妹の指
12
目を覚ますと、何かが鳴いている音が聞こえてきた。はじめは寝ぼけていたので、空耳かと思った。
仕事から帰ってきて、ぼくは倒れ込むように眠り込んだ。
何時間寝ていたのだろうか。
やがて混濁していた意識が覚めてくると、その音は鈴虫の鳴き声だと言うことが分かった。
夜になっていた。
月明かりが、ぼくたちの住みかを、淡く照らしている。
とても静かだった。
静かすぎて、静寂の音が聞こえてくるほどだった。静寂の音に耳を傾け続けると、その世界に飲み込まれてしまいそうに思えた。ぼくはこのまま消えてしまってもいい、と少しだけ思った。
鈴虫の鳴き声は、その静寂を破らないように、遠慮して鳴いているように感じた。でも、ぼくには、あいかわらず泣いているようにも感じた。
しばらくのあいだ、鈴虫の鳴き声だけに耳を傾けていた。
どうやらその鳴き声は、外からではなくて、家の中から聞こえてくるようだった。
立ち上がって、その音の元を辿る。
ぼくたちの住みかは広くはないので、すぐに音の発信源を捜し当てることができた。
鈴虫はごみ袋の裏側に潜んでいた。
ぼくが袋をどけると、鈴虫は、はなからぼくに見つかることが分かっていたかのように、羽を何度か動かした。
ぼくは床に落ちていたスーパーの袋を手に取ってから、鈴虫を捕まえた。
逃げられると思っていたけれど、鈴虫は吸い込まれるように袋の中に収まった。
それから、袋を縛って、鈴虫を閉じ込めた。
紗英は体操座りをしたまま横になったような姿で、規則的な寝息を立てながら眠っている。その姿はあまりにも小さくて儚なげに感じた。触れれば一瞬で溶けて消えてしまいそうな、粉雪のように。幼虫のようにも見えたし、残酷な世界から自分を守っているようにも思えたけれど。
ぼくの手でも握りつぶせそうなほど、弱々しく感じたので、試しに、ぼくは両手を思い切り握り締めてみた。でも、いつもと変わらない貧弱な握力が、そこにはあるだけだった。
音を立てないように気をつけて、紗英のそばに座った。
紗英はぼくがそばにいることに気付いた様子はなく、変わらずに寝息を立てている。
もしかして寝ている振りをしているだけかもしれない、と思って、手の甲で紗英の頬に触れてみた。
紗英の頬は驚くほどに滑らかだった。
ぼくは思わず手を引っ込めてしまった。
ふと気付いた。
紗英は右手の親指を手の中に隠していた。親指は他の指によって、完全に守られているように見えた。
ぼくは視線を一度、台所の窓の外の景色に移した。ちょうど月が見えた。満月にはほど遠い、欠けた月だった。
それから、また、紗英に視線を戻した。
ぼくはそっと紗英の手を取って、親指を守っている他の指を、一本ずつ丁寧に剥がしていった。
紗英は少しだけびくついたように体を震わせたけれど、起きることはなかった。
ぼくは露わになった親指を、自分の顔の前まで引き寄せた。
最後に舐めたときよりも、より細くて長くなっているような気がした。爪は月明かりを受けてなのか、とても艶めいて見える。
ぼくは紗英の親指をやさしく一舐めした。
紗英は少しだけ肩を震わせてからそれに応えた。
母親は一週間ほどここには帰ってきていない。ぼくはもう帰ってはこないだろう、と思っている。別に捨てられたとも思ってはいない。ただ、母親は自分で自分の道を選んだだけだ。
ぼくも選ばなければいけない。
紗英は変わらずに規則的な寝息を立てている。それは、安定している心電図の音のようでもあった。
ぼくは紗英の艶やかでしなやかな髪の毛に指を通した。あまりの滑らかさに、ぼくの心まで、すっと軽くなったような気がした。
それから、鈴虫を閉じ込めていた袋をもう一度手に取って、ぼくは玄関に向かった。その途中で、ぼくの体重に耐えきれなかったのか、突然、床が悲鳴を上げた、それは、戦地で死にゆく戦士が出すような断末魔のようにも聞こえた。
ふと、紗英が何か言ったような気がして、紗英に視線を向けたけれど、さきほどと全く同じ格好のまま眠っているだけだった。
外に出てから、鍵を掛けた。
