ている。校章の地の色が本校の暗いブルーになっている。錦玉館はグリーンだ。
 一本一本に彫刻の入った真っ白な柱を眺めながら廊下を歩く。この校舎は片面に壁や窓を置かなかった。直接陽射しが入り、床にはアーチ型の日溜まりが浮き出ている。しかしそこから外れると淡い陰影によって微妙な青みを帯び、海の奥深くを見ているような、神秘的な感じがある。
 アヤト・トゥールトは金色の札の掛かった純白の扉の前で止まった。把手も金色に塗られている。中から(いさか)うような声が聞こえるのとほぼ同時に、彼はゆっくりと扉を開けた。先程サワの耳に届いた音吐(おんと)がぴたりと消える。
「生徒会のみなさん。転入生の引率の先生で、魔道薬学の教科担任と聖石技術アイドル部の副顧問を務めてくださいます。アマツカサ先生です」
 生徒会室は異様な雰囲気が漂っていた。しかしアヤト・トゥールトは気にも留めない。抽斗(ひきだし)に手を挟み、それを足で押さえつけられている小柄な男子生徒がいても、明らかに故意に抽斗を足で押さえている大柄な男子生徒がいても、アヤト・トゥールトの進行は淡々としている。サワはそれを教員として黙って見ているわけにはいかなかった。
「自己紹介の前に……そこの2人は何を……?」
 ここは男子校ではないが、生徒会室にいるのはみな男子生徒であった。睫毛伸ばし器を目蓋に当てている生徒もいれば、分厚い本を開いている生徒もいる。
「いじめじゃないすかね」
 ぬ、っとサワの死角から現れたのは背の高い、三つ編みの少年だった。細い金色のフレームの丸眼鏡を掛けている。
「いじめ?いじめているの?」
 サワは抽斗を足で押さえつけている男子生徒を鋭く捉えた。するとその男子生徒は煩わしそうに足を下ろした。手を挟まれていた小柄な生徒は痕のついて赤く染まった手を引き抜く。涙を浮かべた目が彼女を見つめる。うさぎだのりすだのを思わせる可憐な少年である。
「本人がどう思うかでしょうね」
 睫毛伸ばし器を目蓋に当てている男子生徒が答えた。輪郭を隠すように前下がりに切り揃えられた髪型で、前髪を上げているため丸みのある額が見えた。その形から嫋やかな印象を受ける。彼は睫毛を上反りにすると、固着剤を専用櫛で塗っていた。
 そして横から、ぱす……と音がして、そのほうを見遣れば、怜悧げな眼鏡の男子生徒が分厚い本を閉じていた。
「自己紹介をお願いします」
 顔色ひとつ変えず、アヤト・トゥールトはサワを振り返る。彼女はとりあえずのところ、目の前にある加害は治まったこととして促されるまま自己紹介する。
 反応という反応はない。生徒会室はやる気の無さそうな、うんざりした空気が流れている。
 錦玉館分校の生徒たちは、関わりがなくても愛想が良かった。愛嬌がよかった。険がなく、嫌味がない。しかしジェノワーズ本校の生徒はどうだ。アヤト・トゥールトといい、この生徒会室の面々といい、冷淡で小生意気である。やっていけるのであろうか。
 紹介を終えると、アヤト・トゥールトに連れられ部屋を出た。
「あの子はいじめられているの?」
「見たまま言えば、そのように見えます」
「じゃあ、いじめられてはいないの?」
 大体の質問に潔く答えていた彼の返しが急に曖昧になる。
「錦玉館の標語は"和気藹々"と"切磋琢磨"だそうですが、私たちの校風はそうではありません」
 この男子生徒から嘲笑や軽侮は感じられなかった。生徒会室に入る前とまったく変わりのない面構えである。彼の言葉にそれらを見出したのはまったくサワのほうの都合であった。
「じゃあ、ここでは?」
「聖神騎士候補生になるための枠は1つですから」
 ジェノワーズ本校の首席のことだ。錦玉館分校ではやっていない。聖神騎士に憧れフリアンフィナンシェ学園ジェノワーズ本校を受験する者たちは少なくない。
「馴れ合いは赦されないのです」
