妹の指

7

 ぼくは高校を卒業するとアルバイトをはじめることにした。

 母親に高校を卒業してから自分にかかる費用は、自分の力で稼ぐように言われていたからだ。別に珍しいことではない。中学を卒業と同時に就職する同級生もいた。さらには、アメリカに留学をしたい、という奴もいた。別に尊敬なんてしないけれど、ぼくは、まず考えもしないし、とうていできそうにないことだった。

 アルバイトを早くはじめたい思いは強くあった。母親に世話になっている自分が許せなかったから。自分の無力さに、苛ついてもいた。でも、母親にとって、ぼくらの世話は、人間に対してのそれではなかったかもしれない。ペットの世話をするような。ペットと言っても鑑賞したり、癒しとしたりではない。なんとなく飼い始めて、死なすと後が面倒だから、とりあえず、最低限の食事は与えるという感じのものだ。

 仕事はなかなかぼくにでもできそうなものは見つからなかった。なるべく、他人と接することが少ない職種に就きたかった。でも、誰にも関わらずにお金が稼げるわけがないことぐらいは分かっていた。寮が完備してある会社に就職しようかとも考えて、調べても見た。でも、ぼくが家からいなくなると、紗英と母親の関係が心配だった。本当はただぼくが紗英から離れたくなかっただけなのかもしれないけれど。

 結局、ぼくがはじめた仕事はショッピングモールでの館内清掃だった。昼頃から夕方の前までの三、四時間だったので、勤務時間に関しては特に問題はなかった。ぼくは朝早く起きることがひどく苦手だったから。それに、長時間何かに縛られることにも疲れていた。ただ、ショッピングモールとなると、客の往来が激しそうなイメージがあった。

 ぼくは面接を受ける前に、そのショッピングモールに足を運んだ。事前にコンビニに置いてある求人雑誌で、雇用条件などは確認してはいた。その雑誌には、「未経験者歓迎。経験者が優しく指導します」。そのようなことが書いてあった覚えがある。

 高校を卒業して、何もしていない時期だったので、平日の昼間に行った。

 店内は思っていたような喧噪はなくて、ゆったりとした時間が流れていた。

 ぼくは隅から隅まで歩いて様々な店舗を、中には入らずに見回した。 

 一通り確認が終わり、帰ろうと思ったときに、清掃員と思われる人間を見つけた。その人は、ぼくよりも身長は低いのに、ぼくの二倍ほどは横には大きな白髪のおじさんだった。何かに対して、ひどく怯えているようにも見えた。

 ぼくはその人をしばらく観察してから、帰路に着いた。

 家路の途中でコンビニに立ち寄って、無料求人雑誌をラックから引き抜いた。

 そこに載っていた電話番号に、公衆電話から電話を掛けた。

 電話に出た人は女の人だった。声からするに、四十代は過ぎているように感じた。少し声がしゃがれていて、話し方が投げやりな人だった。ぼくはいつも以上にくぐもった声しか出せなかった。その女の人は、「え? え?」と何度も言っていた。ぼくの面接が受けたい意志が伝わったときには、女の人の口調は、最初よりもずいぶんと乱暴になっていた、先に電話を切ったのは向こうだった。その後、ぼくはしばらく、受話器を掛けないで、ガラスの壁に背中を預けていた。

 家に帰ると、紗英も帰宅していた。

 最近、紗英は帰りが遅くなることも多くなってきていたので、家にいたことに少しだけ驚いた。

「おかえりなさい」

 勉強をしていたのか、ノートに何かを書き込んでいた手を止めてから、紗英はそう言った。

「うん、ただいま」

「どこに行ってたの?」

「うん・・・・・・。ちょっとね。電話してきたんだ」

「電話? 誰に?」

 少しだけ綺麗に整えている眉毛を上げてから、紗英がそう言った。

「アルバイトをはじめよと思ってさ・・・・・・」

「ん? 誰が?」

「ぼくだよ……」

「ん?」

 知らない言語で話しかけられたときのような顔をしてから、紗英はまたそう言った。

「働かなくちゃ。言われたんだ、あの人に・・・・・・」

 働けるの? 紗英は心配そうに言った。


 そうするしかないから。ぼくはそう応えた。

 面接を受けるところまではいけたけれど、問題が一つあった。

 面接に着ていく服装だ。

 母親は必要最低限のものは買ってくれる。でも、本当に必要最低限のものだけだ。何かが必要なときには、その理由を紙に書いて提出しなければいけなかった。それを見て申請が通れば、無事に買ってもらえるのだ。