ぼくはなんだか紗英だけを閉じ込めたような気になり、急いで袋の中から、鈴虫を取り出した。直接触れたくはなかったので、袋を逆さにして振ってから、鈴虫を地面に落とした。
鈴虫は少しのあいだ、落とされた場所に微動だにしないでいたけれど、突然鳴き始めた。
その鳴き声は不思議なことに、ぼくには、もう、泣き声に聞こえなかった。ぼくは目を閉じてからその鳴き声に耳を澄ませてみた。紗英が感じたように、少しだけれど、ぼくも綺麗な鳴き声のように思えた。
次に目を開けたときには、鈴虫は、もう、ぼくの知らない場所に行ってしまっていた。
ぼくは、ジーンズの後ろポケットから鍵を取り出した。
さきほど差し込んだばかりの鍵穴に、また鍵を差し込んだ。
ぼくは安心した。よかった。まだ、この鍵は使えるんだ。そう思った。
鍵を開ける。
いつもと同じ鍵が開く音がした。
ぼくと紗英の唯一の場所への進入が許された音。ぼくと紗英だけの音。
扉を開けてから、なるべく音を立てないようにして紗英の元まで戻った。さっきまでと同じ格好で眠っている紗英の姿が目に映った。
紗英――。
心の中で一度だけ呟いた。
紗英――。
声には出さずに唇だけを動かした。
紗英――。
囁くように、その名前を呼んだ。
その響きは一瞬で部屋の中に吸い込まれてしまったけれど。
紗英がぼくの声に反応した気がした。
でも、それは、ぼくの気のせいだった。紗英は変わらずに丸まって眠ったままだった。
ぼくは紗英のすぐそばで横になった。そして、同じように身体を丸めてみた。すごく窮屈にも感じたけれど、とても落ち着くような気もした。
ぼくは一度だけ、軽く目を閉じた。
それから、ゆっくりと目を開けて、紗英の口から、紗英がくわえている親指をそっと引き抜いて、自分の元に手繰り寄せた。
その親指に、ぼくは自分の親指を絡ませた。指切りで約束をするように。
紗英――。
ぼくはどこにも行かないから。
紗英がぼくを必要としている限りは、ぼくはずっと紗英のそばにいる。
どんなに歪で、たとえ、間違っていたとしても。
ぼくは父親とは違う。
紗英を置いて、いなくなったりはしない。
これからも、帰っておいで。
ぼくたちだけの住みかに。
仕事から帰ってきて、ぼくは倒れ込むように眠り込んだ。
何時間寝ていたのだろうか。
やがて混濁していた意識が覚めてくると、その音は鈴虫の鳴き声だと言うことが分かった。
夜になっていた。
月明かりが、ぼくたちの住みかを、淡く照らしている。
とても静かだった。
静かすぎて、静寂の音が聞こえてくるほどだった。静寂の音に耳を傾け続けると、その世界に飲み込まれてしまいそうに思えた。ぼくはこのまま消えてしまってもいい、と少しだけ思った。
鈴虫の鳴き声は、その静寂を破らないように、遠慮して鳴いているように感じた。でも、ぼくには、あいかわらず泣いているようにも感じた。
しばらくのあいだ、鈴虫の鳴き声だけに耳を傾けていた。
どうやらその鳴き声は、外からではなくて、家の中から聞こえてくるようだった。
立ち上がって、その音の元を辿る。
ぼくたちの住みかは広くはないので、すぐに音の発信源を捜し当てることができた。
鈴虫はごみ袋の裏側に潜んでいた。
ぼくが袋をどけると、鈴虫は、はなからぼくに見つかることが分かっていたかのように、羽を何度か動かした。
ぼくは床に落ちていたスーパーの袋を手に取ってから、鈴虫を捕まえた。
逃げられると思っていたけれど、鈴虫は吸い込まれるように袋の中に収まった。
それから、袋を縛って、鈴虫を閉じ込めた。
紗英は体操座りをしたまま横になったような姿で、規則的な寝息を立てながら眠っている。その姿はあまりにも小さくて儚なげに感じた。触れれば一瞬で溶けて消えてしまいそうな、粉雪のように。幼虫のようにも見えたし、残酷な世界から自分を守っているようにも思えたけれど。
ぼくの手でも握りつぶせそうなほど、弱々しく感じたので、試しに、ぼくは両手を思い切り握り締めてみた。でも、いつもと変わらない貧弱な握力が、そこにはあるだけだった。
音を立てないように気をつけて、紗英のそばに座った。
紗英はぼくがそばにいることに気付いた様子はなく、変わらずに寝息を立てている。
