妹の指

1

 あれは、ぼくが小学六年生で紗英が小学五年生のときだった。

 ぼくには小学校で友達と呼べる人間は一人もいなかった。特に友達がほしいと感じたこともなかったし、一人で過ごすことに対して、本当に何の感情も抱いていなかった。寂しいだとか孤独だだとか、ましてや、仲間を集めて外でサッカーなんかをしたいなど、考えたこともなかった。

 家に帰れば紗英がいる。それが、友達を必要としなかった大きな理由であったことは間違いない。

 学校が終わればすぐに帰宅して、その後に外出することはほとんどなかった。小学校のクラスメイトは、ただの同級生に過ぎなかった。授業に関すること以外で言葉を交わした記憶はほとんど残っていない。

 ぼくは極端に人と接することが苦手でもあり、他人に対して特に何の理由もないのに、強い嫌悪感を抱いていた。仮に相手にどれだけ良い部分があっても、悪い部分が少しでもあれば、ぼくのそいつの印象は、悪い部分で支配されてしまう。ただ、何よりも嫌いなのは、そんな自分自身ではあったけれど。

 あの頃は、赤の他人が同じ教室という小さな箱の中に詰め込まれているという事実だけで、たびたび吐き気を催すことさえあった。

 ぼくには、クラスメイトは、一つの虫かごに入れられている鈴虫のようにしか思えなかった。
顔や体の造り、性別、性格さえも、それぞれ違うはずなのに。

 あの日、紗英と見た狭い籠の中に閉じ込められていた大量の鈴虫。

 紗英は鳴き声に耳を澄ませていた。それから、「きれいだね」と言って、目を閉じていた。

 ぼくには籠の中の鈴虫は、元となる一体が分裂した、クローンのようにしか思えなかった。

 ぼくは、鈴虫たちは、助けを求めているようにも感じていた。紗英が綺麗と言った鈴虫の鳴き声は、ぼくには、ただの泣き声にしか聞こえなかった。

 あのときの鈴虫と同じで、クラスメイトはどれを選んでも大差はないように感じていた。

 そんな鈴虫の籠の中のような教室に、ぼくも入っていたのだ。

 その籠をぼくは監獄のようにも感じていた。きっと、この中に入れられている鈴虫たちは、自分たちが暮らしていた世界で罪を犯したんだ。だから、人間たちに捕まったんだ。そう、思っていた。

 ただ、ぼくは何の罪も犯していないのに、収監されているのは、ひどく理不尽な気がしていた。

 あの頃のぼくは、そう感じてはいても、抵抗する術を知らなかった。ただ、抗えずにいた。仮に知っていたとしても、ぼくにはその術を行使できなかったかもしれない。ぼくはひどく臆病でもあったから。

 何度か監獄の中の犯罪者の心情を想像してみたことがある。すると、だんだんと思考力が低下していき、自分がいま、どこにいるのかが分からなくなることもあった。最後には消えてなくなりたい、そう思うことさえあった。

 小学六年生の頃には、ぼくは心を殺す術を、ある程度身につけていた。心に鍵を掛けるのだ。それは一年前から、少しずつできるようになったことだ。それでも、中学までが義務教育だと考えるたびに、激しいめまいに襲われてはいた。

 ぼくは自分が特別だなんて思ってはいなかったけれど、ぼくだけ異種のような気がしていた。ぼくがおかしくて間違った人間のように思うことさえあった。

 担任の先生の目はいつも濁っていて、先生にも、ぼくたちのことが識別できているとはとても思えなかった。溜め息が多くて声が小さい、小柄な男の先生だった。

 そんな中で、ぼくの寄る辺は、妹の紗英だけだった。

 紗英とはもちろん同じ小学校に通ってはいたけれど、学年が違ったので、お互いの教室はずいぶんと離れていた。それでも、紗英が同じ学校の敷地内にいるということが、ぼくが学校で正気を保っていられた、唯一の理由だったかもしれない。

 授業の合間の休み時間や昼休みのときなど。品のない話し言葉や甲高い笑い声が教室中に響き渡るたびに、ぼくの心臓は、巨人の手で握りつぶされているような苦しさを感じていた。教室から出て行けばよかったのだろうけれど、教室の外にも、ぼくの居場所なんてなかった。ただ、自分の席で、じっとたえることしか、ぼくには方法がなかった。

 心に鍵を掛けていても、それらは、わずかな綻びから侵入してきていた。

 そんなときは、そっと目を閉じてから、遠く離れた教室にいる、紗英のことを思い浮かべていた。

 それだけで、ざわつき乱れていた感情が鎮まった。

 まれに校舎の中で紗英を見かけることがあった。ぼくが紗英を見かけるときは、いつも数人の女子に取り囲まれていた。

 紗英はあの当時で、一つ年上のぼくよりも大人びて見られていた。身長もあの当時から、ぼくよりも高かった。ぼくは小学生のときから姿勢がひどく悪かった。撫で肩の上に猫背だった。それに、常に軽いお辞儀をしているように、上半身が前傾していた。それでいて、体の線はすごく細かった。それは紗英のすらっとした痩身とはわけが違う。周りからは、プラスではなくてマイナスに受け取られていた。その体に髪の毛はやけにボリュームがあって、頭が膨らんでいたので、自分では折れたマッチ棒のようだと感じていた。実際、ぼくのことを陰で、「マッチ野郎」と呼んでいた人間もいたようだ。

 父親と母親がぼくに対して嫌悪感を抱いていたのはそのせいでもあるだろう。二人とも世間的には美男美女で通っていたから。あくまでも年齢の割にはだけれど。二人にとってはぼくの醜悪で愛想がなかったことが許せなかったのだろう。
紗英の顔立ちは、同年代の中では際だっていた。将来の完成系が容易に想像できるほどに。それぞれのパーツが、正し場所に、嫌みなく、かつ、押しつけるような主張もなく、きちんと収まっていた。ただ、それだけ整っていても、紗英らしさはきちんと存在していた。それは笑顔を見せたときだ。紗英の笑顔は、やけに幼く見えて、心配になるほど無防備にも感じられた。その落差が紗英の魅力でもあったのだけれど。

 その年代の女子なんて、大半が遠目でも近くで見ても印象は変わらない。制作途中の粘土人形のような顔立ちだ。小学五年生なのだから、当然と言えばそれまでだけれど。

 周りの女子は、紗英を利用しているように、ぼくは感じていた。紗英と言うブランドを、身近に置いていることで得られる高揚感と優越感。と、安心感。

 ぼくにとっては紗英が基準だったから、周りの女子はその他大勢の飾りもの程度にしか過ぎなかった。

 紗英は勉強がすこぶるできたけれど、その辺には疎いところがあった。

 ぼくは紗英の周りにいる奴らが嫌いだった。真に価値があるのは紗英だけなのに、紗英と一緒にいることで、自分たちまでもが特別だと勘違いしていたように感じたからだ。

 元の何の形も成してない粘土に戻ってしまえ、と念じたこともある。

 ぼくのクラスでも、紗英のことが話題の一つに上がることはたびたびあった。

 話題にするのは大半が男子だったけれど、女子の中にも数人はいた。

 話の内容は聞くつもりはなくても、誰の耳にも届いていただろう。

 そういうことを話す奴らはたいていが大声なので、教室にいれば誰の耳の中にも品のない声が飛び込んでくる。

 ぼくのクラスには、紗英とは逆の女子がいた。逆というのは、顔と体のバランスのことだ。

 その女子は体の造りは中学生と比べても何ら遜色がなかった。その割には顔が幼かったのだ。いや、幼いというよりかは、未成熟。それも違う。すべてのパーツの輪郭が、ぼやけているような印象だった。