 高校卒業後はぼくに対してお金は出さないことを言われていたので、母には何も言わなかった。

 ぼくは紗英に相談した。

「お父さんの服を着て行ったらいいんじゃないの?」

 何を悩む必要があるの、とでも言いたげに、首を傾げてから、紗英はそう言った。

「でも・・・・・・。お母さんに見つかったら、なにを言われるかわからないよ」

 それはあくまでも、ただの言い訳だった。父親が着ていた服なんて着たくもなかったから。

「大丈夫よ。あの人は気づかないから」

「でも、ずっと、お父さんの洋服を残してるんだよ」

「ただ、それだけよ」 

 そう言った紗英の目は、ひどく冷たく感じた。憎悪の感情さえもこもってはいなかった。

 父親が生前着ていた洋服は三段のタンスに入れられていた。きちんと整理整頓されてから。それは、紗英がしたことだ。

 ぼくと紗英の洋服は一番下の段に入れてある。

 紗英はタンスのすぐ前でいつも眠っている。ぼくはいつも心配だった。もし地震がきて、タンスが倒れてきたら、とても危険だから。でも、紗英は、「大丈夫よ」としか言わなかった。

 タンスは台所とトイレからは一番離れた場所に置いてある。どちらも、母親も使用するからだ。紗英がそう決めた。少しでも母親からは離れた場所に置いておきたかったのだろう。

「開けてもいいの?」

 一応、ぼくはそう訊ねた。

「うん。貴利ならいいよ」

 紗英はそう言ってくれた。

 まずは、一番上の引き出しを開けた。

 そこには春服と夏服が入っていた。今の季節なら、この引き出しの中から服を選ばなければいけないだろう。

 とりあえず、白のTシャツを取り出した。

「ズボンは?」と聞くと、「その下よ」と紗英が言った。

 二段目の引き出しを開けると、ジーンズやチノパンがきちんと畳まれて収まっていた。それに、秋服と冬服も。

「どれがいいかな?」

「うーん、ジーンズはやっぱりやめておいたほうがいいんじゃないかな?」

 机に頬杖をついてから、首を少し傾げて、紗英はそう言った。

 紗英にそう言われたので、ぼくはチノパンを適当に選んで取り出した。

 履いて良いかどうかを目で訊ねた。

 紗英は一度だけ頷いた。

 履いてみて驚いた。少しだけ大きかったけれど、ほとんど違和感はなかったから。

 父親が着ていたTシャツにチノパンを合わせてみた。

「どうかな?」とぼくが聞くと、「いいんじゃない」と紗英は返した。それから、帰りは肌寒いかもしれないから、何か羽織って行ったほうがいいかも、とも言った。

 それから、一番下の段の引き出しを開けて、黒のジャケットを取り出した。ジャケットは紗英の洋服の一番下で、袋に丁寧に包まれていた。

 ぼくはジャケットなんて着たことはなかったけれど、紗英がせっかく用意してくれたので、袖を通してみた。

 そして、また、「どうかな?」と聞いてみた。すると、「うん、ばっちり」と紗英は笑顔で言ってくれた。

 スタンドミラーなんて、ぼくたちの住みかには置いていない。母親の部屋にはきっとあるのだろう。

 客観的に自分の姿を見ることはできなかったけれど、紗英が良いと言うなら間違いはないはずだ。

 でも、なんだか、父親の皮を被った人間になったような気がしていた。

 ぼくは着ていた父親の服を丁寧に剥いでから、自分の寝床のそばに畳んで置いた。

 面接は次の日だった。 
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