「校則で?校則であるにしろないにしろ、あれは馴れ合う馴れ合わないの話ではないと思うのだけれど……」
 ここで、初めてアヤト・トゥールトは表情らしき表情を見せた。蔚薈(うつわい)とした睫毛の伸びる薄い目蓋が大きな弧線に沿って下がり、途中で止まる。ただでさえ美しい男子であった。彼が目を伏せると、その猗靡(いび)な空気感にむしろある種の不気味さすら覚える。
「弱者は要りません」
「弱者って……」
「聖神騎士の器とかけ離れた者がこの学園にいることは、聖神騎士を目指す者たちにとって心地の良いものではありません。矜持が許さないでしょう」
 サワはしかしこの男子生徒の個人的な薄気味悪さに構っていられなかった。
「いじめられている子の聖神騎士の器云々の前に、あれを放っておけるのが聖神騎士の器とは思えない」
 彼の双眸はまた硝子玉に戻っていた。
「そうですね」
「トゥールトくん」
「では僕が止めてみます。それが教員方の手を煩わせない、無難な方法で、望まれた答えですね」
 やはりそこに責め立てるようなところはなかった。まったく雰囲気にも語気にも変わりはない。
「トゥールトくん……ごめんなさい。あなたに責任を押し付けすぎたわ」
「この学園から聖神騎士を出すことが誉れです。それは僕も変わりません。彼等の中に素養のある者がいるのなら、こんなことに(かかずら)って、自ら格を落とす必要はないのです」
「トゥールトくん。それでも、いじめは"こんなこと"だなんて軽んじられないの」
 硝子玉に射抜かれると、内心サワは怯んでしまう。
「本当に"学内疎外"、"学内排他"なら、そうでしょう。数的不利により弱者でいるのも已むを得ない事情もありましょう……ですが分かりました。この学園を貶められるのは本意ではありません。善処します」
 彼は礼儀正しく教員へ挨拶すると、生徒会室に戻っていった。サワはまた戻るべきか迷った。生徒に任せていいものか……
 彼女は生徒会室の純白と金の扉を見ていたが、そのうちに別の教員が呼びきて、職員室に向かわなければならなくなった。


 アズキ・叶哭(かなき)ガナッシュと、カオル・嘴咬(はしばみ)ノワゼットは、サワの想定では学生寮を借りるものだと思っていた。しかし学園に借金をして、このビスキュイ地方に家を買うことにしたらしい。すなわち、ジェノワーズ本校に移籍することを意味する。ハ=ト・サブレイ市はカ=ステイラ地方の風景によく似ていた。移り住むのにそう抵抗はないのかも知れない。
 しかしサワには驚きであった。
「成績も単位も足りていますから」
 事も無げにアズキ・叶哭ガナッシュは、人当たり好さそうに答える。アヤト・トゥールトと対したあとだと、同じ世界の住人とは思えないものがある。
「カリキュラムも充実していますし、今から合流しても問題ないと思いますけど、もしダメでしたらアマツカサ先生。面倒看てくださいね」
 彼は物件の資料を捲るアズキ・叶哭ガナッシュから、職員室の隅の事務スペースの、さらに隅に座って壁のほうばかり眺めているカオル・嘴咬ノワゼットに目を遣った。
「ノワゼットくんは……?」
 気難しい生徒である。環境が変わり、緊張感を持っているのだろう。その点で、アズキ・叶哭ガナッシュは早々に適応できているようだった。
「ノワゼットくんも、故郷のことはいいの?」
「……」
「元々、錦玉館でもぼくたちは寮生活でしたから」
 あまりの無反応ぶりに人の好いガナッシュ少年は微苦笑して容喙(ようかい)する。
「先生」
 壁を向いたまま、頬杖をついているカオル・嘴咬ノワゼットがやっと口を開く。サワも驚いてしまった。
「う、うん。なぁに?」
「2階建てと平屋はどっちがいい?」
「わたし?わたしは平屋かな……」
藺草(いぐさ)部屋はあったほうがいいか?」