 ぼくのクラスでは女子がいないときに、紗英とその女子のどちらが好みかで、よく討論が交わされていた。

 結果は明白だった。

 紗英の圧勝だ。

 もちろん、ぼくも心の中で紗英に一票を投じていたけれど。

 ただ、その女子の体に触ってみたい、という男子はけっこういた。

 ぼくにはその感覚はよく理解できなかった。女子だろうが男子だろうが、他人の身体に触れるなんて、考えただけで気持ちが悪かった。
 周りの大人達は、紗英に対して、「このまま成長したらどこまで綺麗になるのかしらね」というようなことを母親に言っていた気がする。そのときの母親は、歪んだ笑顔を浮かべていたような覚えがある。

 ぼくは自宅でもほとんど自発的に家族に話しかけることはなかった。話しかけても、両親は気の利いた返事なんてしなかっただろう。特に父親は。学校ではさらにその特性は影を潜めていた。

 小学校では、ぼくと紗英が兄妹であることはそれぞれの学年の大半の生徒が知ってはいた。その事実を知った生徒はだいたい同じような反応をする。驚嘆というより、同情にも近い言葉をかけてくる。もしくは、ぼくが紗英と比べて、いかに外面も内面も優れていない人間だということを、あざ笑いながら指摘してくる。

 紗英がそのことに対してどんな風に感じていたかは分からないけれど、紗英はぼくに対して、同情するような態度を取ったことは一度もない。

 どんなときでも、ぼくに話しかけてくるときは、優しい顔をしてから名前を呼んでくれた。家族でぼくの名前を呼んでくれるのは紗英だけだった。当然だけれど、学校でも、ぼくを名前で呼ぶ人間などいない。「貴利」という名前は、紗英がぼくを呼ぶためだけに存在するのではないかとさえ思っていた。

 紗英だけが詠唱することができる、唯一無二の魔法のような。

 ただ、同じ場所にいても、その頃は、一緒に何かをして遊んだり、特に話をしたりするのではない。それぞれがしたいことをしていただけだ。昔は違ったけれど。父親が死ぬ前は、紗英はよく僕の部屋に遊びに来て、話を聞かせてくれていた。

 そのときの紗英の顔は、何よりも輝いていて、とても楽しそうだった。

 それだけでも、ぼくにとってはじゅうぶんだった。学校の紗英を汚(けが)すような奴らから隔離できている。この場所では、ぼくだけが紗英を見つめられる。それだけで、ぼくの自尊心は満ち足りていた。

 二人で同じ場所にいるときは、ぼくは何かを描いていて、紗英は勉強をしていた。父親が死んでから、紗英は変わった。あまり、笑顔を見せないようになった。あの無防備だけれど、人懐っこい笑顔を。

 母親は何もなかったかのように、生活をしている。

 母親にとって、「父親」はその言葉以上の何者でもなかった。それは、ぼくにとっても同じだったけれど。「父親」という響きは、プラスやマイナスと同じように、ただの記号としての意味しか持ち合わせていなかった。
周りの兄妹がどうだったかは知らないけれど、ぼくたちはその年代になっても、一緒にいることが多かった。ぼくたちには二人で一つの場所しか与えられていなかったから。

 小学生ぐらいまでなら、兄妹が同じ場所で生活することはさして珍しいことではないだろう。ただ、母親は一人で、ぼくたちの場所よりも、広い唯一の部屋を使っていた。

 ぼくと紗英は、ダイニングと台所のスペースで生活をしていた。その場所は六畳ほどもなかったように思う。

 そこに、機能はほとんど失われているような、厚みの全くない布団を敷いて寝ていた。

 ごみ袋は台所のすぐそばに置いてあった。季節によっては、鼻を突くような臭いがしていた。ごみ袋の周りには、蝿だか何だか分からないような虫がいつも飛び回っていた。ぼくは袋を縛っておきたかったのだけれど、母親がそれを許さなかった。ごみを捨てるときに面倒だから、という理由で。

