妹の指

11

「たいへんだったみたいだな。おつかれさま」

 事務所に戻ると所長にそう言われた。

「いえ、別にたいへんではなかったですけど・・・・・・」

「俺たちの仕事はそんなもんだ。決して、きれいな仕事ではないからな」

 キーボードを叩いていた指を止めて、ぼくのほうを向いてから、所長はそう言った。

「はい・・・・・・。ぼくは気にしませんから」

 一度だけ所長に視線を合わせてから、ぼくはそう言った。

「フードコートではよるあることだから。また、あったときにはよろしくたのむよ」

「はい・・・・・・」

「今日はもう上がりだろ?」

「はい、そうです」

「じゃあ、おつかれさま。また、明日もたのむな」

「はい、おつかれさまでした」

 事務所を出ると、ぼくは息を一つ吐いた。それから、ロッカールームに向かった。

 ロッカールームにはぼく以外は誰もいなかった。ぼくはロッカーを開けて、水筒を取りだした。飲み物を買うお金ももったいないので、飲む物は自宅の水道水を水筒に入れてから持ってきている。それで、じゅうぶんだった。ぼくには、市販の天然水と自宅の水道水の違いなんて分からない。

 水が喉を通って胃まで落ちていくと、ようやく気持ちが落ち着いた。

 ぼくはロッカーの横の壁にもたれ掛かった。すると、ひどく疲れを感じて、背中を滑らせてから、そのまま座り込んだ。

 膝のあいだに頭を埋めていると、急に眠気に襲われたので、目を閉じてから貝のようにじっとしていた。

 どれぐらいの時間そうしていたのだろうか。

 誰かの話し声で目が覚めた。

 話し声はぼくのロッカーの反対側から聞こえてくる。

「新人いるだろ? あいつさ、おれとおない年なんだけどさ、あいつの親父、自殺してんだよ。まあ、自殺ぐらいじゃそんなに珍しくもないけどな」

「へえー、そうなん。じゃあ、なにか珍しいことでもあんの?」

 その会話はハッキリと聞き取れた。

 ぼくのロッカーは奥側にあって、その二人は手前側のロッカーで話していたので、ぼくが部屋にいることには気付いていないのだろう。

 ぼくは身体が硬直してしまった。

 同じ職場にぼくたち家族のことを知っている人間がいるなんて。

 ぼくは奥歯を噛みしめるだけで精一杯だった。

「じつはさ、あいつの親父ってロリコンなんだよ。しかも、自分の娘にたいしてだぜ」

「はっ? それは気持ちわりいな」

「おれの知り合いがさ、見たらしいんだわ。あいつの親父が自分の子どもの指をしゃぶってるとこ」

「なんだそれ。おれ、吐きそうだわ。めっちゃ気持ちわりい。ただの変態だな」

「ああ、変態だし鬼畜だよ。自分の娘にそんなことするなんて」

「あいつもなんか変だろ? 見た目もおかしいしさ。おかしいってか、うすきみわりいな」

「まあな。普通じゃない感じはするな。ああ、もちろん、だめな意味でだぜ」

「わかってるよ。だいたい、まともな奴がこんなとこで働くわけないだろ」

「まあ、そうだな。でも、おれたちはまだましなほうじゃないか?」

「ああ、そうだな。おれとお前ぐらいだよ。ましなやつなんて」

「じゃあ、いくか」

「そうだな、働いてやるか」

「なあなな、あいつも妹の指しゃぶってんじゃないか?」

「はは、やってそうだな。てか、あいつ妹にしゃぶらせてんじゃねえか?」

「なにを、だよ?」

「なにをって、おまえ、あそこに決まってんだろ」

 そこまで漫才の掛け合いのように話してから、二人はロッカールームを出て行った。

 二人の下品な笑い声はロッカールームを出て行ってからも聞こえていた。

 ぼくはしばらくのあいだ、身動きが取れなかった。様々な感情が心の中を渦巻いていたから。

 父親のことを悪く言われるのはかまわない。ただ、父親の行為を悪く言われたことに対しては、怒りのような感情でぼくは支配されていた。

 あの行為を否定されることは、紗英自身も否定されていることと同じだからだ。

 ぼくは怒りかたをろくに知らない。

 怒りかたに正解なんてないのだろうけれど、ただ、いまの感情は父親に対して抱いていた感情とはまったく違うことだけは分かった。

「うー・・・・・・。うー・・・・・・。うー・・・・・・」

 ぼくは誰もいなくなったロッカールームで、うなり声だけを上げていた。
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