 彼なりに迷っているのだろう。アズキ・叶哭ガナッシュの不思議そうな眼差しをよそに、サワはこの懐かない生徒に相談を持ちかけられたのが嬉しかった。
「あったら楽じゃない?そこにお布団敷けるもの」
「分かった」
 通い慣れた錦玉館校から離れ、このジェノワーズ本校で今のところ頼れるといえば、同校から来たアズキ・叶哭ガナッシュか、引率のサワである。カオル・嘴咬ノワゼットのような控えめで、根暗で、陰気で、寡黙で、人見知りな人物も素直にならざるを得ないのだろう。
 アズキ・叶哭ガナッシュのすっとぼけたような、見極めるような視線をサワは目にしなかったわけではないが、大して気にも留めなかった。
「じゃあ、おうち決めましょう。分からないことがあったら遠慮なく聞いて」
 だが物件選びは現地訪問も内部見学もせずにすぐに終わってしまった。アズキ・叶哭ガナッシュはすでに目星をつけていたらしく、カオル・嘴咬ノワゼットもサワの選んだ条件そのままの物件を希望した。
「ノワゼットくん……?自分でちゃんと選んだほうが……さっきのはあくまでわたしの希望で、責任持てないわ」
 家を買うという決断を容易に下したはいいが、長いこと、或いは一生住むかも知れないわけである。それを一時(いっとき)担当した教師の個人的な希望で決めてしまうのは責任が重い。
 嘴咬ノワゼットは眠そうな感じさえする、薄い二重瞼と繁茂した睫毛の沿った切れの長い目を女教師に向けた。ところが視線が()ち合うこともなく、壁に引き戻されてた。伏せてばかりいるためか、常に結氷しているように見える。
「自分だけじゃ決められなかった」 
「……そう」
 それからアズキ・叶哭ガナッシュの希望する物件の管理会社がやってきて、説明が始まった。サワはそれを避け、カオル・嘴咬ノワゼットの前に座る。
「ノワゼットくんは?」
「内見は要らない。ここに決めた」
 彼の手元に残った資料には、棕櫚の木が一本生えた庭を脇に置いた平屋で、庭に面してガラス窓が嵌まっている。玄関先には木造甲板が伸び、軒も広い。
「2人暮らし用なんだ」
 サワはいくらか安心した。人嫌いのようでいて、恋人や配偶者と共に住むことを考慮しているのかも知れない。
 しかしカオル・嘴咬ノワゼットは返事もしない。やがて管理会社の者がやって来たためにサワはその場を離れようとした。しかしカオル・嘴咬ノワゼットに呼び止められる。やはり人嫌いで、陰気で人見知りで内気で他者との協調性の欠けた独創的なこの生徒は心細いのであろう。
 物件の管理会社の者はカオル・嘴咬ノワゼットと、付き添いとして控えめに端に座ったサワを交互に見遣った。カオル・嘴咬ノワゼットが記名し終わると、管理会社の者はサワにも紙を回す。
「え?」
 引率の教師として記名する欄があるのだろうか。違う。契約者記入欄として印を付けられたのは、入居者欄のところである。
「先生」
「うん?」
「今日から俺と住むから」
「誰が?」
 何気なく、カオル・嘴咬ノワゼットの達筆を目にしたのは偶然だった。"カオル・嘴咬ノワゼット"と書かれるべきところが、"カオル・崇司=嘴咬アマツカサ"になっている。
「ノワゼットくん……これ、」
 突拍子もない誤記入だ。普段から表情の見せない生徒の驚いた顔を見れるものと思ったが、カオル・嘴咬ノワゼットは敢えてそうしたといわんばかりである。
「ノワゼットくん、間違ってるわよ、これ!」
 指摘に気付いていないのだろうか。彼女はもう一度指摘する。
「間違ってない。先生は俺と結婚したんだからな」
 二句目が聞こえなかったのは、衝撃のせいであろう。
「はい?」
 物件の管理会社の者が事務作業に入り、アズキ・叶哭ガナッシュがこちらに椅子を向けた。
「ノワゼットくんが書き換えていましたよ。筆跡模倣と魔押模写ができますからねー」
 彼は呑気だ。サワはカオル・嘴咬ノワゼットを睨む。