 今のアパートで生活をはじめたのは一年ぐらい前からだ。

 父親が死んでから、ぼくたちの生活は一変した。

 母親は本当なら、ぼくたちの面倒を見ることは放棄したかったはずだ。ただ、周りの目を気にする母親にとって、それは選択肢になかったのだろう。女手一つで子ども二人を育てている女性を演じるために。

 母親は家を出るときは、何度も自宅の周りに人が通っていないかを確認してから、アパートの敷地外に出ていた。築年数が自分の年齢よりも上に住んでいたことが恥ずかしかったのだろう。ぼくは母親のその姿を、学校から帰ってきたときに、たまたま見かけたことがある。

 紗英は教科書とノートを広げれば面積が埋まるような机で、黙々と勉強をしていた。

 そんな紗英の姿をそばで見られることは、ぼくにとっては、それだけで幸せだった。

 ただ、その日は、いつもと様子が違っていた。ぼくは話すことが苦手なぶん、他人の気持ちの動きを察することには敏感な方だったと思う。

 紗英は珍しく不機嫌だった。

 ぼくがそのことに気付いたのは、紗英の筆圧の違いによってだ。紗英は普段、流れるようにノートに文字を書く。迷いも淀みもなく。そうして、無機質な文字に命を吹き込んでいく。紗英が書く文字は、紗英同様、とても綺麗で整っていた。それが、その日は違った。いつもはとても澄んだ音だった。ぼく以外なら気付かなかったかも知れないほどの違いだったけれど。紗英は文字を書く瞬間に、指に力を込めていた。そのせいで、いつもの鉛筆と紙が擦れる音とは違ったのだ。ぼくはひどく歪んだ音に聞こえていた。紗英が一文字一文字、書いていくたびに、ぼくの心も歪んでいくような気がしていた。

 ぼくは歪んだ四角形の中に大小さまざまな三角形や円形を重ならないように描いていた手を止めてから、紗英の方に視線を向けた。

 紗英はすぐにぼくの視線に気付いたけれど、こちらを向くことはなかった。ただ、身体全体で、「なに?」と言いたげな雰囲気を出していた。

 一度、図形に視線を戻した。一番、小さな三角形が、一瞬だけ違う形に感じた。

 それから、再び紗英に視線を送った。次は心配の念を込めて。

 それには、紗英は反応を示した。でも、ぼくのほうに向いた顔は、ぼくが好きな紗英の顔とは、ずいぶんとかけ離れていた。

 いつもの、潤んでいて光を受けると、海が太陽の光を反射させてきらめくような瞳が、ひどく淀んでいた。

 紗英ではないようだった。

 ぼくは怯みそうになったけれど、それ以上に心配で不安だった。豆粒のような勇気を振り絞り、思い切って声を掛けた。「紗英、どうしたの?」と。

 紗英は、とても感情が読みづらい顔をしていた。

「ねえ、貴利。貴利はお父さんのこと好きだった?」 

 ぼくではなくて、何も貼っていないくすんだ部屋の壁をぼんやりと見つめて、紗英はそう言った。

「……。嫌いではなかったよ」
 ぼくは紗英の問いに対して肯定はできなかった。曖昧な返事が精一杯だった。

 ぼくたちの父親が死んでから、一年が経った。それが、長いのか短いのか、ぼくには分からなかった。ただ、紗英にとっては、まだ、つい最近のことのように感じていたのだろう。問いかけてきた紗英の顔には、懐かしむような色は感じ取れなかったから。

「そう……。あのね、あかねちゃんがね、お父さんのこと悪く言ってきたの。紗英ちゃんのお父さんって、紗英ちゃんのこと好きだったんでしょ? 紗英ちゃん、なにか変なことされてたんじゃないの? って。父親が自分の子どものことを好きなのは当たり前でしょ。それに変なことってなに? って、思った。お父さんは、わたしのことが好きで大切だっただけなのに……」
 あらかじめ決められた映画のセリフのように、淀みなく紗英はそう言った。

