妹の指
4
とある日曜日。
やけに風が強い日だった。ぼくが住んでいたマンションの窓は、ずいぶんとぶ厚いガラスを使用していて、頑丈だったと思うけれど、それでも、風に意志が宿っているかのように、何度も激しく窓を叩きつけていた。
その日、父親は仕事が休みだった。
父親はやけに早い時間から起きていた。
出勤時間も他の会社員と比べると早いほうだとは思う。ただ、その日は、その時間よりも早い時間から行動を開始していた。
その日が休みだったせいかは分からないけれど、前日はずいぶんと遅い時間に帰宅していた。
そのとき、ぼくは現実世界と夢の狭間にいた。部屋の中は輪郭が曖昧になっていた。ぼくは、ふと、自分の姿もぼやけているのではないだろうかと思い、手のひらを見たけれど、自分の意識が朦朧としているせいか、部屋が暗いせいでそう思ったかは分からなかった。その状態で見た時刻は、あと数分で日付が変わるところだった。
次の日の朝は、早くから、ぼくたちの部屋の前を行き来している足音があった。
その足音でぼくは目が覚めた。
紗英の部屋はぼくの部屋の向かい側にある。
音の主はすぐに分かった。
父親だ。
自室のドア越しでも分かる気配。規則的で、左右の音はほとんど均等、とても、神経質な足音だった。
何度もぼくたちの部屋の前まで来ては、廊下で佇んで、また、リビングへと戻っていく。
もちろん、分かってはいた。
紗英に用事があることぐらい。
何度目の往来のときだっただろうか。
ずいぶんと部屋の前に佇んでいたので、ぼくは気になってしまい、外を覗いてみたい衝動に駆られた。
なぜ、そんなことを思い立ったのかはよく分からない。
その足音からは、ぼくを拒絶する意志のようなものが感じられたのに。
ぼくは布団から抜け出して、なるべく足音を立てないように意識しながら、ドアの前まで這って行った。
二足歩行ではなく、四足歩行で行ったのは、本能がそうさせたのかもしれない。
ドアの前まで行くと、右耳をそっとドアにはり付けた。
ドアは思いのほかひんやりとしていた。
ぼくは、鼓動の速さが気にはなったけれど、息をゆっくり吐いてから耳を澄ませた。
やはり、父親はいる。
このドアの向こう側に。
ぼくは耳をドアにはり付けたまま、鍵のつまみに手を添えた。それから、音が出ないように、慎重に鍵を開けた。
薄くドアを開いた。
手で目隠しをしているときに、その隙間からそっと相手の様子を盗み見るときの薄さほどに。
ぼくの目が外の世界と繋がった瞬間。
ぼくの心臓は一瞬だけ、本来の働きを止めたような気がした。
父親がさきほどまでのぼくと同じような体勢だったから。
紗英の部屋のドアに耳をはり付けていた。薄くしかドアを開いていなかったので、はっきりとは分からなかったけれど、父親はどこか恍惚とした表情をしていたように感じた。
その姿はひどく滑稽に、ぼくの目には映った。
同時に、ぼくも他人から見ればそんな風に見えているのだろうか、と思い、気恥ずかしくなってしまった。
急いでドアを閉めたかったけれど、覗いていたことがばれる気がして、ぼくはドアをそっと閉めた。
ドアは本来の位置に戻り、本来の役目を全うしていた。
当たり前のことなのに、ぼくは安心した。
触れてはいけないものに触れてしまったような気がして、何か罰を受けなければいけない、と感じていたから。
もしも、ドアが歪んで閉まらなかったなら、ぼくはどうなってしまっていただろう。
考えただけで、心臓の中で小動物が暴れ出したのではないかと思うほどに、鼓動は乱れて、呼吸が浅く速くなってしまった。
しばらくして、息苦しさがなくなった頃には、父親の気配はなくなっていた。
ぼくはその後に、しばらく眠ってしまった。
次に目が覚めたのは、さきほどとは違う足音が聞こえてきたからだ。
父親のそれとは違う粗暴で、左右の音はバラバラ。ぼくにはそう聞こえていた。
その音が、ぼくの部屋の前で止まった。
それから、二回ほど、ドアを叩く音がした。それは、コンコン、なんて生やさしいものではない。
手のどの部分で叩いているのかは分からないけれど、明らかに暴力的な叩きかただった。