「書き換えたって……」
「断ったら、住むところないから」
 企みのあるらしい生徒は胸ポケットから小さく畳まれた紙を出す。サワが借りるはずの住宅の解約手続きであった。すでに完了している。目を通した覚えのない書類に、書いた覚えのない日付と名前である。だが見知った字なのである。
「どういう……こと……」
「俺と結婚した。俺が婿入りしたから、先生は俺と住む」
 彼はデスクの上に何か置いた。ごく短い丈の(けば)に覆われた箱は、多くは、多くはなどといわず、ほとんど指輪を保管するために使う。
「先生の指輪」
「え?」
「士道コンクールの賞金で買った」
 カオル・嘴咬ノワゼットは優秀な生徒だ。学力面に於いて、サワは彼に手を焼いた覚えがない。協調性の無さや冷淡ぶりについては幾度か相談されたことはあったけれど、為人(ひととなり)を除けば問題のない、しかし率先して誰かを排他するだとか、攻撃するだとか、よく言えば誰に対しても薄情であったりなどはするけれども、引っ掛かることのない、心配事もない生徒である。その麗しい見目によって話題に上がり、印象は濃いが、それだけである。
 そういう生徒と、言葉が通じない。どういう資金源で入手したかなどは訊いていない。おそらく彼は訊き返したことに応じたわけではなく、教師の言葉になど耳も貸さず、好き勝手に喋っているだけなのである。
「ごめんなさい、ノワゼットくん。どういうこと?書き換えたって……?」
「ノワゼットくんが婚姻届をなりすまして書いたんですよ。解約手続きも勝手に書き換えてました。どうやって手に入れたかは知りませんけど」
 アズキ・叶哭ガナッシュがまたもや苦りきった微笑を携えて容喙する。
「いつ?」
「ついさっきでしたよね」
 カオル・嘴咬ノワゼットに訊ねたつもりだが、アズキ・叶哭ガナッシュも彼は答えないと決めてかかって代わりに返答する。
「夫だと言ったら渡されたぞ」
 婚姻届が彼女の目の前に広げられる。そこにはやはり自分の字そっくりそのまま記され、同一の紋様は存在しない魔押が印されている。
「え……、ちょ………待っ……」
「だから、先生は俺の妻だから」
 サワは職員室を飛び出した。こういう場合はどこへ駆け込めばいいか分からない。
 彼女は契約書控えの紙を開き、管理会社へ問い合わせる。果たして、あの生徒が言っていることは本当なのであろうか。そのようなことが可能なのか。成績以外のところで優等生とは呼びがたかったが、彼は問題児なのであろうか。解約手続きは完了していた。サワはそれを聞いた途端に彫刻の如く固まっていた。
 教師と生徒の結婚。アズキ・叶哭ガナッシュは、代筆とはいえ、共に来た同級生と引率の教師の結婚を何も思わなかったのであろうか。この件に関して、フリアンフィナンシェ学園では条件はつくものの、違約ではなかった。違約ではなかったが、学園側で定めたそれなりの罰則的な不利益もある。
 職員室に戻る廊下を蹣跚(まんさん)と歩いた。
「先生。まだ契約が終わってない」
 いつ背後をとったのか、カオル・嘴咬ノワゼットが、もとい、カオル・崇司=嘴咬ノワゼットが立っている。
「どうして……こんなこと……」
 彼は答えない。
「わたし、何か、ノワゼットくんに誤解させちゃったかな……?」
 とはいえ、手のかからない生徒である。これという問題行動も起こさなければ、落第しそうな点をとっているわけでもない。自己主張の強い性格でもなかったはずだ。その姿さえ見なければ印象に残らない、取るに足らない、居ても居なくても出席簿程度にしか響かない生徒だった。
 彼は結局答えない。その冷たい横面と態度にに、サワはこれがただの悪戯や気紛れによるものだと読むのだった。
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