「紗英は、お父さんのこと大好きだったよね」
 ぼくは的外れな返答をしてしまった。紗英は聞いているのか聞いていないのか分からないような顔で、あいかわらず一点だけを見つめていた。

 ぼくたちの父親が、歪な愛情を持って紗英に接していたことは、ぼくにも分かっていた。ぼくは父親から名前を呼ばれた記憶なんてない。父親がぼくの名前をつけるときに、まったく関わらなかったことは後になって知ったことだ。

「お父さんのことは、わたしが一番わかってるのに・・・・・・」
 独り言のようだけど、誰かに押しつけるように、紗英はそう言った。その後に、宙(ちゅう)にぼんやりと浮かせていた視線を、自分の右手の親指に移した。

「お父さん……」
紗英はそう言うと、右手の親指を口元に寄せた。そして、薄くて色形の良い唇から、舌を出した。紗英の舌は、それだけが独立した生き物のように蠢いていた。

 紗英はその舌で、自分の右手の親指を一舐めした。そのときの紗英の顔は、いつもの幼さを残した顔ではなくて、煽情的にすら感じられた。

 ぼくは戦慄のようなものを感じた。背中で、何か得体の知れない虫が這いずり回っているような感覚も覚えた。

 なんだか、いつもいるこの場所が、知らない世界に思えた。

 家の中にある物すべてが、急に、それを模倣して作ったレプリカのように思えてきた。ぼくはよそよそしさを感じた。

 でも、紗英の行為は、ひどく、美しいとも感じた。美しい者だけに許された、特権のような行為。

 ぼくは紗英が自分の親指を舐めることを知っていた。

 そのはずなのに、なぜか今日はいつもとは違うように感じた。

 紗英には自分の親指を舐める癖がある。これは、ぼくしか知らないはずだ。秘密と呼べるものかは分からないけれど、ぼくは誰にもこのことを話してはいない。

「ねえ? 貴利? こっちに来て?」
 恍惚とした表情で、紗英はそう言った。

 ぼくは怖かった。いつもの紗英とは違ったから。紗英の元に行ってしまえば、もう二度と元の世界には帰って来られないような、そんな気さえもした。

 でも、ぼくは紗英のほうに寄って行った。赤ん坊が母親に這い寄るような動作で。吸い寄せられるように。
絶対的な存在には、抗いようがないのだ。

 紗英のそばまで寄ると、紗英は、「だして」と言った。ぼくは何を出したらいいのか分からなかったので、少しだけ眉毛を上げてから紗英に訊ねた。

 紗英は一瞬だけ、眉をひそめた。

 でもすぐに元の顔に戻り、ぼくの左手首を掴んだ。すごい力で。ぼくの力が弱いだけなのかもしれないけれど、とても小学生の女の子の力とは思えなかった。

 抗うこともできずに、ぼくの手は紗英の顔の前まで運ばれた。

 それから、再び紗英は言った。次はもう一言だけ付け加えてから。

「だして……親指」

「えっ?」
 そう言ったぼくの声は、とても自分の体から出た声とは思えないほど、うわずっていて掠れていた。すごく間抜けな声だったとも思う。

 ぼくは恐怖で緊張していたのか、両手を強く握りしめていた。爪が手のひらに食い込む感触がはっきりと感じ取れた。

 手を開く気にはなれなかった。ぼくなりの自己防衛反応だったのかもしれない。でも、紗英の言葉の力にはなす術がなかった。

 ぼくは左手の親指だけを何かに引き抜かれたように突き立てた。

「それでいいの」

「紗英、なにをするの?」
 ぼくはそう聞いたけれど、その後に何が起こるのかはすでに分かっていた。