母親の昼食ができあがったことを知らせるための手段だった。
さきほどの父親の姿を見てしまったせいか、昼食を取る気にはあまりなれなかった。だけど、残してしまえば、二度と作ってもらえないかもしれない。
ぼくは自室を出てから、ダイニングに向かった。
ダイニングに隣接しているリビングに、父親はいた。
ソファーに座って、腕を組み、何も流れていない真黒な画面のテレビをじっと見つめていた。ただ、足はかすかにだけれど揺れてい
たように思う。
ぼくは一度だけその様子を目で認めると、ダイニングテーブルの椅子に腰掛けた。
目の前の昼食はかなりの量だった。
たとえ大人でも、完食することがたいへんなほどの。
母親はぼくが小食なことを知っている上で、こういう仕打ちをする。
父親が紗英に愛情を注げば注ぐほど、ぼくへの嫌らしい仕打ちが増えていく。
母親は紗英が憎くても、紗英に対して直接的には何も手を出せない。父親に、それが見つかれば、何をされるか分からないから。
周り回って、ぼくにその感情を向けているのだろう。
でも、残すわけにはいかない。
ぼくは自分が無力なことは知っている。一人では生きていけない。この家にいる以上は、ここの主たちの言うことを聞くしかない。
皿から溢れそうな料理を口に運んだ。
後のことを考えると、少しずつ食べたほうがいい気がした。
母親はぼくがダイニングに来たときには、すでに自分の部屋に戻っていた。
ぼくの席の隣にも、同じ料理が置いてある。ただ、量は、ぼくとはずいぶんと違ったけれど。
紗英の昼食は、なんだか、店の軒先に置かれている食品サンプルのように感じた。
紗英はなかなか部屋から出てこなかった。それは珍しいことでもあった。父親が休みの日には自分から父親の元へ寄って行っていたほどだったから。
ぼくは気になり始めて、一口料理を食べるごとに、紗英の部屋のほうに視線を移していた。
紗英はよくぼくの部屋に遊びに来ていた。あんなに広い部屋をもらっているのに、なんでわざわざ、ぼくの部屋に来るのかはよく分からなかったけれど。
でも、ぼくはうれしかった。
紗英が話すことは、だいたいがいつも同じような内容だった。
父親のこと。学校でのこと。
そんなことを、とても一生懸命な顔をしてから、ぼくに話し掛けてくれていた。
ぼくはそんな紗英を見ているだけで、空っぽの心も、少しだけど満ち足りた気持ちになれた。
先に見かねたのは父親だった。
ソファーから、突然飛び上がるように立ち上がった。バッタがジャンプをするときのような勢いだった。
ぼくは少し驚いて、横目からもう少し、顔を父親のほうに向けた。
父親はそんなぼくを気にも留めていなかったけれど。
腕は組んだままで、何か独り言のようなものを言っていたような気がした。
それ以後、ぼくは父親をなるべく視線の中に入れないように気を付けた。
父親はまた、紗英の部屋のほうに向かい始めた。それは、間違いない、と思った。
なにせ、ぼくの後ろを通り過ぎるときに、紗英の名前を口にしたから。ぼくはそのときに、変な気持ちになった。気分も悪くなったように感じた。
でも、それが、母親の料理のせいなのか、父親の紗英の名前を呼ぶ声のせいなのかは分からなかった。
父親が視界から完全に消えた後、ぼくは昼食を食べることに集中した。
お世辞にも美味しいとは言えない昼食を。
もしかすると、母親はわざと不味い料理を作っているのかもしれない。
残り何口かで完食というところで、父親の声が聞こえてきた。ダイニングからではハッキリとは聞き取れなかったけれど、間違いなく父親が声を発していた。
なかなか部屋から出てこない紗英に耐えかねて、ドア越しに呼びかけているようだった。
耳をそっちに集中させたら、細切れではあったけれど、何を言っているのか聞き取れた。
父親は、紗英を心配しているような言葉を掛けていた。紗英の返事はここからでは全く聞こえないので、父親の言葉で紗英の様子を判断するしかなかった。
どうやら紗英は体調が優れないらしい、と言うことが分かった。
