妹の指

5

 外の世界は眩しくて明るくて風が吹いていた。

 エレベーターを見ると、下の階に降りている最中だった。たぶん、二人が乗っているエレベーターだろう、と思った。階段で下りては間に合わないだろうけれど、エレベーターを待っていたら、もっと間に合わない。

 ぼくはいつ振りかに走った。それも、全力疾走だ。途中で吐きそうなぐらい、息が苦しくなった。でも、足は止めなかった。なんとか一階に着いた頃には、ぼくは体全体で呼吸をしていた。鼻と口以外でも酸素を吸っていた気がした。

 少しだけ歩けそうになったので、足を踏み出したら、地面がふわふわしているように感じた。でも、ただ、ぼくがふわふわしているだけだった。

 ゆらゆらしながら、エントランスのほうへ向かうと、二人はエントランスにまだいた。

 ぼくはとっさに通路に戻り身を隠した。

 そこから様子を窺っていると、父親は屈んで紗英に視線を合わせていた。何か言葉を掛けていたけれど、ここからでは聞き取れなかった。

 ぼくはまだ、心臓の音が他人にまで聞こえているような気がして、手で心臓をおさえた。手にははっきりと、心臓の動きが伝わってきた。

 二人がエントランスを出たときには、ぼくの心音はだいぶ元に戻っていた。

 誰かを尾行なんてしたことはなかった。とりあえず、ある程度の距離が必要な気がしたけれど、ぼくは一軒家ひとつぶんほどしか距離を空けなかった。

 ひどく緊張はしたけれど、鼓動の速さはそれだけが原因ではなかった気がする。

 自宅の外で、父親と紗英の姿を見たのは初めてだったせいもあるだろう。

 二人の様子は外でも、さほど自宅での様子と違いは感じられなかった。

 ただ、手は自宅よりもしっかりと繋いでいるように思えた。

 マンションを出ると、すぐに大きな通りにさしかかるのだけれど、車道、父親、紗英の順で歩いていた。

 ぼくはたまに木の陰や建物の陰に身を潜めながらつけていた。二人がぼくに気付く様子は全くなかった。二人は後ろを気にする暇もないほどに、何かを話していた。

 むしろ、ぼくのほうが後ろを気にしていた。ぼくが二人をつけているはずなのに、ぼく自身も誰かにつけられているような気がしていた。ぼくは道中で何度も後ろを振り返った。

 しばらく、何も進展がないまま、景色だけが変わっていった。大通りから左折して、コンビニと牛丼屋、ガソリンスタンドなどを過ぎて右折した。そこからは、街路樹が均等な距離を保って植えられていた。味気ない道路に、ささやかな安らぎを加えていた。

 二人が次に曲がったところにあったのは公園だった。

 その公園は四方をマンションに囲まれていて、ひどく窮屈そうにその存在を示していた。

 ぼくは公園の外の街路樹の陰に隠れてから、二人の様子を窺っていた。

 二人はごく普通の家族のように公園の遊技で遊んでいた。ブランコを揺らして、それから、ジャングルジムに上っていた。

 ぼくはその様子を、ただ、見ていた。微動だにせずに。汗だけがぼくの背中を、何度も伝っていった。その汗は、背中で虫が這いずり回るよりも、気持ちが悪く感じられた。

 ぼくが隠れていた場所から、二人の姿が見えなくなったとき、ぼくは興奮していたような気がする。

 息が少しだけ荒かったから。

 二人は真っ赤な色をしたコンクリート製の遊具の中に入っていった。その遊具には、滑り台やトンネルが設えてある。

 滑り台から降りた紗英を、父親はトンネルのほうへ手を引いていった。

 紗英を先に中に入れて、周りを何度か見渡してから、父親は中に入っていった。

 ぼくはその仕草に違和感を覚えて、街路樹の陰から飛び出した。急に動いたものだから、身体が驚いたのか、ずいぶんとぎこちない走り方になってしまった。

 でも、遊具に着いたときには、不思議と息はあまり切れていなかった。

 ぼくはできる限り息を殺して、トンネルから中を覗いた。

 そこには、見たことがない二人の姿があった。

 トンネルの中のちょうど中央辺りで、父親が両手で紗英の右手を掴んで、右手の親指を舐めていたのだ。掴む、と言うよりも、包み込む、そんな感じだったかもしれない。

 紗英はとても優しい目をして、父親を見つめていた。

 父親は、ただ、親指を舐めることだけに集中していたのか、目はどこか虚ろだった。

 ぼくはその場から動けなかった。忘れ去られた玩具(おもちゃ)のように、トンネルの入り口で、ただ立ち尽くしていた。

「おい、こっちにこいよ!」

 意識の隅っこのほうで声がして、いくつかの足音が、ぼくの方へ向かってきた。

 四人組で制服を着ている、高校生ぐらいの男たちだった。


 一人ずつ中を覗いていき、それぞれ、違った反応をしていた。

 最後に中を覗いたのは、長身で高校生にしては垢抜けている奴だった。そいつは父親と紗英の行為を目の当たりにしても、表情一つ変えないで、ベンチのほうに悠然と歩いていった。

 そいつにつられるように、他の三人もベンチの方に歩き始めた。

 途中でその三人は、手を叩いて、身体を折り曲げながら、品のない笑い声を上げていた。高校生になっても、ぼくのクラスメイトと変わらないような笑いかたをするんだな、とぼくはそのとき思った。