 紗英は首を、骨が通っていないかのように、左右にしなやかに揺らしていた。鞭がしなっているようにも感じた。

 それから、どこか嬉しいような、楽しいような、どちらにも取れる顔をしてから、ぼくの親指を眺めていた。

 ぼくは身動きがとれなかった。動きを止められる魔法をかけられたように。

「ねえ、貴利。動いたらダメよ」
 紗英がそう言うと、ぼくは目で返事をした。目だけは何とか動かせたから。

 それから、紗英はまた真っ赤な舌を出したり戻したりを繰り返していた。ぼくには真っ赤に見えた。本当はそんなことないはずなのに。蛇の舌のように真っ赤に。

 体は動かなかったけれど、視線だけは逸らさないで、ぼくは紗英の顔をまじまじと見ていた。紗英はぼくの視線なんて、気にも留めないで、ぼくの親指だけに視線を合わせていた。獲物を見つけた捕食動物のような鋭い目で。

 いつもの紗英からは考えられない変貌を遂げていて、ぼくは戸惑うよりも不安な思いが強かった。「もとの紗英に戻るのかな」そう心の中で呟いた。その呟きは、紗英の次の一言によって、あっさりと掻き消されたけれど。

「そのままでいるのよ……」
 その言葉を合図に、紗英は舌でぼくの親指を一舐めした。

 その瞬間。

 ぼくの身体に感じたことのない衝撃が走った。鋭利な刃物が一突きで身体を貫くような。

 圧倒的な強者が放つ、渾身の一撃のようでもあった。 

 全身が粟立った。

 指に食べ物が付着したときに、自分の舌でそれを舐めることは今まであったけれど、自分以外の人間に指を舐められることがあるなんて。

 それが、いくら紗英であっても。

「紗英……」
 ぼくは力なく心許ない声で名前を呼んだ。その声は紗英には全く届いていなかったけれど。

 それから、紗英はぼくの親指をくまなく舐めた。皺が刻まれている部分は、その皺に合わせて、舌を器用に動かしながら。

 ぼくは不思議な気分に包まれていた。紗英以外の女の子にこんなことをされたら、すぐさま拒絶の意志を示すだろう。でも、紗英に指を舐められると、怖いのに、なぜか安心している自分がいた。

 頭をゆっくり揺らしながら、律動的に、紗英はぼくの親指を舐め続けている。目はさきほどとは違って、とても虚ろだった。魂が抜けているようにさえ感じた。

 ふと、動きを止めてから、紗英がこう言った。

「貴利もしてみる?」

「……」

「してみる?」
 ぼくが返事をしなかったので、紗英は語気を強めてから再び訊ねた。

「……どうやったたらいいのかわからないよ」

「簡単よ。ただ、大切なものを撫でるような感じですればいいの」

「大切なもの?」

「うん。貴利にもあるでしょ? 大切なもの」

 そう問いかけてきた紗英は、悪巧みを企てている組織の参謀のような顔をしていた。

 ぼくはすぐに、「大切なもの」が頭に浮かばなかった。「大切なひと」ならすぐに思いつくのに。

 しばらくの間、沈黙が続いた。軽いとか重いとか、そういう沈黙ではなくて、ただ、ふたりだけに許された静寂のようだった。

「考えた?」
 その静寂の中に、ぬるり、とその言葉は入り込んできた。

「うん……」
 結局、ぼくは、「大切なひと」を想像することにした。

「じゃあ、してみて。はい……」
 そう言うと、紗英は自分の右手の親指を、ぼくの顔の前に、すっと差し出してきた。

 紗英の親指は、何かの身代わりのようにも感じられた。自分の親指を差し出すことで、紗英は何かを失うのではないだろうか。そう思った。ぼくには紗英が何を考えて、ぼくに親指を差し出したのかが分からなかった。

 ぼくの口のすぐ前には、紗英の親指がある。

 自分以外の親指をこんなに近くで見たのははじめてのことだった。

「わたしがしたみたいにすればいいのよ。簡単だから」

「うん……」
 紗英の親指を舐める以外に選択肢はなかった。

 ぼくは口の中で舌を動かして確認した。自分の舌がきちんと機能しているのかを。

 それから、上の前歯の裏側を舌の先で舐めてみた。なんだか、ざらざらしている気がした。

「いいの?」
 ぼくがそう言うと、紗英は声には出さずに、目だけで返事をして、その後にゆっくりと頷いた。

 紗英の手首を掴んで、自分の元に引き寄せてから舐めるのはなんとなく躊躇(ためら)いがあった。

 ぼくは自分の舌を紗英の親指に近づけることにした。

 紗英の親指にぼくの舌が触れるまでは、実際の距離以上に長く遠く感じた。目を閉じていたせいかもしれないけれど。

 途中で少しだけ目を開いて紗英の親指までの距離を確認した。薄目だったからハッキリとは分からなかったけれど、紗英は笑っているように見えた。

 また目を閉じて、最後の距離を埋める。

 触れた瞬間。

 心臓が普段とは違う脈の打ち方をした気がした。本能が危険を知らせるときの感じに近かったかもしれない。

 一瞬で違いを感じた。

 指ひとつとっても、異性の身体は違う存在なのだ。手ではなく、舌で触れても、それは感じ取れた。

 紗英の指は細くて長くて、とても綺麗なものだった。

 ぼくは驚きと同時に、何か触れてはいけない秘密を、紗英と共有したような気がした。

「気持ち悪くないの?」
 ぼくはそう聞いた。

「うん。貴利はお父さんに似てるから」
 そう言った紗英の顔は、いつの日かに見た、父親に向けていた顔そのままだった。

 そんな顔をされて、ぼくの顔は思わず歪みそうになった。父親に似ている。ぼくにとっては、一番言われたくない言葉かもしれな
い。でも、いまの紗英には、そんなことは言えなかった。
どれぐらいの時間、お互いの親指を舐め合う行為を続けていただろうか。

 ぼくは時が経つにつれて変化していく自分の感情に戸惑っていた。

 さっき紗英に言われた言葉が徐々にぼくの身体の中に浸食していたからだ。少しずつ体を蝕んでいく病魔のように。

 ぼくの本来の感情は、追い詰められ、次第に居場所をなくしていた。

 自分が自分でなくなるようだった。

 いまの紗英が本来の紗英ではないように。

 紗英はぼくを通して父親を見ているのだろうか。

 紗英の目には確かにぼくの姿が映っているのに。

 父親のことは好きだとか嫌いだとか、そんな感情では推し量れない。でも、「好き」という感情に変換されることは決してない。父親。ぼくにとって、その響きは、ただの記号であり、それ以上でも以下でもなかった。もうこの世にはいない。生きていた当時の印象のままだ。仮に生きていたとしても変わることはなかっただろうけれど。紗英に触れるときの、卑しくて汚らわしい顔を見た記憶がある限りは。

 次第に怒りなのか嫉妬なのか分からない感情が溢れてきた。同時に、激しい欲動にも駆られた。自分の中の知らない力が目覚めたようだった。

 怒りか嫉妬にも似た感情がそうさせたのかもしれない。

 ぼくの中で、ざらついて濁ったような感情が渦巻きはじめた。

 その感情は少しずつ、輪郭を伴い、鋭く尖ったものに変化していった。

 それは、紗英のさきほどまでは舐めていた親指に、食らいつきそうなほどのものになった。

 驚きを隠せなかった。ぼくの中に、こんなにも凶暴な感情が存在していることに。

 ぼくはその感情を押さえ込むのに必死だった。紗英を傷つけるようなことだけはしたくなかったから。

 歯を食いしばって、頬の内側の肉を噛んでいた。空いているほうの手を強く握りしめた。でも、どれだけ強く手を握り締めても、その感情は収まらなかった。
さきほどの恐怖に怯えて手を握り締めていたときとは違う。これは、自分自身との戦いだ。