父親は甘い声色で、心配そうな言葉を掛けてはいたけれど、そんな紗英を外に連れ出そうともしていた。
ふと、視線を自分の手元に落とした。指にフォークの柄(え)が食い込んでいた。でも、不思議と痛くはなかった。むしろ、もっと力を込めようと思ったほどだった。
それから、しばらく、父親は紗英を呼び続けた。
どれくらい経ってからだっただろうか。
料理はすっかり冷めきっていた。
そして、まるで何年かぶりにわが子に会ったような声で、父親は、紗英の名前を呼んだ。
その声だけは、ハッキリとダイニングまで聞こえてきた。
やっと、紗英が部屋から出てきたようだった。
父親に寄り添われながら、紗英はリビングまで歩いてきた。
ぼくは紗英だけを見ていた。
紗英もぼくを見ていた。
紗英はひどく弱々しい目をしていた。よほど体調が優れなかったのだろう。いつもの輝きがそこにはなかったから。
父親は紗英をそっとソファーに腰掛けさせてから、紗英の隣に自分も腰を下ろした。
それから、いくつか言葉を掛けて、紗英の頭を撫でていた。
ぼくは見たくもない光景のはずなのに、視線を外せなかった。もしかすると、ぼくはうらやましかったのかもしれない。歪んではいても、父親に愛されている紗英が。
でも、そんな考えはすぐに吹き飛んだ。
父親が発した一言によって。
「紗英、外に遊びに行こう」
紗英はそう言われると、言葉は何も発さずに、操られている人形のように口の端を上げてから笑顔を作った。
自分のことしか考えていない父親が、急に別の生き物に感じられた。
ぼくはただ紗英が心配だった。
風邪でも引いたのだろうか。顔色も悪いし、いつもの快活さも完全に失われていた。
父親はすでに部屋着から着替えていたので、紗英にも着替えてくるように促した。
紗英は、ゆっくり、一度だけ頷いてから部屋に戻って行った。
すれ違いざまに紗英が、風が吹いていたら掻き消されるような声で言った。
「大丈夫だよ。貴利・・・・・・」
ぼくがそれに対して何も返事をしなかったので、紗英は首を傾げた。その後に、すっ、と右手を出してから、ぼくの頭を数回撫でてくれた。よしよし、と言いながら。
それから、もう一度言った。
「大丈夫だからね。心配しないで」
「うん・・・・・・」
ぼくはそう返すのが精一杯だった。
ぼくと紗英が話しているあいだ、ずっと、鋭い視線が、ぼくを貫いていた。
紗英が部屋に戻ってから、父親はぼくになにも話しかけてはこなかったけれど、明らかに不機嫌なことが気配で伝わってきた。
ぼくは残り数口ほどで食べ終えられる昼食は残した。食器だけ片付けてから、自室へ駆け込んだ。
自室の鍵を掛けると、やっと、父親の視線が剥がれ落ちたような気がした。それまで、粘着性のある視線がぼくの体にはへばりついていた。
自室に戻ると息苦しさを覚えた。呼吸をろくにしていなかったようだ。呼吸が荒い。
ぼくは布団の中に潜り込んでから、息をゆっくりと整えた。
しばらくすると落ち着いたけれど、次は、部屋の外が気になりはじめた。
ぼくはまた耳をドアにはり付けて、外の様子を窺った。
廊下では父親と紗英が何か話をしていた。
そろそろ、外に出て行くようだった。
さきほどの紗英の顔が思い浮かぶ。あんなにきつそうなのに、父親の言うことを聞き入れた紗英。
父親のことを考えると、いろんな感情が心を渦巻くけれど、いまは紗英のことを考えても、いつもの空っぽが埋まるような感じではなくて、紗英という存在が、昼食をお店のサンプルメニューと感じたように、なんだか作り物のように思えた。
ぼくは、ふと思い立った。
二人の後をこっそりつけよう。
なぜ、あのとき、そんなことを思ったのかは分からない。火が突然燃え盛るように、そのような衝動に駆られた。
二人が外に出てから、ぼくはゆっくりとドアを開けた。母親は部屋にいることは分かっているのだけれど、二人の残像が廊下に残っているような気がして、少しだけ怖かったから。
誰も何もないことを確認すると、ぼくは玄関に向かった。靴に足を突っ込むと、踵を踏んだまま外に出た。そのとき、初めて靴の踵を踏みつけたかもしれない。
やけに風が強い日だった。ぼくが住んでいたマンションの窓は、ずいぶんとぶ厚いガラスを使用していて、頑丈だったと思うけれど、それでも、風に意志が宿っているかのように、何度も激しく窓を叩きつけていた。
その日、父親は仕事が休みだった。
父親はやけに早い時間から起きていた。
出勤時間も他の会社員と比べると早いほうだとは思う。ただ、その日は、その時間よりも早い時間から行動を開始していた。
その日が休みだったせいかは分からないけれど、前日はずいぶんと遅い時間に帰宅していた。
そのとき、ぼくは現実世界と夢の狭間にいた。部屋の中は輪郭が曖昧になっていた。ぼくは、ふと、自分の姿もぼやけているのではないだろうかと思い、手のひらを見たけれど、自分の意識が朦朧としているせいか、部屋が暗いせいでそう思ったかは分からなかった。その状態で見た時刻は、あと数分で日付が変わるところだった。
次の日の朝は、早くから、ぼくたちの部屋の前を行き来している足音があった。
その足音でぼくは目が覚めた。
紗英の部屋はぼくの部屋の向かい側にある。
音の主はすぐに分かった。
父親だ。
自室のドア越しでも分かる気配。規則的で、左右の音はほとんど均等、とても、神経質な足音だった。
何度もぼくたちの部屋の前まで来ては、廊下で佇んで、また、リビングへと戻っていく。
もちろん、分かってはいた。
紗英に用事があることぐらい。
何度目の往来のときだっただろうか。
ずいぶんと部屋の前に佇んでいたので、ぼくは気になってしまい、外を覗いてみたい衝動に駆られた。
なぜ、そんなことを思い立ったのかはよく分からない。
その足音からは、ぼくを拒絶する意志のようなものが感じられたのに。
ぼくは布団から抜け出して、なるべく足音を立てないように意識しながら、ドアの前まで這って行った。
二足歩行ではなく、四足歩行で行ったのは、本能がそうさせたのかもしれない。
ドアの前まで行くと、右耳をそっとドアにはり付けた。
ドアは思いのほかひんやりとしていた。
ぼくは、鼓動の速さが気にはなったけれど、息をゆっくり吐いてから耳を澄ませた。
やはり、父親はいる。
このドアの向こう側に。
ぼくは耳をドアにはり付けたまま、鍵のつまみに手を添えた。それから、音が出ないように、慎重に鍵を開けた。
薄くドアを開いた。
手で目隠しをしているときに、その隙間からそっと相手の様子を盗み見るときの薄さほどに。
ぼくの目が外の世界と繋がった瞬間。
ぼくの心臓は一瞬だけ、本来の働きを止めたような気がした。
父親がさきほどまでのぼくと同じような体勢だったから。
紗英の部屋のドアに耳をはり付けていた。薄くしかドアを開いていなかったので、はっきりとは分からなかったけれど、父親はどこか恍惚とした表情をしていたように感じた。
その姿はひどく滑稽に、ぼくの目には映った。
同時に、ぼくも他人から見ればそんな風に見えているのだろうか、と思い、気恥ずかしくなってしまった。
急いでドアを閉めたかったけれど、覗いていたことがばれる気がして、ぼくはドアをそっと閉めた。
ドアは本来の位置に戻り、本来の役目を全うしていた。
当たり前のことなのに、ぼくは安心した。
触れてはいけないものに触れてしまったような気がして、何か罰を受けなければいけない、と感じていたから。
もしも、ドアが歪んで閉まらなかったなら、ぼくはどうなってしまっていただろう。
考えただけで、心臓の中で小動物が暴れ出したのではないかと思うほどに、鼓動は乱れて、呼吸が浅く速くなってしまった。
しばらくして、息苦しさがなくなった頃には、父親の気配はなくなっていた。
ぼくはその後に、しばらく眠ってしまった。
次に目が覚めたのは、さきほどとは違う足音が聞こえてきたからだ。
父親のそれとは違う粗暴で、左右の音はバラバラ。ぼくにはそう聞こえていた。
その音が、ぼくの部屋の前で止まった。
それから、二回ほど、ドアを叩く音がした。それは、コンコン、なんて生やさしいものではない。
手のどの部分で叩いているのかは分からないけれど、明らかに暴力的な叩きかただった。
