妹の指

10

 ショッピングモールで清掃の仕事をはじめてから、二ヶ月ほどが過ぎ去った。

 学校で感じていた二ヶ月よりもずいぶんと早く。

 ぼくの指導をしてくれていた先輩は、ぼくよりも二十歳以上は年上だったと思う。どういう理由でそうなっていたのかは分からないけれど、歯がほとんどなかった。本当にその言葉通りだ。前歯は溶けているのか欠けてしまったのか、笑うと、口の中の様子がわかるほどだった。食事をするときに不便ではないのだろうか、とはじめてその人が笑ったときに思った。

 仕事はやはり予想以上にきついものだったけれど、学校に通っていたときに比べれば、気持ちの面では楽だったような気もする。

 その先輩の指導はとても丁寧だった。決して物覚えが言いほうではないぼくに対しても、柔らかい物腰で分かりやすく指導をしてくれた。

 始業時間は十一時だったので、ぼくは十時頃に起きていた。高校の頃に比べれば、ずいぶんな差だった。高校生の頃は、毎朝六時前には起きていたから。

 職場までは自転車で通勤していた。その自転車は、中古で母親に購入してもらったのだけれど、中古だとしても、状態のひどいものだった。ぼくは心の中では、母親がどこかで拾ってきたものではないだろうか、と思っていた。

 職場に着くとまずはロッカールームに行ってから、仕事着に着替える。仕事着と言っても、上は白のポロシャツで下はチノパンのようなパンツだった。

 ぼくは体型がひどく変わっていたので、なかなかちょうど合うサイズの仕事着がなかった。結局上下ともにLサイズを着用することになった。ただ、上下とも長さも足りないうえに、とてもぶかぶかだったけれど。

 着替えが終わると事務所に行ってから、その日の自分が担当する場所を確認する。

 その日のぼくの担当場所はフードコートだった。

 ここのフードコートには、うどん屋、牛丼店、ハンバーガーショップ、韓国料理、ドーナツショップなど、様々な年代が利用できるように、色んな種類の店舗が揃っている。

 フードコートの清掃はそう大変なことではないと思っている。

 土日や祝日は家族連れや学生で溢れかえって、それぞれが一斉に話し出せば、騒音レベルの喧噪になる。

 でも、ぼくは心に鍵を掛けて仕事をするので、遠くで誰かが話している程度にしか感じない。

 高校を卒業してから、ずいぶんと心に鍵を掛ける回数が減ったような気がする。でも、決して生きやすくなったわけではない。

 今日は平日だったので、客はまばらだった。空いているテーブルのほうが多いほどだった。

 ぼくは空いているテーブルと椅子をダスターで拭いていた。

 そのとき、たこ焼き店のそばのテーブルから、怒声が聞こえてきた。

「あなた、わざとそんなことして、私に恥ずかしい思いをさせたいの?」

 振り返ってから、その声のほうを見ると、子どもが食べたものを吐いてしまったようだった。吐瀉物の処理もぼくたち清掃員の仕事なので、ぼくはその声の主のほうに小走りで駆け寄った。

 ぼくが片づけますので、と言うと、その女の人は何も言わずに、二度ほど細い顎先を少しだけ動かしてから、ぼくの言葉に応えた。

 吐いてしまった子どもは、まだ小学校に上がる前ぐらいに見えた。目がとても大きくて、眉毛が凛々しい男の子だった。

「大丈夫?」

 ぼくは一応、そう訊いてみた。

 すると、その子は、泣きそうな顔をしてから、「ごめんなさい」と言った。

 でも、それは、ぼくに言ったのか、それとも、母親に対して言ったのか分からなかった。

 ぼくは吐瀉物を掃除するための道具を取りに事務所に一度戻った。

 事務所から戻ると、その子は泣いていた。声には一切出さないで。

 ぼくは、もう一度言った。

「大丈夫?」と。

 その子は、また、「ごめんなさい」とだけ言った。

 ぼくは、「気にしなくていいから」とも言った。

 その子はその言葉には何も応えないで、ただ、一度だけ深く頷いた。

 母親はぼくが吐瀉物を片づけているあいだも、腕を組んだまま、そっぽを向いていた。

 子どもには一言も声を掛けないで。

 ぼくは一通り吐瀉物を片づけ終わって、その母親に声を掛けた。

「あとはこちらでしておきますので」

 母親は、「そう」とだけ言った。

 その後に、こうも言った。

「だから、こんな場所の食べ物なんて食べるものじゃないのよ」

 誰かに言っているわけではないけれど、明らかに周りに聞こえるように言った。

 ぼくは自分に言われているような気がして、少しだけ嫌な気持ちになった。

 子どもはまだ調子があまり良さそうではなかったけれど、なんとか立ち上がり、母親について行こうとしていた。

 周りの店舗のスタッフもこちらの様子が気になっていたのか、ある店舗の女性スタッフ二人が顔を寄せ合ってから、何かを話していた。

 組んでいた腕を解いてから、その母親は、靴音だけを響かせながら、フードコートから去っていった。

 その靴音はとても冷たく無機質だった。誰も寄せつけない響きを含んでいた。

 ぼくはその母親をただ呆然と見ていた。

 その後に、傲慢かもしれないけれど、その母親をかわいそうだとも思った。

 子どもはふらふらとした足取りで、何とか母親について行っていた。

 途中で一度だけその子どもがぼくのほうを振り返った。それから、深くお辞儀をした。

 ぼくは、首を左右に何度か振って、それに応えた。
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