 紗英はぼくのそんな姿に気づいているのか、気づいていないふりをしているだけなのか、あいかわらず、ぼくの親指を舐め回している。淡々と。律動的に。

 ぼくの戦いの終わりは突然やって来た。

 終わりはいつも突然だ。

 玄関の扉が開く音がした。

 帰ってきたのだ。母が。

 母特有の扉を開ける音。とても乱雑で、ぼくたち兄妹でなければ、何者かが強引に玄関をこじ開けた、と思うかもしれない。

 ぼくはびくついて、思わず紗英の元から自分の手を引っ込めた。

 一瞬で現実世界に引き戻された。

 紗英は虚ろな目のまま、ぼくの親指を目で追っていた。手元から飛んで行ったてんとう虫を追うような目にも思えた。

「紗英! 母さんが帰ってきたよ」
 ぼくがそう言っても、紗英は表情を変えないで、ゆっくりとまばたきを繰り返しているだけだった。

「紗英!」
 さっきよりも、強く大きな声で呼んで、肩を何度か揺すった。

 それでようやく気付いたのか、紗英はまばたきの数が多くなりはじめ、目も次第に元通りになっていった。
 ぼくたちが住んでいる家は上から見れば、カタカナのコの字のような間取りをしている。だから、玄関の扉を開けても、ぼくたちの様子がすぐに見られるわけではない。

「はやく行かなくちゃ」

「うん……」
 ぼくは紗英の手を取ってから立ち上がった。

「行くよ」
 紗英の手を引いて、できる限りのスピードで廊下を走って行った。玄関までは大した距離なんてないのに、ずいぶんと長く感じられた。

 母はたたきで、立ちはだかるように待っていた。

 まずい。

 顔色を窺ったけれど、相変わらず何の感情も読み取れない。

「ずいぶんと遅かったわね。なにしてたの?」

「いつも通りだよ。ぼくは絵を描いて、紗英は勉強してた」

「そう……。あいかわらず、あんなわけがわからないものを、絵だなんて言ってるのね」
 全く抑揚がなく、書いてある文章を、ただ、なんとなく読んだだけのような喋り方で、母はそう言った。

「……」
 ぼくは何も言い返さなかった。何か言い返せば、何倍にもなって返ってくるから。それに、ぼくはあくまでも、描いているものに関しては便宜上そう呼んでいただけだ。

「今日のぶんよ」
 母親はそう言ってから、左手に提げていたスーパーの袋を、虚空から落とした。鈍い音を立てて、袋は地上に投げ捨てられた。

「ありがとう……」
 ぼくはそう言った後に、紗英に視線を送った。紗英はぼくの視線に気付くと、目を伏せたまま、呟くような声で、「ありがとう」と言った。

 母親は脱いだ靴をそのままにして、家の中に入った。

 それから、巨人が地上を闊歩しているような足音を立てながら、自室へ向かった。

 ぼくはその靴を綺麗に揃えてから、スーパーの袋を手に取った。

 中身は確認するまでもない。

 いつもと同じものだ。

「食べようか・・・・・・」

「うん・・・・・・」
 ぼくは右手に袋を提げて、左手で紗英の腕を掴んだ。それから、ぼくたちの住みかまで戻った。

 ビニール袋の中身を床に広げると、母親が手から落としたせいなのか、わざとそうしたのか分からないけれど、中の具材は本来収まっていなければいけない場所からはずいぶんとかけ離れた場所に、居心地が悪そうに収まっていた。

 もう、口にしなくても、想像だけで味をすぐに再現できる。

 ぼくたちは、母親の機嫌をこれ以上損ねないように、なるべく音を立てないよう注意しながら、値引きされている弁当を二人で食べ始めた。

 弁当を口にしている間も、ぼくの心臓は必要以上に脈打っていたような気がした。 
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