母親の昼食ができあがったことを知らせるための手段だった。
さきほどの父親の姿を見てしまったせいか、昼食を取る気にはあまりなれなかった。だけど、残してしまえば、二度と作ってもらえないかもしれない。
ぼくは自室を出てから、ダイニングに向かった。
ダイニングに隣接しているリビングに、父親はいた。
ソファーに座って、腕を組み、何も流れていない真黒な画面のテレビをじっと見つめていた。ただ、足はかすかにだけれど揺れてい
たように思う。
ぼくは一度だけその様子を目で認めると、ダイニングテーブルの椅子に腰掛けた。
目の前の昼食はかなりの量だった。
たとえ大人でも、完食することがたいへんなほどの。
母親はぼくが小食なことを知っている上で、こういう仕打ちをする。
父親が紗英に愛情を注げば注ぐほど、ぼくへの嫌らしい仕打ちが増えていく。
母親は紗英が憎くても、紗英に対して直接的には何も手を出せない。父親に、それが見つかれば、何をされるか分からないから。
周り回って、ぼくにその感情を向けているのだろう。
でも、残すわけにはいかない。
ぼくは自分が無力なことは知っている。一人では生きていけない。この家にいる以上は、ここの主たちの言うことを聞くしかない。
皿から溢れそうな料理を口に運んだ。
後のことを考えると、少しずつ食べたほうがいい気がした。
母親はぼくがダイニングに来たときには、すでに自分の部屋に戻っていた。
ぼくの席の隣にも、同じ料理が置いてある。ただ、量は、ぼくとはずいぶんと違ったけれど。
紗英の昼食は、なんだか、店の軒先に置かれている食品サンプルのように感じた。
紗英はなかなか部屋から出てこなかった。それは珍しいことでもあった。父親が休みの日には自分から父親の元へ寄って行っていたほどだったから。
ぼくは気になり始めて、一口料理を食べるごとに、紗英の部屋のほうに視線を移していた。
紗英はよくぼくの部屋に遊びに来ていた。あんなに広い部屋をもらっているのに、なんでわざわざ、ぼくの部屋に来るのかはよく分からなかったけれど。
でも、ぼくはうれしかった。
紗英が話すことは、だいたいがいつも同じような内容だった。
父親のこと。学校でのこと。
そんなことを、とても一生懸命な顔をしてから、ぼくに話し掛けてくれていた。
ぼくはそんな紗英を見ているだけで、空っぽの心も、少しだけど満ち足りた気持ちになれた。
先に見かねたのは父親だった。
ソファーから、突然飛び上がるように立ち上がった。バッタがジャンプをするときのような勢いだった。
ぼくは少し驚いて、横目からもう少し、顔を父親のほうに向けた。
父親はそんなぼくを気にも留めていなかったけれど。
腕は組んだままで、何か独り言のようなものを言っていたような気がした。
それ以後、ぼくは父親をなるべく視線の中に入れないように気を付けた。
父親はまた、紗英の部屋のほうに向かい始めた。それは、間違いない、と思った。
なにせ、ぼくの後ろを通り過ぎるときに、紗英の名前を口にしたから。ぼくはそのときに、変な気持ちになった。気分も悪くなったように感じた。
でも、それが、母親の料理のせいなのか、父親の紗英の名前を呼ぶ声のせいなのかは分からなかった。
父親が視界から完全に消えた後、ぼくは昼食を食べることに集中した。
お世辞にも美味しいとは言えない昼食を。
もしかすると、母親はわざと不味い料理を作っているのかもしれない。
残り何口かで完食というところで、父親の声が聞こえてきた。ダイニングからではハッキリとは聞き取れなかったけれど、間違いなく父親が声を発していた。
なかなか部屋から出てこない紗英に耐えかねて、ドア越しに呼びかけているようだった。
耳をそっちに集中させたら、細切れではあったけれど、何を言っているのか聞き取れた。
父親は、紗英を心配しているような言葉を掛けていた。紗英の返事はここからでは全く聞こえないので、父親の言葉で紗英の様子を判断するしかなかった。
どうやら紗英は体調が優れないらしい、と言うことが分かった。
父親は甘い声色で、心配そうな言葉を掛けてはいたけれど、そんな紗英を外に連れ出そうともしていた。
ふと、視線を自分の手元に落とした。指にフォークの柄(え)が食い込んでいた。でも、不思議と痛くはなかった。むしろ、もっと力を込めようと思ったほどだった。
それから、しばらく、父親は紗英を呼び続けた。
どれくらい経ってからだっただろうか。
料理はすっかり冷めきっていた。
そして、まるで何年かぶりにわが子に会ったような声で、父親は、紗英の名前を呼んだ。
その声だけは、ハッキリとダイニングまで聞こえてきた。
やっと、紗英が部屋から出てきたようだった。
父親に寄り添われながら、紗英はリビングまで歩いてきた。
ぼくは紗英だけを見ていた。
紗英もぼくを見ていた。
紗英はひどく弱々しい目をしていた。よほど体調が優れなかったのだろう。いつもの輝きがそこにはなかったから。
父親は紗英をそっとソファーに腰掛けさせてから、紗英の隣に自分も腰を下ろした。
それから、いくつか言葉を掛けて、紗英の頭を撫でていた。
ぼくは見たくもない光景のはずなのに、視線を外せなかった。もしかすると、ぼくはうらやましかったのかもしれない。歪んではいても、父親に愛されている紗英が。
でも、そんな考えはすぐに吹き飛んだ。
父親が発した一言によって。
「紗英、外に遊びに行こう」
紗英はそう言われると、言葉は何も発さずに、操られている人形のように口の端を上げてから笑顔を作った。
自分のことしか考えていない父親が、急に別の生き物に感じられた。
ぼくはただ紗英が心配だった。
風邪でも引いたのだろうか。顔色も悪いし、いつもの快活さも完全に失われていた。
父親はすでに部屋着から着替えていたので、紗英にも着替えてくるように促した。
紗英は、ゆっくり、一度だけ頷いてから部屋に戻って行った。
すれ違いざまに紗英が、風が吹いていたら掻き消されるような声で言った。
「大丈夫だよ。貴利・・・・・・」
ぼくがそれに対して何も返事をしなかったので、紗英は首を傾げた。その後に、すっ、と右手を出してから、ぼくの頭を数回撫でてくれた。よしよし、と言いながら。
それから、もう一度言った。
「大丈夫だからね。心配しないで」
「うん・・・・・・」
ぼくはそう返すのが精一杯だった。
ぼくと紗英が話しているあいだ、ずっと、鋭い視線が、ぼくを貫いていた。
紗英が部屋に戻ってから、父親はぼくになにも話しかけてはこなかったけれど、明らかに不機嫌なことが気配で伝わってきた。
ぼくは残り数口ほどで食べ終えられる昼食は残した。食器だけ片付けてから、自室へ駆け込んだ。
自室の鍵を掛けると、やっと、父親の視線が剥がれ落ちたような気がした。それまで、粘着性のある視線がぼくの体にはへばりついていた。
自室に戻ると息苦しさを覚えた。呼吸をろくにしていなかったようだ。呼吸が荒い。
ぼくは布団の中に潜り込んでから、息をゆっくりと整えた。
しばらくすると落ち着いたけれど、次は、部屋の外が気になりはじめた。
ぼくはまた耳をドアにはり付けて、外の様子を窺った。
廊下では父親と紗英が何か話をしていた。
そろそろ、外に出て行くようだった。
さきほどの紗英の顔が思い浮かぶ。あんなにきつそうなのに、父親の言うことを聞き入れた紗英。
父親のことを考えると、いろんな感情が心を渦巻くけれど、いまは紗英のことを考えても、いつもの空っぽが埋まるような感じではなくて、紗英という存在が、昼食をお店のサンプルメニューと感じたように、なんだか作り物のように思えた。
ぼくは、ふと思い立った。
二人の後をこっそりつけよう。
なぜ、あのとき、そんなことを思ったのかは分からない。火が突然燃え盛るように、そのような衝動に駆られた。
二人が外に出てから、ぼくはゆっくりとドアを開けた。母親は部屋にいることは分かっているのだけれど、二人の残像が廊下に残っているような気がして、少しだけ怖かったから。
誰も何もないことを確認すると、ぼくは玄関に向かった。靴に足を突っ込むと、踵を踏んだまま外に出た。そのとき、初めて靴の踵を踏みつけたかもしれない。