 ぼくはもう一度だけ中を覗いてみた。

 すると、父親がこちらを見ていた。とても冷たくて、寂しそうな目をして。

 ぼくはすぐに身体を引っ込めてから、公園の中にあった大きな木の陰に隠れた。

 その木までは、トンネルの入り口からそんなに距離はなかったのに、容量以上の酸素を急いで補給しなければならないほど、ぼくの心臓は脈打っていた。

 その状態のまま、ぼくは、木の陰から顔を少しだけ出して状況を確認した。

 ベンチは四人組が占拠していた。座っていたのは、長身の垢抜けた奴だけだったけれど。
 トンネルのほうを見やると、父親と紗英が出てきていた。

 父親は四人組の方に視線を送っていた。

 その後に、空を仰いでから、紗英の手を握りしめた。

 紗英はそんな父親をとても心配そうな顔をして見つめていた。なんだか、今にも泣き出しそうな顔のようにも思えた。
 父親は屈んで紗英に視線を合わせてから、何か言葉を掛けていた。ぼくの場所からは、何て言っているのか全く聞き取れなかったけれど。

 紗英の頭を撫でてから、立ち上がった父親は、歩き始めた。ベンチに向かって。

 ぼくがいる場所から見えていた父親の横顔は、後ろ姿に形を変えた。

 その姿を見て、ぼくは思わず手に力を込めた。木の幹に爪が食い込むほどに。

 父親の背中が、今までに感じたことがないほどの、怒気を含んでいたから。

 紗英もそんな父親を見て動揺したのか、キョロキョロと周りを見回していた。

 ぼくはすぐにでも紗英の元に飛んで行きたかったけれど、身体が自分のものではないようだった。少しも動かすことができないほどに。

 父親はゆっくりとした足取りで、迷いなくベンチの方に向かっていた。その姿は、どこか、揺れているようにも感じた。

 ぼくは掴まっている木から落ちそうな気がした。そんなはずはないはずなのに。もっと近くで様子を見るために、より二人に近い木に、なんとか移動した。

 鼓動で心臓が張り裂けそうだった。緊張なのか、恐怖なのか、もしかしたら、楽しんでいたのかもしれない。心のどこかで。

 最初に気付いたのは、長身の奴だった。やはり、あいつがリーダーなのだろう。

 他の三人に顎で指図をした。

 三人は父親の姿を認めると、ぎょっとしたような顔をした。ぼくの場所からは、ハッキリとは分からなかったけれど、そう見えた。

 それから、長身の奴の前に盾のように、横一列に並んだ。

 そのときには、父親はもう、飛びかかれば相手に届きそうな距離までつめていた。

 三人はそれぞれのファイティングポーズを取り、父親を迎撃する体勢を整えていた。

 次の瞬間。

 急に車道に突っ込んできた車を避けるように、三人は身をひるがえした。

 父親はその隙間をすり抜けて、長身の奴の前に立ちはだかった。

 長身の奴は肩をすくめてから、首を左右に何度か振ったように見えた。

 それから、すっと立ち上がり、父親と対峙した。

 しばらくのあいだ、膠着状態が続いた。それは、獣と獣が牽制しあっているものとは違うように感じた。

 最初に動いたのは、長身の奴だった。右肩で、父親の胸元を押しやった。父親はのけぞったけれど、すぐに元の体勢に戻った。

 長身の奴は、ひどく面倒くさそうな顔をしていた。

 次は右手で父親を押しやった。さきほどよりも、明らかに力を込めて。

 父親はよろめいて、体勢を崩した。でも、またすぐに体勢を戻して、立ちはだかった。

 長身の奴は最初と同じように、肩をすくめてから首を左右に何度か振って、他の三人に、何か声を掛けた。

 それから、父親に背を向けて、公園の出口に向けて歩き始めた。

 父親はその様子をしばらく見てから、空を仰いで、紗英の方に視線を向けた。

 紗英は泣いていた。声を出して。その声はぼくたち以外には誰もいない公園中に響き渡っていた。

 紗英の方に向かって歩き始めた父親の姿には、怒気は感じ取れなかった。

 ぼくはずいぶんと久し振りに呼吸をしたような気分だった。ぼくは目を閉じて何度も深呼吸をした。

 Tシャツは背中にべったりと張り付いていた。

 次に目を開いたときに、ぼくの目に映ったのは、長身の奴が走っている姿だった。走るというよりかは、イノシシのように突進していたようにも見えた。

 その先にいたのは、父親だった。

 そいつはその勢いのまま、何の躊躇いもなく、父親の背中にめがけて右肩からぶつかった。

 瞬間。父親の背中は、ひらがなの、く、の字を反転したように曲がって、そのまま前のめりに倒れ込んだ。

 紗英はあまりの衝撃のせいか、泣くことも忘れて、父親の元に駆け寄った。

「お父さん、お父さん」

 何度も何度も、ただその言葉だけを、紗英は掠れた声で言っていた。

 四人組はその様子を冷めた目で見ていた。特に長身の奴は、死んだ虫でも見るような目で、父親を見ていた。

 それから、四人組は瞬く間に公園から出て行った。去り際に、誰が言ったのかは分からないけれど、「気持ちわりいんだよ。お前ら!」と、叫び声がした。

 ぼくは長身の奴が言ったのだろう、と感じた。同時に、お前らには、ぼくも含まれているような気になった。

 その後に、四人組と入れ替わるようにして、老夫婦が公園に入ってきた。すぐに異変に気付いて、二人に近寄り、おばあさんが公園を出て行った。

 しばらくして、救急車が来て、ようやく事態は収束した。

 ぼくは一部始終を見ていた。ただ、見ていた。紗英が泣き叫んでいる姿さえも。

 公園内からすべての人がいなくなって、静寂が戻ってから、ぼくは紗英が泣いていた辺りに立ってみた。地面を見ても、紗英の涙はとっくに乾いていたけれど。

 ぼくはおそらく紗英の涙がこぼれ落ちたであろう辺りの砂をひとつまみつまんでから、後ろポケットの中に入れた。

 それから、ぼくは公園を後にした。
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