もしかして寝ている振りをしているだけかもしれない、と思って、手の甲で紗英の頬に触れてみた。
紗英の頬は驚くほどに滑らかだった。
ぼくは思わず手を引っ込めてしまった。
ふと気付いた。
紗英は右手の親指を手の中に隠していた。親指は他の指によって、完全に守られているように見えた。
ぼくは視線を一度、台所の窓の外の景色に移した。ちょうど月が見えた。満月にはほど遠い、欠けた月だった。
それから、また、紗英に視線を戻した。
ぼくはそっと紗英の手を取って、親指を守っている他の指を、一本ずつ丁寧に剥がしていった。
紗英は少しだけびくついたように体を震わせたけれど、起きることはなかった。
ぼくは露わになった親指を、自分の顔の前まで引き寄せた。
最後に舐めたときよりも、より細くて長くなっているような気がした。爪は月明かりを受けてなのか、とても艶めいて見える。
ぼくは紗英の親指をやさしく一舐めした。
紗英は少しだけ肩を震わせてからそれに応えた。
母親は一週間ほどここには帰ってきていない。ぼくはもう帰ってはこないだろう、と思っている。別に捨てられたとも思ってはいない。ただ、母親は自分で自分の道を選んだだけだ。
ぼくも選ばなければいけない。
紗英は変わらずに規則的な寝息を立てている。それは、安定している心電図の音のようでもあった。
ぼくは紗英の艶やかでしなやかな髪の毛に指を通した。あまりの滑らかさに、ぼくの心まで、すっと軽くなったような気がした。
それから、鈴虫を閉じ込めていた袋をもう一度手に取って、ぼくは玄関に向かった。その途中で、ぼくの体重に耐えきれなかったのか、突然、床が悲鳴を上げた、それは、戦地で死にゆく戦士が出すような断末魔のようにも聞こえた。
ふと、紗英が何か言ったような気がして、紗英に視線を向けたけれど、さきほどと全く同じ格好のまま眠っているだけだった。
外に出てから、鍵を掛けた。
ぼくはなんだか紗英だけを閉じ込めたような気になり、急いで袋の中から、鈴虫を取り出した。直接触れたくはなかったので、袋を逆さにして振ってから、鈴虫を地面に落とした。
鈴虫は少しのあいだ、落とされた場所に微動だにしないでいたけれど、突然鳴き始めた。
その鳴き声は不思議なことに、ぼくには、もう、泣き声に聞こえなかった。ぼくは目を閉じてからその鳴き声に耳を澄ませてみた。紗英が感じたように、少しだけれど、ぼくも綺麗な鳴き声のように思えた。
次に目を開けたときには、鈴虫は、もう、ぼくの知らない場所に行ってしまっていた。
ぼくは、ジーンズの後ろポケットから鍵を取り出した。
さきほど差し込んだばかりの鍵穴に、また鍵を差し込んだ。
ぼくは安心した。よかった。まだ、この鍵は使えるんだ。そう思った。
鍵を開ける。
いつもと同じ鍵が開く音がした。
ぼくと紗英の唯一の場所への進入が許された音。ぼくと紗英だけの音。
扉を開けてから、なるべく音を立てないようにして紗英の元まで戻った。さっきまでと同じ格好で眠っている紗英の姿が目に映った。
紗英――。
心の中で一度だけ呟いた。
紗英――。
声には出さずに唇だけを動かした。
紗英――。
囁くように、その名前を呼んだ。
その響きは一瞬で部屋の中に吸い込まれてしまったけれど。
紗英がぼくの声に反応した気がした。
でも、それは、ぼくの気のせいだった。紗英は変わらずに丸まって眠ったままだった。
ぼくは紗英のすぐそばで横になった。そして、同じように身体を丸めてみた。すごく窮屈にも感じたけれど、とても落ち着くような気もした。
ぼくは一度だけ、軽く目を閉じた。
それから、ゆっくりと目を開けて、紗英の口から、紗英がくわえている親指をそっと引き抜いて、自分の元に手繰り寄せた。
その親指に、ぼくは自分の親指を絡ませた。指切りで約束をするように。
紗英――。
ぼくはどこにも行かないから。
紗英がぼくを必要としている限りは、ぼくはずっと紗英のそばにいる。
どんなに歪で、たとえ、間違っていたとしても。
ぼくは父親とは違う。
紗英を置いて、いなくなったりはしない。
これからも、帰っておいで。
ぼくたちだけの住みかに。