妹の指

3

 ぼくたちの父親は、経済力だけはやたらとある人間だった。

 何の仕事をしていたのかはよく分からなかったけれど。

 身なりも、とても気を遣っていたと思う。

 普通ならアイロンをかけないような洋服にも、必ずと言っていいほど、アイロン掛けをしていた。父親は自分の洋服を一切、母親には触らせなかった。すべて、自分で管理をしていた。それと、よく同じような洋服を着ていた。それは、本当にすべて同じ服だったかもしれない。父親の顔には深い皺が刻まれていた。特にほうれい線がくっきりと刻み込まれていた。洋服には皺のひとつも付いていなかったのに。そのアンバランスさが、ぼくは気持ちが悪くて仕方がなかった。父親は自分の深い皺が嫌いだったのだろう。そのせいで、実年齢よりも、だいぶ上に見られていたから。だから、せめて、身に付けるものぐらいは、しゃんとしておきたかったのかもしれない。

 その当時、暮らしていた自宅は、今の住みかの二倍以上はゆうに広かったと思う。四人で住むにしてもじゅうぶんな広さだった。間取りは5LDKだった。一人につき一部屋があった。余っていた一部屋は、父親の書斎のような部屋だったと思う。部屋の中を覗いたことすらもなかったけれど、父親が本を持って、その部屋の中に入って行くのを見たことがあるから。

 その自宅には、ぼくの自室もあった。

 当然のように、紗英の部屋よりも狭い部屋ではあったけれど。

 ただ、父親と母親は、ぼくをその部屋の中に閉じ込めておきたかったから、ぼくに部屋を与えただけかもしれない。
部屋の広さは、父親、紗英、母親、ぼく。

 それがそのまま、家の中でのヒエラルキーだった。

 父親はあの当時のぼくから見ても、父親としてはおろか、人間としても問題が多かった気がする。

 紗英への異常とも思えた愛情の注ぎかたや、たまに家族で外出したときに立ち寄った飲食店での店員のぞんざいな扱いなど。

 ぼくには父親との思い出なんて存在しない。

 父親がぼくに話しかけてくるとき。

 それは、紗英が外出しているときに、その行き先を訊ねるときくらいだった。

 そのときの父親の顔は、赤の他人にはじめて話しかけるように、ひどくよそよそしくて、どことなく口元が歪んでいるように感じていた。

 父親は自宅にいるときは、そのほとんどの時間を、紗英と過ごすことにあてていた。

 紗英もそんな父親に懐いていたと思う。

 少なくとも、ぼくには、紗英が父親に向けていた疑うことを微塵も知らないような笑顔が、演技だとはとうてい思えなかった。

 二人はリビングで堂々と時を過ごしていた。

 家族なのだから別に何もおかしなことではないのだけれど、そんなときは、水を飲みに行くことさえもはばからなければいけないような気がしていた。

 そんなとき、ぼくは自室にこもり、空想に耽ったり、床の模様をずっと目でなぞったり、何かを描いていた。

 とりわけ、何かを描くことに関しては、かなりの時間を割いていたのではないだろうか。

 何かとはほんとうに、ただの何かだ。絵などとはとうてい呼べるものではなかった。

 使用するのは、円形、三角形、四角形、五角形などの図形だ。

 それを、組み合わせたりして、自分だけの図形を描いていた。

 そんなことをはじめたのはその頃からだと思う。

 そのときどきの気持ちでどの形を使用するかが変化していく。

 一番多かったのは四角形。

 その四角形は正方形ではなくて、歪んだ四角形だった。

 その中に、他の形を敷き詰めていた。いや、敷き詰めるというより、閉じ込めていたのかもしれない。図形通しが重なり合わないようにしながら、ひたすら四角形の中に、他の図形を描き込んでいく。

 ぼくは、自宅にあるプリンターのコピー用紙に、それらを描いていた。別に学校のノートに描いてもよかった。どうせ、勉強は頭に入ってこなかったから。

 ただ、可能性の一つとして、ノートはクラスメイトに覗かれるかもしれない。

 コピー用紙も、なるべく、部屋に持ち込んでいることが分からないように、数枚ずつ自室に持ち帰っていた。でも、父親も母親も、そのことには気付いていただろう。

 その紙に、真ん中からは描かずに、四隅から埋めるように、図形を描き込んでいた。中心は最後に埋めないと不安だった。隅から埋めていけば、中心は逃げようがないから。

 父親と紗英は自宅での時間を過ごし終えると、だいたいが、その次は外出をしていた。

 ぼくはそのときも自室にこもりきりだった。

 二人の顔を見たくなかったことも、理由の一つかもしれない。

 父親の感情が読みづらい顔や、そんな父親に無垢な笑顔を捧げている紗英の顔も見たくはなかった。

 二人が触れ合っているという事実だけで、ぼくの心はいつ壊れてもおかしくはなかった。唯一の理解者が、嫌い、憎い、などの単純な感情だけでは言いあらわせない人間に触れられていたのだから。

 ぼくがそんな気持ちのときに、母親が何をしていて、どんな気持ちだったのか、ぼくはよく知らない。

 いつだったか、珍しく部屋を出ていたぼくは母の姿を見たことがある。

 ちょうど、父親と紗英が、外に出て行こうとしていたときだった。

 ぼくは二人を見たくなかったから、母親の表情を目で追っていた。

 そのときの母親の表情は何の感情も読み取れなかった。ただ、それぞれのパーツが顔に貼り付けてあるだけのように見えた。無理やりそうしていただけかもしれないけれど。

 ぼくは二人が出て行った後に、逃げ込むように自室に戻り、すぐ鍵を掛けた。

 でも、鍵は確かに掛かっているのに、ふいにドアが開きそうな気がした。

 ぼくは普段から、自室の鍵は必ず掛けるようにしていた。父親も母親も、ぼくの自室に来ることなんてなかった。紗英は違ったけれど。

 ただ、鍵を掛けていると心が安らいだ。

 鍵を掛けることによって、小さな部屋でも、ぼくだけの空間が成立するから。

 鍵一つで、外界と自室を隔てることができるのだ。

 外の世界の息苦しさから解放された気分になれた。

 その頃だろうか。

 ぼくは自分の心にも鍵を掛けようと思ったのは――。
< 3 / 13 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop